マリーヤ・アントーノヴナ・ナルィシュキナ
Maria Czetwertyńska-Światopełk, Мария Антоновна Святополк-Четвертинская, Нарышкина
公女 княжна
生:1779.02.03/02.14
没:1854.09.06/09.18(享年75)
父:アントニ・スタニスワフ・チェトヴェルティニスキ=シュヴャトペウク公 1748-94
母:?
結婚:1795
& ドミートリイ・リヴォーヴィチ 1758-1838 (レフ・アレクサンドロヴィチ・ナルィシュキン)
愛人:皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチ 1777-1825
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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ドミートリイ・ナルィシュキンと | |||
1 | マリーナ | 1798-1871 | |
2 | エリザヴェータ | -1803 | − |
3 | エリザヴェータ | -1804 | − |
4 | ジナイーダ | 1806-10 | − |
5 | ソフィヤ | 1808-24 | − |
6 | エマヌイール | 1813-1902 | アレクサンドラ・チチェーリナ |
ポーランド貴族。カトリック? 正教徒?
チェトヴェルティニスキ公家の素性ははっきりしない。リューリコヴィチと言われることが多い(トゥーロフ=ピンスク系)が、系譜を辿れるわけではない。ある程度はっきりしているのは15世紀までにはウクライナの領主貴族となっていたこと。18世紀には親露派として活躍。ポーランド分割でも大きな役割を果たし、ためにアントニ・スタニスワフ公は暴徒に殺された。
父アントニ・スタニスワフ公はワルシャワで殺されたが、その子たちは早くからサンクト・ペテルブルグで育てられていた。マリーヤ・アントーノヴナ公女の弟ボリース・アントーノヴィチ公(1784-1866)の教母はエカテリーナ2世。
若くしてドミートリー・ナルィシュキンの妃となるが、かれはツァリーツァ・ナターリヤ・ナルィシュキナの一族。
1803年、アレクサンドル1世の愛人となる。
子らのうちジナイーダとソフィヤはアレクサンドル1世の子とされている。マリーヤ・ナルィシュキナとアレクサンドル1世との関係は1819年まで続いたとされているが、末子エマヌイールの父親はアレクサンドル1世なのかドミートリー・ナルィシュキンなのか、はたまた別の誰かなのか、はっきりしない。
ミュンヘンに埋葬されている。
ちなみに、どうでもいいことだが、息子エマヌイール・ナルィシュキンの妃アレクサンドラ・チチェーリナはボリシェヴィキーに殺されたが、その甥ゲオルギイ・ヴァシーリエヴィチ・チチェーリンはソ連の外務大臣(1918-30)。