マリーヤ・キリーロヴナ
Мария Кирилловна
公女 княжна императорской крови (1907-24)
大公女 великая кнаяжа (1924-)
生:1907.01.20/02.02−パリ(フランス)
没:1951.10.27(享年44)−マドリード(スペイン)
父:キリール・ヴラディーミロヴィチ大公 1876-1938 (ヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公)
母:ヴィクトリヤ・フョードロヴナ大公妃 1876-1936 (エディンバラ公アルフレッド)
結婚:1925−コーブルク
& フリードリヒ・カール・フォン・ライニンゲン 1898-1946
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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カールと | |||
1 | エーミヒ・キリール | 1926-91 | アイリーケ・フォン・オルデンブルク |
2 | カール・ヴラディミール | 1928-90 | ブルガリア王女マリア・ルイーゼ |
3 | キラ | 1930-2005 | ユーゴスラヴィア王子アンドレイ |
4 | マルガリータ | 1932-96 | フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン |
5 | メヒティルデ | 1936- | |
6 | フリードリヒ・ヴィルヘルム | 1938-98 | − |
7 | ペーター・ヴィクトル | 1942-43 | − |
ヴラディーミロヴィチ。キリール・ヴラディーミロヴィチ大公の第一子(長女)。
ルーマニア王カロル2世(1893-1953)の従姉妹。イギリス王エドワード8世(1894-1972)、ジョージ6世(1895-1952)の又従姉妹。
マリーヤ・キリーロヴナが生まれた時は、まだ両親の結婚が皇帝ニコライ2世(1868-1918)により認められていなかった。基本国家法に従えば、皇帝の認めない結婚は非合法であり、ゆえにマリーヤ・キリーロヴナは «私生児» であった(«公女» の称号も認められなかった)。マリーヤ・キリーロヴナの誕生後に両親の結婚が認められ、マリーヤ・キリーロヴナにも皇族の一員として公女の称号が認められた。
1909年、父の権利が回復され、一家でパリからサンクト・ペテルブルグに移住。
しかし1917年の革命で、家族は再び国外へ。コーブルクを経由して、サン=ブリアック(フランス)に落ち着く。
1924年、父がロシア皇帝を自称。これに伴い «皇帝の娘» となったマリーヤ・キリーロヴナ公女は大公女の称号を与えられる。
夫のライニンゲン侯は、かつてはドイツの領邦君主だったが、すでに100年前のヴィーン会議でその地位を失った «メディアツィザーツィヤ» された家系。過去に例がないので何とも言えないが、貴賤結婚ギリギリのラインというところだろう。そのため、両親はこの結婚に失望したと言われる。とはいえ、マリーヤ・キリーロヴナ公女とライニンゲン侯は幸せな結婚生活を送った。
結婚後は、夫の領地(フランクフルト=アム=マイン近郊)に居住。
メディアツィザーツィヤ медиацизация とは、神聖ローマ皇帝直下の領邦君主の地位を失い、他の領邦君主の臣下となる(される)こと。簡単に言えば、実際には、どこかの国の貴族に «格下げ» されることである。ただし領邦君主の格式を維持、あるいは領地内の «自治» を維持する(単純に領土を併合され、それに伴い地位も失うのとは異なる)。当然、儀礼の場では君主に準ずる扱いを受ける。
ちなみに、フッガー(銀行家)、メッテルニヒ(ヴィーン会議の主役)、ホーエンローエ(ドイツ帝国宰相)、カウニッツ(マリア・テレジアの外交官)、ネッセルローデ(ニコライ1世の外務大臣)、ヴィート(アルバニア王)、ザイン=ヴィトゲンシュタイン(普露連合軍総司令官)、トゥルン&タクシスなどがそうだ。
ライニンゲン侯はハイデルベルク西方に領土を持つ独立君主だったが、ヴィーン会議でその領土はバーデン大公国、バイエルン王国、ヘッセン大公国などに分割され、ライニンゲン侯はバイエルン貴族に «格下げ» された。
夫カールはナチス海軍に召集される。1945年、敗戦とともにソ連軍の捕虜となり、強制収容所で死去。
死因は心臓発作(狭心症?)。