ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

マリーヤ・フョードロヴナ (ゾフィーア・ドロテーア)

Sophia Dorothea Augusta Luisa, Мария Федоровна

ヴュルテンベルク公女 Prinzessin von Württemberg
大公妃・ツェサレーヴナ великая княгиня, цесаревна (1776-96)
ロシア皇妃 императрица Всероссийская (1796-)

生:1759.10.14/10.25−シュテッティン(現シチェツィン、ポーランド)
没:1828.10.24/11.05(享年69)−パーヴロフスク

父:フリードリヒ・オイゲン 1732-97 ヴュルテンベルク公(1795-97)
母:フリデリーケ・ドロテーア 1736-98 (ブランデンブルク=シュヴェット辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルム)

婚約:1776
  & ヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ1世 1753-1830 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世)

結婚:1776−サンクト・ペテルブルグ
  & 皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801

子:

生没年結婚相手
パーヴェルと
1アレクサンドル(皇帝1世)1777-1825バーデン辺境伯女ルイーゼ
2コンスタンティーン1779-1831ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公女ユリアーネ
ヨアンナ・グルジニスカ
3アレクサンドラ1783-1801オーストリア大公ヨーゼフ・アントン
4エレーナ1784-1803フリードリヒ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン
5マリーヤ1786-1859ザクセン=ヴァイマール大公カール・フリードリヒ
6エカテリーナ1788-1818ゲオルク・フォン・オルデンブルク
ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世
7オリガ1792-95
8アンナ1795-1865オランダ王ウィレム2世
9ニコライ(皇帝1世)1796-1855プロイセン王女シャルロッテ
10ミハイール1798-1849ヴュルテンベルク王女シャルロッテ

ドイツの領邦君主フリードリヒ・オイゲンの第四子(長女)。ルター派。
 皇帝パーヴェル・ペトローヴィチのふたり目の妃。

ヴュルテンベルクは南西ドイツ、現在バーデン=ヴュルテンベルク州を構成する。首都がシュトゥットガルトでシュヴァルツヴァルトの森を有する、と言った方がわかりやすいか。ドイツの諸領邦のご多分にもれず、ヴュルテンベルクも諸子分割により細分化されていたが、しばらく前に再統一されていた。

 ゾフィーア・ドロテーアが生まれた頃のヴュルテンベルク公は、若き日のフリードリヒ・シラーの «迫害者» としても知られるカール2世・オイゲン(1728-93)。次弟ルートヴィヒ・オイゲン(1731-95)に続き、ゾフィーア・ドロテーアの父フリードリヒ・オイゲンは末弟であった。如何せん末弟では先の見通しは暗く、フリードリヒ・オイゲンは旭日の勢いにあったフリードリヒ大王を頼ってプロイセン軍人となった。
 しかし幸い(?)なことにカール・オイゲンにもルートヴィヒ・オイゲンにも男子がなく、このまま行けばいずれはフリードリヒ・オイゲンなりその子なりが公位を継ぐという見通しが強くなるにつれ、フリードリヒ・オイゲン一家の株も上昇(実際に公位を継いだのは1795年)。1769年、ゾフィーア・ドロテーアが10歳の時、プロイセン軍を退役した父はメンペルガルトに居を構えた。

メンペルガルトは今日のフランスのフランシュ=コンテ地方にあったヴュルテンベルク公の所領。フランス語でモンベリアール。

 1776年、ゾフィーア・ドロテーアはヘッセン=ダルムシュタット方伯の跡取り息子ルートヴィヒと婚約する。
 しかしその直後、婚約者の妹が死去。運命のめぐり合わせは皮肉なもので、この婚約者の妹というのがロシア皇太子パーヴェル・ペトローヴィチ大公の妃ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃であり、その後釜にとフリードリヒ大王(1712-86)に推挙されたのがゾフィーア・ドロテーアだった。フリードリヒ大王としては、かつての部下の娘ということで(しかもその母フリデリーケ・ドロテーアはフリードリヒ大王の姪)、ロマーノフ家とのつながりを確保できると考えたのだろう。
 哀れな婚約者にはフリードリヒ大王から慰謝料が払われ、ゾフィーア・ドロテーアは喜んで婚約を破棄したようだ。
 ベルリンで引き合わされたゾフィーア・ドロテーアとパーヴェル・ペトローヴィチ大公は早速互いが気に入り、ゾフィーア・ドロテーアが正教に改宗してマリーヤ・フョードロヴナとなったのを受けてその年のうちに結婚式を挙げた。

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公は容貌はお世辞にも美男子とは言えず(と言うより、少なくともその肖像画から判断する限り、正直醜い)、性格的にも難しい人間だったが、なぜかマリーヤ・フョードロヴナ大公妃は心底パーヴェル・ペトローヴィチ大公を愛したようだ。マリーヤ・フョードロヴナ大公妃は背が高く、少々太り気味で、その点で貧相なパーヴェル・ペトローヴィチ大公とは対照的。社交を好んだ点でもこれを嫌った夫とは正反対だったが、秩序を重んじ倹約的だった点では一致していたかもしれない。
 パーヴェル・ペトローヴィチ大公に対する感情は対照的だったが、義母エカテリーナ2世と対立するようになった点では前妃ナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃と一緒。マリーヤ・フョードロヴナ大公妃は衣装から家具から女官からすべてナターリヤ・アレクセーエヴナ大公妃のものを引き継いだが、義母に対する感情までも引き継いだわけだ。
 ましてや第一子、第二子ともにエカテリーナ2世に取り上げられたとあってはなおさらだろう。

 ちなみに、第一子アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公の誕生の «褒美» として、パーヴェル大公夫婦にはパーヴロフスクが与えられ、長女アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女が生まれた時にはガッチナが与えられている。
 パーヴェル・ペトローヴィチ大公はガッチナを自らの «小宮廷» とし、母に対抗。母から与えられたわずかな部隊にプロイセン風の教練を施すことに心血を注いだ。一方のマリーヤ・フョードロヴナ大公妃は、義母から出費を制限されている中で、パーヴロフスクの美化に熱心にあたった。

 ちょうど長女の生まれた直後辺りに、侍女であったエカテリーナ・ネリードヴァパーヴェル・ペトローヴィチ大公の愛人となる。もっともパーヴェル・ペトローヴィチ大公はふたりの関係がプラトニックなものであると主張し続け、最終的にはマリーヤ・フョードロヴナ大公妃もふたりの関係を受け入れている。
 以後、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃はむしろエカテリーナ・ネリードヴァを協力者として、手を取り合ってパーヴェル・ペトローヴィチ大公を «操縦» する術を身につけていった。

 長男アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公と次男コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の結婚では、蚊帳の外に置かれていた。それもあってか、それぞれの嫁との関係は最初から悪かったようだ。エリザヴェータ・アレクセーエヴナ大公妃アンナ・フョードロヴナ大公妃も、ともにエカテリーナ2世に懐いていたことも、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃の反感を買った理由となったかもしれない。さらには、権力志向の強かったマリーヤ・フョードロヴナ大公妃が、息子たちに対する影響力を嫁に奪われるのを嫌ったということもあるだろう。
 アンナ・フョードロヴナ大公妃の弟レーオポルト(のちのベルギー王。当時はロシア軍に勤務していた)によると、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公アンナ・フョードロヴナ大公妃との関係が破綻したのは、一にかかってマリーヤ・フョードロヴナ大公妃のせいらしい。

 1796年、エカテリーナ2世が死んでパーヴェル・ペトローヴィチ大公が皇帝として即位。マリーヤ・フョードロヴナはついに念願の最高権力の座に就いた。
 皇后となったマリーヤ・フョードロヴナは、積極的に政治に口出しをするようになる(エカテリーナ・ネリードヴァを通じて、ではあったが)。特に力を注いだのが女性を取り巻く環境の改善であり、«貴族女性の養育協会» や養育院(孤児や私生児)を監督する官庁を任された。盲人のための学校、女性のための学校も創設している。のちにこれらの諸施設を統括する «皇妃マリーヤの諸施設の官庁 Ведомство учреждений императрицы Марии» が創設され、歴代皇后がその責任者となって慈善・教育活動を行う伝統ができる。
 マリーヤ・フョードロヴナはまた芸術を愛好し、音楽や文学のみならず手芸、工芸、園芸などにも関心を寄せた。パーヴロフスクやガッチナだけでなく、夫の即位後はツァールスコエ・セローや冬宮などの装飾も彼女自身が監督して模様替えさせている。

 1798年頃から始まったパーヴェル・ペトローヴィチアンナ・ロプヒナーとの関係は、パーヴェル・ペトローヴィチとマリーヤ・フョードロヴナの関係を冷え込ませた。この時マリーヤ・フョードロヴナはエカテリーナ・ネリードヴァを擁護し、ために怒ったパーヴェル・ペトローヴィチエカテリーナ・ネリードヴァを沿バルト地方に追放している。
 言うならば最大の協力者を失った形のマリーヤ・フョードロヴナは、政治的に無力となった。

 1801年、クーデタでパーヴェル・ペトローヴィチが暗殺された。この時マリーヤ・フョードロヴナは、血まみれの夫の遺骸に取りすがって泣いたと言われる。
 未亡人となった皇太后マリーヤ・フョードロヴナと、暗殺に関与したと見られるアレクサンドル1世との関係はぎくしゃくしたものになった。一説には皇太后マリーヤ・フョードロヴナ自身、義母のように自ら権力を握ろうとしたとも言われる。
 しかし、そもそもアレクサンドル1世エカテリーナ2世に取り上げられていたにもかかわらず、母子の関係は親密なものだった。やがて皇太后マリーヤ・フョードロヴナが権力獲得の野望を棄てたのか、両者の関係は好転する。

 新たに皇后となったエリザヴェータ・アレクセーエヴナが社交的ではなかったためもあってか、世代交代したにもかかわらず、18世紀の女帝の時代そのままのような皇太后マリーヤ・フョードロヴナのパーヴロフスクは、相変わらずロシア宮廷の中心であった。
 本来宮廷の席次は皇后が皇太后に優先するが、即位の際の事情もあって、アレクサンドル1世は皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナより皇太后マリーヤ・フョードロヴナを上座に据えた(儀式の際にはアレクサンドル1世はマリーヤ・フョードロヴナの手を取って先頭に立ち、エリザヴェータ・アレクセーエヴナは皇弟の誰かと並んでその次を歩くことになった)。その結果、以後のロシア宮廷では、皇太后が皇后に優先するという独自の風習が定着した。
 もっともこれには、嫌いなエリザヴェータ・アレクセーエヴナにファーストレディの地位を明け渡したくないというマリーヤ・フョードロヴナ自身の思いも働いていたのだろう。

 当然のことだが、もはやパーヴェル時代ほどの政治的影響力は発揮できなくなった。とはいえ、相変わらず «皇妃マリーヤの諸施設の官庁» を運営し、息子から毎年多額の経費を絞りとっている。
 反ナポレオンの急先鋒で、ナポレオンが娘にプロポーズしてきた時には断固拒否している。それどころか、ティルジットの和約でアレクサンドル1世がナポレオンと手を結ぶと、公然とこれに反対。皇太后が自ら息子の政策に反対して自分の周囲に反対派を結集するという、異常事態を引き起こした。皇室がここまで分裂したのは、後にも先にもこの時とニコライ2世時代ぐらいしかないだろう。しかもニコライ2世時代に皇帝に反旗を翻したのは、皇族とはいえニコライ2世の家族ではない。

 一説には次男コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公を嫌い、三男ニコライ・パーヴロヴィチ大公と末男ミハイール・パーヴロヴィチ大公を偏愛していたと言われる。コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が皇位継承権を放棄するに至ったのも、マリーヤ・フョードロヴナの策謀だったともされる。

 1825年にアレクサンドル1世が死んだ後も、後を継いだニコライ1世の宮廷の中心であり続けた。おそらく歴代皇妃のなかで、もっとも皇妃らしい皇妃だったと言えるだろう。
 ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬されている。

 なお、彼女にも愛人がいたとの噂が存在する。ひとりは彼女の秘書官セルゲイ・イリイーチ・ムハーノフ、もうひとりは宮廷の下級士官ダニーラ・バープキン。アンナ・パーヴロヴナ大公女以下の子供たちはダニーラ・バープキンの子供だとの噂すらある。とするならば、ニコライ1世以下、すべてのロマーノフはダニーラ・バープキンの子孫であり、ロマーノフの血は流れていないことになる。

甥オイゲン2世(1788-1857)、弟アレクサンダー1世(1771-1833)とその子たちアレクサンダー2世(1804-81)とエルンスト(1807-68)が、彼女のつてを頼ってロシア軍人となっている(いずれの子孫もその後ヴュルテンベルクに戻っている)。

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最終更新日 07 03 2013

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