ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

クセーニヤ・アレクサンドロヴナ

Ксения Александровна

大公女 великая княжна
大公妃 великая княгиня (1894-)

生:1875.03.25/04.06−サンクト・ペテルブルグ
没:1960.04.20(享年85)−ハンプトン・コート(イギリス)

父:皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ 1845-94
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1847-1928 (デンマーク王クリスティアン9世)

結婚:1894−ペテルゴーフ
  & アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公

子:

生没年結婚相手
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公と
1イリーナ1895-1970フェリクス・ユスーポフ公
2アンドレイ1897-1981エリザベッタ・ディ・サッソ=ルッフォ公女
ナディーヌ・マクドゥガル
3フョードル1898-1968イリーナ・パーレイ公女
4ニキータ1900-74マリーヤ・ヴォロンツォーヴァ=ダーシュコヴァ伯女
5ドミートリイ1901-80マリーナ・ゴレニーシチェヴァ=クトゥーゾヴァ伯女
シーラ・キスホルム
6ロスティスラーフ1902-78アレクサンドラ・ゴリーツィナ公女
アリス・アイルケン
ヘドヴィヒ・フォン・シャピュイ
7ヴァシーリイ1907-89ナターリヤ・ゴリーツィナ公女

皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの第四子(長女)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの妹。従兄弟はデンマーク王クリスティアン10世(1870-1947)、ノルウェー王ホーコン7世(1872-1957)、ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)、イギリス王ジョージ5世(1865-1936)。

 1881年にカフカーズからサンクト・ペテルブルグに戻ってきたミハイロヴィチの下の子供たちは、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女や兄たちの遊び仲間となった。中でもアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公に対してはクセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女は早くから好意以上の感情を抱いていたようで、1890年頃(15歳前後)にはすでにかれとの結婚を考えていたらしい。両親は当初アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公との結婚に反対だったようだが、アレクサンドル大公の父ミハイール・ニコラーエヴィチ大公の介入もあって、1894年、ふたりは結婚した。ミハイロヴィチの所領であるクリミアのアイ=トドルで蜜月旅行中、アレクサンドル3世が死去。

 夫の職務の影響か、海軍軍人の未亡人や孤児に対する慈善活動に従事。また、兄ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ大公を結核で失くしたせいか、クリミアにある結核病院にも多大の支援をした。

 アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公との結婚生活は末子ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ公妊娠中にはすでに破綻していた。1906年、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はビアリッツで愛人をつくり、翌1907年にはクセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女も F という頭文字で知られるイギリス人と関係を持つようになった。この関係は、少なくとも第一次世界大戦までは続いた。

 長兄ニコライ2世とも、結婚前のアレクサンドラ・フョードロヴナとも親しかったが、1900年頃からアレクサンドラ・フョードロヴナとの関係が徐々に緊張したものに変わっていき(次々と男子を産むクセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女に、女子しか産まないアレクサンドラ・フョードロヴナが «嫉妬» したのだとも言われる)、それもあってニコライとの関係も薄れていく。ラスプーティンには当初から懐疑的だった。
 弟ミハイール・アレクサンドロヴィチ大公とも仲が良く、貴賎結婚で国外追放された時にはかれとその妻ナターリヤ・シェレメーティエフスカヤをカンヌに招いている。さらには母とふたりの仲も取り持っている。

 第一次世界大戦勃発時にはフランスに。ロンドンにいた母とカレーで合流。ベルリンで娘夫婦とも合流し、デンマークを経由してフィンランドからサンクト・ペテルブルグに帰還した。その後は後方医療活動に従事。依然ニコライ2世アレクサンドラ・フョードロヴナとの関係は緊張したものであった。

 1915年にニコライ2世が自ら最高総司令官に就任した際には、母とともにこれに反対してやめさせようとしたが、徒労に終わった。
 ニコライ2世がモギリョーフの最高総司令部にいる間、ペトログラードでは皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナがほとんど摂政のような形で政務を取り仕切った。アレクサンドラ・フョードロヴナの発言力増大に危機感を覚えたクセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女と母、妹オリガ・アレクサンドロヴナ大公女は、ミハイロヴィチの家長であるニコライ・ミハイロヴィチ大公に、ニコライ2世へ書簡を書くよう要請。1916年、ニコライ・ミハイロヴィチ大公は皇妃批判の書簡をニコライ2世に送ったが、しかしニコライ2世は封を切ろうともしなかった。一方でアレクサンドラ・フョードロヴナはこれを読み、一族への反感を募らせた(ニコライ・ミハイロヴィチ大公は所領に蟄居させられた)。
 クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女はクリミアのアイ=トドルへ。母はすでに1915年からキエフのオリガ・アレクサンドロヴナ大公女のもとに滞在していた。
 1917年、二月革命の勃発時にはペトログラードにいた。しかし退位したニコライと連絡を取ることもできず、状況が悪化する中、再びアイ=トドルへ。やがてここに母、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女、その夫クリコフスキイが逃亡してくる。

 しかし革命はクリミアにも波及してきた。臨時政府はアイ=トドルの皇太后、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女一家、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女一家を自宅軟禁状態に置いた。その後十月革命でボリシェヴィキーが権力を握ると、1918年、その勢力がクリミアにも伸びてくる。セヴァストーポリ・ソヴィエトとヤルタ・ソヴィエトが、皇族の身柄を巡って対立。しかしボリシェヴィキーがかれらを拘束する直前、ドイツ軍がクリミアに侵攻。その後ドイツでも革命が勃発してドイツ軍は降伏したが、その頃には白衛軍が南ロシアからクリミアにかけて掌握していた。こうして一時的な平穏が訪れた。
 1918年11月、イギリス軍が進駐。パリ講和会議に働きかけるためアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が出国したが、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女や皇太后、オリガ・アレクサンドロヴナ大公女一家は残留した。しかし1919年に入ると内戦の状況も逆転し、赤軍が南ロシアに迫ってきた。このため、1919年4月イギリスの派遣した軍艦で、ニコラーエヴィチともどもクリミアを後にして亡命。

 皇太后、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女と子供たちは、マルタを経てイギリスへ。母はその後デンマークに赴くが、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女はイギリスにとどまった。
 1920年、イギリス政府から、ニコライ2世の長妹としてそのイギリスにおける不動産の相続者として認められた。とはいえ5年もすると彼女の財政状況は苦しくなってきた。夫アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公はパリに住んでおり、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女はしばしばコペンハーゲンの母を訪ねたりして、皇族時代の生活感覚からなかなか脱却できなかったのだろう。ついには従兄弟のイギリス王ジョージ5世からフロッグモア・ハウスを住居として提供してもらっている。1937年にはハンプトンコート宮殿に移った。
 1933年、南仏でアレクサンドル・ミハイロヴィチ大公が死ぬと、その葬儀に参列している。長く別居状態にあり夫婦関係は破綻していたが、手紙のやり取りをするなど親密(?)な関係は維持されていた。

 死後は、クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女自身の遺志により、南仏ロクブリューヌの夫の隣に埋葬された。

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最終更新日 07 03 2013

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