ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

コンスタンティーン・パーヴロヴィチ

Константин Павлович

大公 великий князь
ツェサレーヴィチ цесаревич (1799-)

生:1779.04.27/05.08−ツァールスコエ・セロー
没:1831.06.15/06.27(享年52)−ヴィテブスク

父:皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1759-1828 (ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世・オイゲン)

結婚①:1796−サンクト・ペテルブルグ(1820離婚)
  & アンナ・フョードロヴナ 1781-1860 (ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公フランツ)

愛人:クララ=アンヌ・ド・ロラン

結婚②:1820−ワルシャワ
  & ヨアンナ 1795-1831 (アントン・グルジニスキ伯)

子:

生没年結婚相手
?と (姓はアレクサンドロフ)
1パーヴェル1808-57アンナ・シチェルバートヴァ

皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの第二子(次男)。
 皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチの弟で、のちの皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチの兄。

 祖母の女帝エカテリーナ2世により、コンスタンティノープルを首都とするビザンティン帝国の皇帝たるべき男子としてコンスタンティーンと名づけられたという。そのためか、通常のフランス語やドイツ語に加え、ギリシャ語も学んだ。
 1768年から74年の露土戦争では、ロシア軍は連戦連勝でイスタンブール(コンスタンティノープル)にまで迫る勢いであった。コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の誕生した1779年時点では、コンスタンティノープルを首都とする帝国の建設も、決して夢物語ではなかったのか?

 兄アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公同様、祖母のもとで育てられる。しかしエカテリーナ2世は実際の教育は他人任せであり、現実にコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の養育にあたったのは、兄と同様、セザール・ラ・アルプだった。そのため兄同様のリベラリストに育つ。
 しかし同時に、これまた兄アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公同様、父の影響を受け、軍事教練に深い関心を寄せる。外見的にも性格的にも父に似ていた。戦争を嫌ったと言われ、その理由が「軍隊をダメにするから」というのだから、その点は父にそっくりだった。

 祖母にあつらえられた相手と16で結婚。結婚生活は不幸なものであったが、主な原因は軍務にかまけて妻を顧みなかったコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の方に求められるだろう。しかし、言わば火に油を注いだのが母のマリーヤ・フョードロヴナであった。妻アンナ・フョードロヴナ大公妃の弟レーオポルト(のちのベルギー王)が当時コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の連隊に勤務していたが、かれに言わせると、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公とアンナ・フョードロヴナ大公妃の関係が壊れた最大の要因はマリーヤ・フョードロヴナにある。
 1799年、アンナ・フョードロヴナ大公妃はコーブルクに逃げ帰る。説得されて一旦はサンクト・ペテルブルグに戻ってきたが、1801年、再び出奔。
 1814年、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公はやり直そうとアンナ・フョードロヴィチ大公妃と連絡を取るが、アンナ・フョードロヴィチ大公妃の拒絶に会う。

 1796年、エカテリーナ2世が死に、父が即位。これに伴いイズマイロフスキイ連隊長。1797年、砲兵総監・士官学校総監。
 1799年、スヴォーロフのアルプス越えで有名な遠征に従軍。バッシニャーノの戦いではコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の失敗で敗北したとされるが、ノーヴィの戦いでは活躍。父から、本来皇太子にのみ与えられるはずのツェサレーヴィチの称号を与えられた。

 1801年、父が殺され、兄が即位。コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は皇太弟となる。しかしどうもかれは皇位継承に関心がなかったようで、政治からも身を引いていた。と言うよりも、そもそも政治には関心がなかったと言うべきだろう。外交にしても軍事の延長としか見ていなかった節もあり、結局かれが熱中したのは軍務だけだった。個人的な勇猛さには事欠かなかったが、軍事的才能には欠けていたと言わざるを得まい。ナポレオンとの戦いにも従軍しているが、アウステルリッツの戦いを筆頭にこれといった活躍はしていない。

 ティルジットの和約後、ナポレオンの崇拝者となり、母が反ナポレオン派の頭目となったのに対してコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は親ナポレオン派の中心人物となった。しかしそのために、徐々に対仏関係が悪化してくると、兄との関係も微妙なものとなっていく。1812年の祖国戦争でもナポレオンとの講和を主張し続け、ロシアから撤退したフランス軍への追撃にも反対した。バルクラーイ=デ=トーリは2度にわたってコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公を軍務からはずした。

 1814年、ワルシャワ大公国駐留軍司令官。ヴィーン会議でポーランド王国が成立した後も、王国軍総司令官としてワルシャワに居住(のち、リトアニア軍総司令官と旧ポーランド=リトアニア領の軍司令官も兼任)。事実上のポーランド副王として君臨した。ちなみに、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公に公式に与えられたのは軍事指揮権だけであり、正式なポーランド副王はほかにいた(ポーランド人ユゼフ・ザヨンチェク将軍)。しかしポーランドの実権を握っていたのがコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公であったことに違いはない。
 秘密警察を使ってポーランド独立を目指す愛国的運動を弾圧した。さらに高級ポストにロシア人を任命し、アレクサンドル1世が遵守を誓っていた憲法を無視してセイム(ポーランド国会)とも対立(当時のセイムは比較的ロシアとの同君連合に賛成だった)。性格的にも高圧的で厳格であったため、ポーランドでの人気は最低だったらしい。
 しかしポーランドを自分のものとでも思ったか、余所から文句をつけられた時にはポーランドを擁護した。ポーランド自治には肯定的だったとも言われるが、それもポーランド人の民族感情を考慮してのことではなく、私領の権限拡大といった感覚だったのかもしれない。

 1820年、アンナ・フョードロヴナ大公妃と最終的に離婚(ロマーノフ家の男子としてピョートル大帝以外で革命前に離婚した唯一の例)。ヨアンナ・グルジニスカと再婚した(ロマーノフ家男子として事前に皇帝の承認を得て貴賎結婚をした唯一の例)。
 これに際して、皇位継承権を放棄。本来父の定めた法によれば、貴賎結婚により生まれた子には皇位継承権はないが、貴賎結婚をした本人(コンスタンティーン大公)の皇位継承権は否定されない。しかしコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公自身皇位継承に関心がなかったこともあり、兄の後継者は次弟のニコライ・パーヴロヴィチ大公とされた。なお、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が、しなくてもいい皇位継承権放棄をした背景には、三男ニコライ・パーヴロヴィチ大公を偏愛した母の圧力があったという意見もある。
 この決定は1823年にアレクサンドル1世の勅令で正式なものとなったが、この勅令はおおやけにはされず、当事者たるニコライ・パーヴロヴィチ大公にすら知らされなかった(この措置に他意はなく、ニコライ・パーヴロヴィチ大公自身が自分の皇位継承の可能性を論じることを嫌ったため。数年前にもアレクサンドル1世が「次の次はお前だ」的なことを言ったが、ニコライ・パーヴロヴィチ大公は耳を貸さなかったという)。

 1825年、アレクサンドル1世が死去。サンクト・ペテルブルグではニコライ・パーヴロヴィチ大公が貴族や軍とともに «皇帝コンスタンティーン1世» に忠誠を誓い、一方コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公はワルシャワでニコライ・パーヴロヴィチ大公を皇帝として忠誠を誓った。
 ニコライ・パーヴロヴィチ大公は、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の皇位継承権放棄を定めたアレクサンドル1世の勅令を個人的に知らなかったこともあり、また周囲の誰も知らなかったために自らが皇帝を名乗ると混乱が起こることを怖れて、しばらく逡巡し、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公をサンクト・ペテルブルグに召喚した(すでに «皇帝コンスタンティーン1世» を刻んだルーブリ硬貨も鋳造された)。しかしコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公はワルシャワを動かなかった。こうしてしばらくふたりの皇帝が並び立つことになった(しかもお互いに「自分が皇帝だ」と主張したのではなく、「相手が皇帝だ」と主張していた)。
 あくまでコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公がワルシャワを動こうとせず、しかもサンクト・ペテルブルグではデカブリストの蜂起計画が発覚したこともあって、最終的にニコライ・パーヴロヴィチ大公は自ら皇帝を名乗り(アレクサンドル1世の死から約1ヶ月後)、翌日勃発したデカブリストの乱を鎮圧する。
 なお、この時デカブリストが「コンスタンティーン万歳! コンスティトゥーツィヤ万歳!」と叫んで蜂起した、という話がいつの間にか広まっている。«コンスティトゥーツィヤ» とは憲法のことだが、当時ロシア語に輸入されたばかりのこの言葉を知らない人々はみなコンスタンティーン大公の妃の名だと勘違いしていた、などと実しやかに言われる。
 この時の対応はコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の政治オンチぶりを如実に示しているように思える。

 皇帝ニコライ1世のもとでも、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公はツェサレーヴィチの称号とポーランド王国軍総司令官の職務を認められた。
 1826年、ニコライ1世の勅令で、皇位継承順位は筆頭が皇太子アレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公、第2位は皇弟ミハイール・パーヴロヴィチ大公とされ(当時はまだニコライ1世には息子がアレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公しかいなかった)、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の皇位継承権は改めて否定された。

 コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公はデカブリストの叛乱へのポーランドのかかわりを否定し、ニコライ1世と対立。さらにその対外政策でも対立する場面がしばしば見られ、露土戦争(1828-29)にポーランド兵が従軍しなかったのはコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の主張によるものらしい。
 実の兄で、形式上は臣下になったとはいえ、20歳も年上のコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の扱いにはニコライ1世も苦労しただろう。

 1830年、ワルシャワで十一月蜂起が勃発。ポーランド人のロシアに対する忠誠心に疑いを持たなかったコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は完全に虚をつかれ、政治的・軍事的にまったく対処ができなかった。サンクト・ペテルブルグに帰還途上、コレラで死去。
 ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に葬られている。

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最終更新日 07 03 2013

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