コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ
Константин Константинович
公 князь императорской крови
生:1890.12.20/1891.01.01−サンクト・ペテルブルグ
没:1918.07.17-18(享年27)−アラパーエフスク
父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
結婚:なし
子:なし
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第四子(三男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従兄弟。
演劇に熱心だったのは父の影響だろう。
海軍軍人になるよう定められていたが、幼少より病弱で(兄弟はみな病弱だった)、陸軍に転向。陸軍幼年学校に通う。イズマイロフスキイ連隊に配属された。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公自身は幼年学校卒業後モスクワ大学に進学したかったらしいが、許されなかった(ちなみに大学で正規に学んだロマーノフは革命までひとりもいない。ただしこれはロマーノフに限った話ではなく、当時のヨーロッパの王族の多くは軍事教育しか受けていない)。
又従姉妹にあたるルーマニア王妃マリア(マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女の娘)の娘エリサベタ(1894-1956)との結婚を望む。しかし1910年前後のバルカン情勢は、ルーマニア、セルビア、ブルガリア、ギリシャに加え、ロシアとオーストリア、さらにはイギリスやドイツなど列強の思惑が入り乱れていた。特にロシアがセルビア、ブルガリアのスラヴ系を後押ししてギリシャ、ルーマニアの非スラヴ系正教諸国が独墺に接近していたこともあり、長兄ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公がセルビア王女と1911年に結婚したことから、コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公とエリサベタの結婚話は流れてしまった(エリサベタはのちギリシャ王ゲオルギオス2世の妃となった)。
第一次世界大戦では前線で従軍。
十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、当初はロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを禁じるだけで満足していた。しかし1918年春には国内流刑へと方針変更。4月、コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公は兄ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公、弟イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ公、さらにセルゲイ・ミハイロヴィチ大公、ヴラディーミル・パーレイ公とともにヴャートカに送られる。
ヴャートカでの生活は比較的自由なものであった。しかし4月最後の日にかれらはエカテリンブルグに転送される。数日後、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃が合流。
エカテリンブルグでもそれなりの自由が認められたが、当然、当時イパーティエフの家に監禁されていた皇帝一家との接触は禁じられた。
5月半ばには、エカテリンブルグの北方にあるアラパーエフスクに再転送された。ロマーノフ一族を一ヶ所にまとめておく危険性を認識したのだろう。ここでもかれらは街中を歩くことを許されるなど、比較的自由に暮らすことができた。
しかし6月に入り、白衛軍がウラルに接近するにつれ、かれらに対する規制も強化されていく。6月13日、ペルミでミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が処刑される。7月17日から18日にかけての夜、エカテリンブルグで皇帝一家が処刑されたちょうど次の晩、アラパーエフスクでコンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公らも処刑された。
コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公の遺骸は、直後にここを占領した白衛軍により回収され、アラパーエフスキイ大聖堂に改葬された。しかし1920年になって、敗退する白衛軍により持ち去られ、イルクーツクを経て、最終的には北京の聖セラフィーム・サローフスキイ大聖堂に再埋葬された(現在は取り壊されて公園になっている)。