ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

カール・フリードリヒ

Karl Friedrich, Karl Fredrik, Карл Фридрих

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公 Herzog von Sleswig-Holstein-Gottorp(1702-)

生:1700.04.19/04.30−ストックホルム(スウェーデン)
没:1739.06.07/06.18(享年39)−ロルフスハーゲン(シャウムブルク、ドイツ)

父:フリードリヒ4世 1671-1702 ホルシュタイン=ゴットルプ公(1695-1702)
母:ヘドウィガ・ソフィア 1681-1708 (スウェーデン王カール11世)

結婚:1725−サンクト・ペテルブルグ
  & アンナ・ペトローヴナ 1708-28 (皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ

子:

生没年結婚相手
アンナ・ペトローヴナと
1カール・ペーター・ウルリヒ(皇帝ピョートル3世)1728-62アンハルト侯女ゾフィー(女帝エカテリーナ2世)

北ドイツの領邦君主フリードリヒ4世の唯一の子。ルター派。
 叔父はスウェーデン王カール12世(1682-1718)。

ホルシュタイン=ゴットルプ公家は、正式にはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公家といい、デンマークの王家であるオレンボー家(オルデンブルク家)の分家である。デンマークに属するシュレスヴィヒ公領と、ドイツ(神聖ローマ帝国)に属するホルシュタイン公領とは、どちらもオレンボー家の領土であり、ホルシュタイン=ゴットルプ家の所領はこの双方に複雑に分散していた。中心都市にちなんでホルシュタイン=ゴットルプと呼ばれる。

 母はスウェーデン王女であり、父フリードリヒ4世もスウェーデン軍人。
 1702年に父が北方戦争に従軍して戦死。1708年には母も死に、カール・フリードリヒは母方の叔母スウェーデン王女ウルリカ(1688-1741)に引き取られた。
 ホルシュタイン=ゴットルプ公領は父の死後、父方の叔父クリスティアン・アウグスト(のちのスウェーデン王家・オルデンブルク大公家の祖)が摂政として管理した。

 1709年、ポルターヴァの敗戦で、スウェーデンでは北方戦争を何とか終息させようとの機運が高まった。その際、ポンメルン(ポモージェ)を棄ててもフィンランドを護り、東方に領土を拡大しようとするか(つまりロシアを主敵とするか)、あるいは東方で領土を割譲してでもバルト海南部に領土を拡大していくか(つまりデンマーク、ポーランド=ザクセンを主敵とするか)、という選択肢があった。
 当時のスウェーデンにはもうひとつ大問題があり、それは王カール12世に子も弟もなかったことである。後継候補としては、姉の子であるカール・フリードリヒか、妹ウルリカがいた。
 このふたつの問題が微妙にからみあいながら、その後10年間のスウェーデン政治は推移する。

 カール・フリードリヒとしては、まずはスウェーデン王位を獲得することが第一の目標であった。
 かれの領土ホルシュタイン=ゴットルプ公領は、その一部がデンマークに属するシュレスヴィヒ公領に存在していたが、デンマーク王は領土の統一のためこれを虎視眈々と狙っていた。カール・フリードリヒとしては領土の保全・拡大のために、主君であるデンマーク王と争わざるを得ない。いきおい、カール・フリードリヒはロシアとの講和を主張することになる。
 これに対して、1715年、ウルリカはヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ1世(1676-1751)と結婚する。この年、ブランデンブルク=プロイセンとハノーファーも北方戦争に参戦しており、フリードリヒ1世が隣国と事を構えるわけにもいかない、という事情もあって、ウルリカはデンマーク、ポーランド=ザクセンとの講和を主張することになった。

 1718年、カール12世が死去。両派は激しく争うが、結局1719年、ウルリカが後継者となった。
 こうして反露派が権力を握ると、スウェーデンは1720年、フレデリクスボリ条約でデンマークと講和。カール・フリードリヒがシュレスヴィヒ公領内に持っていた領土がデンマークに割譲された。

女王となったウルリカは、王権を制限する新憲法を不服として、1720年には退位。夫フリードリヒ(スウェーデン語ではフレドリク)が即位した。フレドリクは政治にはほとんど口を出さず、宰相を中心とした貴族たちの傀儡に甘んじていた。
 フレドリク、ウルリカ夫婦には子がなく、1751年にフレドリクが死んだ時には改めて王位継承が問題となった。一旦はカール・フリードリヒの子カール・ペーター・ウルリヒが継承者とされたが、かれがロシアの皇太子になると、スウェーデンとロシアの交渉の結果、カール・フリードリヒの従兄弟アードルフ・フリードリヒ(クリスティアン・アウグストの子)が王位を継承することとなった。

 スウェーデン王位獲得の夢を断たれたカール・フリードリヒは、せめてデンマークに奪われた領土だけでも取り戻そうと、一層ロシアに接近。1721年、カール・フリードリヒはサンクト・ペテルブルグへ。ピョートル大帝の娘たちのいずれかと結婚をするためだった。
 結婚交渉は長引いたが、結局1724年になって長女のアンナ・ペトローヴナとの結婚がまとまった。
 ピョートル大帝と結んだ結婚契約では、カール・フリードリヒもツェサレーヴナ・アンナ・ペトローヴナもその子孫もロシア皇位継承権を放棄する。しかし秘密条項では、アンナ・ペトローヴナに男子が誕生した場合、ピョートル大帝は必要に応じてその子を後継者とすることができるとされた。またカール・フリードリヒもアンナ・ペトローヴナもそれぞれの信仰(ルター派と正教)を保持し、生まれた子は男子であればルター派(ホルシュタイン=ゴットルプ公位の継承権者であるから)、女子であれば正教徒(女子にホルシュタイン=ゴットルプ公位継承権はないから)として育てられることが定められた。
 1725年、ピョートル大帝が死去。婚約者アンナ・ペトローヴナの母親エカテリーナ1世が即位した。カール・フリードリヒはアンナ・ペトローヴナと結婚し、最高枢密院のメンバーに抜擢されてロシアの政治に参画した。
 しかしロシアの対外政策は、カール・フリードリヒの思惑通りにはいかなかった。そもそも1721年のニスタット条約で、ロシアはスウェーデン内政への干渉を断念していた。しかも北方戦争を通じてデンマークとの同盟関係を強化していたロシアには、たかがカール・フリードリヒ風情のためにデンマークと戦端を開く意志もなかっただろう(ちなみに以後ロシアは伝統的にデンマークと同盟関係を維持した)。

 1727年に義母エカテリーナ1世が死ぬと、実力者アレクサンドル・メーンシコフ公と対立したカール・フリードリヒは、アンナ・ペトローヴナと共にキールに帰国(6年振り)。翌年にはアンナ・ペトローヴナも死去し、1730年、ピョートル大帝の血を引かない女帝アンナ・イヴァーノヴナが即位した。カール・フリードリヒとロシアのつながりは絶たれた。

 1735年、聖アンナ勲章を制定。この勲章は1797年、孫パーヴェル・ペトローヴィチによりロシア帝国の勲章とされた。

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最終更新日 07 03 2013

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