ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ジャンナ・グルジンスカヤ (ヨアンナ・グルジニスカ)

Joanna Grudzińska, Жаннета Антоновна Грудзинская

ローヴィチ公妃 светлейшая княгиня Лович, książna Łowicka (1820-)

生:1795.05.17/05.29−ポズナニ(ポーランド)
没:1831.11.17/11.29(享年36)−ツァールスコエ・セロー

父:アントニ・グルジニスキ伯
母:マリアンナ・ドルポフスカ

結婚:1820−ワルシャワ(ポーランド)
  & コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公 1779-1831 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ

子:なし

弱小のポーランド貴族の長女。カトリック。
 なお、その名はロシア語ではジャネッタ Жаннета, Жанетта、あるいはジャンナ Жанна などと訳されている。

 妹たちとともにワルシャワで育つ。

 コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の愛人になったのは1815年頃とされる。
 ちょうど1815年は、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公がワルシャワ大公国駐留軍司令官、次いでポーランド王国軍総司令官に任命され、ワルシャワに赴任してきた年である。おそらくこの時に出会ったのだろう。
 当時、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公アンナ・フョードロヴナ大公妃と別居してすでに15年近くに及んでいた。ちょうどこの前年辺りに、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公アンナ・フョードロヴナ大公妃との和解を改めて試み、失敗していた。

 ヨアンナ・グルジニスカとコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の関係は5年程続いたが、最大の障害は1797年に皇帝パーヴェルの制定した皇位継承法と皇室規定だった。ここでは、結婚できる相手の家系をヨーロッパでも例外的なほど厳しく制限していた。このため、ふたりの結婚は貴賤結婚となる。
 1820年、ついに皇帝アレクサンドル1世の許可を得て、ふたりは結婚。
 この時アレクサンドル1世コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公に、皇位継承権を放棄するよう要求し、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公はこれを呑んだ。ふたりの間の子供に皇位継承権が与えられないのは皇位継承法にも規定されているとおりだが、この結果、ヨハンナは «皇帝の妻» となる可能性も絶たれたことになる。

 貴賤結婚であるから、たとえ皇帝に認められたと言っても、ヨアンナは大公妃を名乗ることはできない。この辺りを配慮したのだろう。結婚に際してアレクサンドル1世からヨアンナに、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の所領であるウォヴィチ Łowicz にちなんでローヴィチの姓と公妃の称号が与えられた。

 ポーランド人でありながらロマーノフ、しかもあろうことか抑圧の象徴であるポーランド副王と結婚した、ということで、ポーランド人からは «裏切り者» 扱いされている。もっとも、彼女はコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公に多大の影響を与えたらしいが、政治的な事柄には口をはさまなかったらしい。
 アンナ・フョードロヴナ大公妃との結婚では妻を顧みず家庭崩壊を自ら招いたコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公だったが、ヨアンナ・ローヴィチ公妃との結婚生活はうまく行ったようだ。セザール・ラ・アルプへの手紙でも幸せ一杯の家庭生活について述べている。

 1831年、夫とともに、十一月蜂起の勃発したワルシャワを脱出。ヴィテブスクでコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が死ぬと、遺骸とともにサンクト・ペテルブルグへ。その後ガッチナに、そしてツァールスコエ・セローに住むが、わずか半年後に夫の後を追うように死去。
 死後は、貴賤結婚(しかもカトリック)であったためにペトロパーヴロフスキイ大聖堂には葬られず、ツァールスコエ・セローのカトリック教会(洗礼者ヨハネ教会)に埋葬された。

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最終更新日 07 03 2013

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