ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

イヴァン6世・アントーノヴィチ

Иван Антонович

ブラウンシュヴァイクのプリンス Prinz von Braunschweig
大公 великий князь
ロシア皇帝 император Всероссийский (1740-41)

生:1740.08.12/08.23−サンクト・ペテルブルグ
没:1764.07.05/07.16(享年23)−シュリッセリブルグ

父:アントン・ウルリヒ 1714-74 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世)
母:アンナ・レオポリドヴナ 1718-46 (メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レーオポルト

結婚:なし

子:なし

アントン・ウルリヒアンナ・レオポリドヴナの第一子(長男)。正教徒。
 母アンナ・レオポリドヴナは女帝アンナ・イヴァーノヴナの姪。
 父方の大伯母エリーザベト・クリスティーネ(1691-1750)は神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)の妃。別の大伯母シャルロッテ・クリスティーネはツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの妃。
 また父方の叔母エリーザベト・クリスティーネ(1715-97)はプロイセン王フリードリヒ2世大王(1712-86)の妃。別の叔母ユリアーナ・マリーア(1729-96)はデンマーク王フレデリク5世(1723-66)の妃。

 1740年10月、女帝アンナ・イヴァーノヴナの勅令により、生まれたばかりのイヴァン・アントーノヴィチは後継者に指名される。2週間後、アンナ・イヴァーノヴナの死で、イヴァン・アントーノヴィチはわずか生後2ヶ月で皇帝となった。

 皇帝になったとはいえ、生後2ヶ月の赤子に統治などできるはずもない。アンナ・イヴァーノヴナの勅令に従い、その寵臣だったエルンスト・ビロンが、イヴァン・アントーノヴィチが成人するまでの間摂政として権力を行使することになった。
 しかし女帝アンナ・イヴァーノヴナ時代のエルンスト・ビロンの専横に対する宮廷貴族たちの反発は激しく、誰もが、問題はエルンスト・ビロンが権力を維持できるか否かではなくいつまで権力を維持できるかだと考えていた。

 その時はわずか1ヶ月後に来た。アンナ・イヴァーノヴナ治下で軍を掌握していたブルハルト・ミーニフ伯が母后アンナ・レオポリドヴナと結んでクーデタを決行。ビロンは失脚し、代わってアンナ・レオポリドヴナが摂政となった。

 摂政となった母だったが、自ら政務をみるでもなく、結局国家を運営したのは女帝アンナ・イヴァーノヴナ時代以来の大臣官房だった。
 «ビロン政権» が呆気なく崩壊した最大の理由は、政権を中枢を占めたドイツ人に対するロシア人の反発であった。ところがこれを理解していなかったアンナ・レオポリドヴナは、夫アントン・ウルリヒを大元帥とし、本来軍の最高責任者としてこの称号を与えられるべきブルハルト・ミーニフ伯には宰相の称号を与え(ロシアでは宰相は役職ではなく階級)、本来政務の最高責任者としてこの称号を与えられるべきアンドレイ・オステルマン伯には海軍元帥の称号を与えた(しかも外交の責任者の地位は保持)。
 当然、エルンスト・ビロンに対する反感はそのままアンナ・レオポリドヴナに対する反感へとシフトする。そしてこの不満分子が注目したのが、10年以上にわたってないがしろにされてきたピョートル大帝の娘、ツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナだった。

 1741年11月、エルンスト・ビロン追放のクーデタからちょうど1年後、今度はアンナ・レオポリドヴナ追放のクーデタが発生。プレオブラジェンスキイ連隊を味方につけたクーデタ派によってアンナ・レオポリドヴナとイヴァン・アントーノヴィチの母子は権力の座を追われ、エリザヴェータ・ペトローヴナが女帝として即位した。
 イヴァン・アントーノヴィチは戴冠式を行っていない。

 廃帝イヴァン・アントーノヴィチと家族は、リガに流される。
 その後、1742年からディナミュンデ、ラーネンブルグ、ホルモゴールィと各地の監獄を転々とすることになる。
 もともと元皇帝一家ということでかれらの消息に関しては秘密が厳守されており、そのため当時から種々の噂が乱れ飛んだ。そのためこんにちでも、イヴァン・アントーノヴィチ自身はまだしもその家族の消息については「ドイツに追放された」説を筆頭に間違った説が語られることがしばしばある。
 1746年、配流先のホルモゴールィで母が死去。

 しかし家族とともに流されたとはいえ、配流先でもイヴァン・アントーノヴィチはただひとり隔離されていた。元皇帝ということで、家族とは違った特別な警備が必要だったからである。しかも1756年には、家族と離されてひとりシュリッセリブルグ要塞へ移される。
 エリザヴェータ・ペトローヴナはよほどイヴァン・アントーノヴィチ復位の動きを怖れていたのか、誰にも(看守にすら)イヴァン・アントーノヴィチを «見る» ことを許さず、そもそもイヴァン・アントーノヴィチという名前を使うことすら禁じた(«著名な囚人 известный арестант» と呼ばせていた)。
 この間、かれに誰も何も教えなかったため、発育不良の智慧遅れになったと言われる。しかしその一方で、誰から聞いたのか自分の出自を知っており、読み書きもできたとも言われる。聖書も読めたとされるが、これは考えられない。当時のロシアにはロシア語の聖書は存在せず、古代教会スラヴ語で書かれた聖書は聖職者の読むものであった。

 1762年、即位したばかりの皇帝ピョートル3世に引見される(もっともそれで何がどう変わったということもなかった)。
 1764年、女帝エカテリーナ2世に替えてかれを皇帝にしようとするヴァシーリー・ミーロヴィチの陰謀(下級士官が勝手に起こしたもので、政治的背景はない)に巻き込まれ、警護兵により殺される。物心ついて以来監獄しか知らず、父も母も見たことすらない(そもそも人の顔を見たことすらほとんどない)、思えば哀れな24年の生涯だった。

 シュリッセリブルグのどこかに埋葬されていると思われるが、正確には不明。現在アルハンゲリスキイ大聖堂でもペトロパーヴロフスキイ大聖堂でもない場所に埋葬されているのは、歴代ツァーリ・皇帝・女帝の中ではイヴァン・アントーノヴィチだけ。しかも正確な埋葬場所がわからないなどというのは、全ロマーノフの中でもかれだけだろう。
 廃位された権力者とはいえ、エリザヴェータ・ペトローヴナアンナ・レオポリドヴナを、エカテリーナ2世ピョートル3世を、それぞれアレクサンドル・ネフスキイ大修道院に埋葬している。イヴァン・アントーノヴィチの場合だけシュリッセリブルグの、しかもどこともわからない場所に埋葬されているわけで、扱いの違いが大きい。エカテリーナ2世はそんなにイヴァン・アントーノヴィチのことを国民に思い出して欲しくなかったのだろうか。
 ちなみに父の埋葬場所もわかっていない。

 なお、弟妹たちは1780年になってデンマークへの出国が赦されている。

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最終更新日 07 03 2013

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