イヴァン5世・アレクセーエヴィチ
Иван Алексеевич
ツァレーヴィチ царевич
全ルーシのツァーリ царь всея Руси (1682-)
生:1666.08.27/09.06−モスクワ
没:1696.01.29/02.08(享年29)−モスクワ
父:ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチ 1629-76
母:ツァリーツァ・マリーヤ・イリイーニチナ 1625-69 (イリヤー・ダニーロヴィチ・ミロスラーフスキイ)
結婚:1684−モスクワ
& プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ 1664-1723 (フョードル・ペトローヴィチ・サルトィコーフ)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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プラスコーヴィヤ・フョードロヴナと | |||
1 | マリーヤ | 1689-92 | − |
2 | フェオドーシヤ | 1690-91 | − |
3 | エカテリーナ | 1691-1733 | メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レーオポルト |
4 | アンナ(女帝) | 1693-1740 | クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルム |
5 | プラスコーヴィヤ | 1694-1731 | イヴァン・ドミートリエフ=マモーノフ |
ツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの第十二子(五男)。
ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチの同母弟、皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの異母兄。
兄たち同様(フョードル3世だけでなくその上の兄アレクセイ・アレクセーエヴィチも含めて)、幼少より病弱で、イヴァン・アレクセーエヴィチはそれに加えて精神的にも薄弱だったと言われ、始めからツァーリ候補とは目されていなかった(本人にもその意志はなかっただろう)。
1682年、兄フョードル3世が死去。すでに15になっていたイヴァン・アレクセーエヴィチは(父と祖父は16で、兄は14で即位していた)、フョードル3世の次の男子ということで当然ツァーリになるはずであった。ところが総主教ヨアキームや有力諸侯は異母弟ピョートル・アレクセーエヴィチをツァーリとした。まだ10歳のピョートルの方が、15歳のイヴァンよりもツァーリに相応しいと考えられたわけだ。
ところが銃兵の叛乱により反ピョートル派が巻き返し、結局2ヶ月の空白を経てイヴァン・アレクセーエヴィチがピョートル・アレクセーエヴィチとともにウスペンスキイ大聖堂で共同のツァーリとして即位し(イヴァン・アレクセーエヴィチが «年長のツァーリ старший царь»、ピョートル・アレクセーエヴィチが «年少のツァーリ младший царь»)、姉ソフィヤ・アレクセーエヴナが «摂政» となって実権を握った。
銃兵の叛乱は待遇に不満を抱いたことが主因だったが、イヴァン・アレクセーエヴィチを差し置いてピョートル・アレクセーエヴィチがツァーリとされたことが一般には大貴族の横暴と映り、それに対する反発もあったと思われる。イヴァン・アレクセーエヴィチが心身ともに虚弱であったことは一般には知られていなかった。
なお、イヴァン・アレクセーエヴィチ自身はこの間の出来事に一切かかわらなかった。ツァーリになろうとの意思すら見せなかったと言われる。それもまた貴族たちには «精神的な薄弱さ» の証拠と思われたかもしれない。
イヴァン5世は «年長のツァーリ» として、儀式などには姉に引っ張り出されたが、それ以外はクレムリンの宮殿内で過ごし、政務には一切口をはさまなかった。
何とかミロスラーフスキイの血を引く皇統を残そうとした姉ソフィヤ・アレクセーエヴナによりプラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァと結婚させられる。
1689年、権力を失いつつあったソフィヤ・アレクセーエヴナが巻き返しを図った時、イヴァン5世は、かつて養育係であったピョートル・プローゾロフスキイ公の助言を得て、異母弟ピョートル1世側に立ったと言われる。
ピョートル1世が権力を握った後も、イヴァン5世は1696年に死ぬまでツァーリであり続けた。その間、イヴァンは政治に関心も能力もなく、実権のすべてをピョートル1世に委ねたまま、二重権力状態を続けた。
イヴァン5世の生活は祈りで満たされていたらしい。
記録によると、27歳でほぼ盲目で麻痺状態にあったという。
クレムリンのアルハンゲリスキイ大聖堂に埋葬される。
なお、かれの名は現代ロシア語ではイヴァンだが、当時はヨアン Иоанн と表記・発音されていた。このためこんにちの文献でもヨアンと表記する方がむしろ一般的と言えるかもしれない。
当然娘たちもエカテリーナ・ヨアーノヴナ、アンナ・ヨアーノヴナ、プラスコーヴィヤ・ヨアーノヴナ(それぞれイヴァーノヴナではなく)。