ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ

Игорь Константинович

公 князь императорской крови

生:1894.05.29/06.10−ストレーリナ
没:1918.07.17-18(享年23)−アラパーエフスク

父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)

結婚:なし

子:なし

コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第六子(五男)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従兄弟。

 父の感化か、演劇に関心を持っていた。

 陸軍幼年学校に通う。
 第一次世界大戦勃発とともにイズマイロフスキイ連隊に大尉として着任。前線で戦う。
 1915年、胸膜炎を発症。前線と後方を行ったり来たりした。

 十月革命で権力を掌握したボリシェヴィキーは、当初はロマーノフ家の男子に登録させ、ペトログラードから出ることを禁じるだけで満足していた。しかし1918年春には国内流刑へと方針変更。4月、イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ公は兄ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ公、さらにセルゲイ・ミハイロヴィチ大公ヴラディーミル・パーレイ公とともにヴャートカに送られる。
 ヴャートカでの生活は比較的自由なものであった。しかし4月最後の日にかれらはエカテリンブルグに転送される。数日後、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃が合流。
 エカテリンブルグでもそれなりの自由が認められたが、当然、当時イパーティエフの家に監禁されていた皇帝一家との接触は禁じられた。
 5月半ばには、エカテリンブルグの北方にあるアラパーエフスクに再転送された。ロマーノフ一族を一ヶ所にまとめておく危険性を認識したのだろう。ここでもかれらは街中を歩くことを許されるなど、比較的自由に暮らすことができた。
 しかし6月に入り、白衛軍がウラルに接近するにつれ、かれらに対する規制も強化されていく。6月13日、ペルミでミハイール・アレクサンドロヴィチ大公が処刑される。7月17日から18日にかけての夜、エカテリンブルグで皇帝一家が処刑されたちょうど次の晩、アラパーエフスクでイーゴリ・コンスタンティーノヴィチ公らも処刑された。

 イーゴリ・コンスタンティーノヴィチ公の遺骸は、直後にここを占領した白衛軍により回収され、アラパーエフスキイ大聖堂に改葬された。しかし1920年になって、敗退する白衛軍により持ち去られ、イルクーツクを経て、最終的には北京の聖セラフィーム・サローフスキイ大聖堂に再埋葬された(現在は取り壊されて公園になっている)。

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最終更新日 07 03 2013

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