ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ゲオルギオス1世(ヴィルヘルム)

Christian Vilhelm Ferdinand Adolf Georg, Γεώργιος, Георгиос

シュレスヴィヒ=ホルシュタインのプリンス Prinz von Schleswig-Holstein
デンマーク王子 prins af Danmark (1853-)
ギリシャ王 Βασιλιάς της Ελλάδας(1863-)

生:1845.12.12/12.24−コペンハーゲン(デンマーク)
没:1913.03.05/03.18(享年67)−テッサロニキ(ギリシャ)

父:クリスティアン9世 1818-1906 デンマーク王(1863-1906)
母:ルイーゼ 1817-98 (ヘッセン=ルンペンハイム方伯ヴィルヘルム)

結婚:1867−サンクト・ペテルブルグ
  & オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女 1851-1926 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公

子:

生没年結婚相手
オリガ・ニコラーエヴナと
1コンスタンティノス (ギリシャ王1世)1868-1923ドイツ皇女ゾフィーア
2ゲオルギオス1869-1957マリー・ボナパルト公女
3アレクサンドラ1870-91パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公
4ニコラオス1872-1938エレーナ・ヴラディーミロヴナ大公女
5マリア1876-1940ゲオルギイ・ミハイロヴィチ大公
ペリクレス・イオアンニデス
6オルガ1881
7アンドレアス1882-1944バッテンベルク公女アリス
8クリストフォロス1888-1940アナステイジア・ステュアート
ギーズ公女フランソワーズ

デンマーク王クリスティアン9世の第三子(次男)。ルター派。
 兄はのちのデンマーク王フレデリク8世(1843-1912)、姉はイギリス王妃アレクサンドラ(1844-1925)、妹は皇妃マリーヤ・フョードロヴナ

 父クリスティアンは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公の四男。ヴィルヘルムが生まれた当時は、父の3人の兄も健在であった(すぐ上の兄に男子が生まれたのは後の話)。
 ところが、どういう風の吹き回しか、1852年、列強がロンドン条約で、当時跡継ぎのなかったデンマーク王フレデリク7世(1808-63)の後継者に父を指名した。

 もともとシュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公家は、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公家の分家で、所領も大したことはなかったこともあって、父クリスティアンは家族とともにデンマークに住んでいた。

シュレスヴィヒ公領はデンマーク、ホルシュタイン公領はドイツ。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公家の所領はその双方にまたがっている。ただしシュレスヴィヒ公領もホルシュタイン公領も16世紀以来デンマーク王家の領土で、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン公家自体がもともとデンマーク王家の分家である。

 このためヴィルヘルムもコペンハーゲンで生まれ育った。8歳の時に父がデンマークの王位継承者となり、ヴィルヘルムもデンマーク王子とされる。のち、デンマーク海軍に入隊。

 1863年は、一家にとって激動の年であった。フレデリク7世が死に、父がデンマーク王として即位。姉アレクサンドラがイギリス王太子アルバート(のちのエドワード7世)と結婚。そしてヴィルヘルムがギリシャ王に選ばれた(ちなみにヴィルヘルムの方が父よりも先に王として即位した)。

 ギリシャでは1862年にヴィッテルスバハ家のオソン1世がクーデタで廃位されていた。列強は後継のギリシャ王探しに奔走した。ギリシャ人は地中海の覇権を握るイギリス王家とのつながりを強化しようと(イオニア諸島もイギリスの保護領だった)、女王ヴィクトリアの次男エディンバラ公アルフレッドを候補に挙げたが、諸列強の反対と、何より女王ヴィクトリア自身の反対でお流れ。ロシア皇帝アレクサンドル2世の甥ロイヒテンベルク公ニコラ・ド・ボーアルネ等も候補となったが、結局、どういう風の吹き回しか、ヴィルヘルムが選ばれた。姉アレクサンドラとイギリス王室との関係がモノを言ったのかもしれない(当時はまだマリーヤ・フョードロヴナとロマーノフ家との縁組は持ち上がっていなかったから、ロシアは無関係)。
 列強からの押しつけとはいえ、オソンの時と違い、ギリシャでは議会が正式にヴィルヘルムを王として承認。

 当時のギリシャ領は、ペロポンネソス半島と中央ギリシャ(アテネを中心としたアッティカなど)のみ。ゲオルギオスの即位に際して、イギリスから «引き出物» としてイオニア諸島が割譲された。

 アテネにて «ゲオルギオス1世» として即位したヴィルヘルムは、廃位されたオソンの轍を踏まぬよう努力をした。
 オソンが嫌われ、ついには廃位された理由はいくつかあるが、ひとつには信仰の問題がある。この点ではゲオルギオスも譲らす、カトリックを貫いたオソンと同様に正教には改宗しなかった(それでも正教徒がカトリックよりはルター派により寛容なのが幸いした)。オソンが同じくルター派のドイツ人を妃としたのに対して、ゲオルギオスが正教徒のオリガ・コンスタンティーノヴナ大公女と結婚したのも、ゲオルギオス自身のルター派信仰の悪印象を緩和することにつながったかもしれない。
 また、オソンはあくまでドイツ語で押し通したが、ゲオルギオスは即位早々からギリシャ語を習い始めた(結局なまりは抜けなかったらしいし、オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女とはドイツ語で話した)。
 何よりオソンが嫌われたのは、バイエルンから引き連れてきたドイツ人が権力を握ったことにある。16歳で即位したオソンには、バイエルンから大量の側近がついてきたが、30年たっても依然としてかれらが王の側近として居座っていたことがギリシャ人の反感を買った。17歳で即位したゲオルギオスにもデンマークから叔父ユリウスなどがついてきていたが、やがてこれらを追い返す。
 宮廷の奥に潜んでいたオソンと違い、ゲオルギオスは頻繁にアテネ市街を散策し、市民とも言葉を交わして «親しみやすい君主» をアピールした。

 1864年、新憲法制定(これにはゲオルギオスも積極的にかかわったらしい)。こうして立憲君主制を樹立したが、国民の識字率も低く民主主義の伝統のないギリシャではなかなか根付かなかった。このためしばしば議会の多数派政党とは無関係に、ゲオルギオスは自分の信頼する人物に内閣を任せた。しかしこれが批判を浴び、1875年、議員内閣制を承認。特に1880年代から90年代は、ハリラオス・トリクピスとテオドロス・ディリヤンニス(デリギアンネス)が政権を交互に担当し、二大政党に基づく議員内閣制が最もよく機能した時代だった。

 対外的には独立以来ギリシャは、ギリシャ本土北方のテッサリア、エペイロス、さらに東方のマケドニア、トラキア、小アジアのエーゲ海沿岸部、そしてクレタ島を含むエーゲ海島嶼部の併合を悲願としていた。
 露土戦争(1877-78)には中立を保ち、ベルリン会議(1878)では当然何も得られなかった。しかし1881年、英仏の圧力でオスマン帝国からテッサリアと西エペイロス(アルタ)を獲得。
 1885年、ブルガリアが東ルメリアを併合すると、これに倣ってデリギアンネス内閣は東エペイロス併合を目論んで軍を動員したが、列強の反対で挫折。

 1893年、コリント運河が建設される。1896年、アテネで第一回の近代オリンピックが開催された。

 1897年、デリギアンネス内閣の下、ギリシャはクレタ併合に乗り出す。ゲオルギオスはオスマン帝国に宣戦を布告し、軍がマケドニアとクレタに派遣された。しかしギリシャ軍はオスマン軍に敗北。ギリシャの財政は破綻し、クレタは国際管理委員会が監督することになった。
 ゲオルギオスの人気は地の落ち、1898年には暗殺未遂事件も起こっている。この年、列強の圧力で、スルターン宗主権下でのクレタの自治が認められた(次男ゲオルギオス王子が高等弁務官となる)。
 1908年、クレタが蜂起し、ギリシャとの併合を決議。しかし弱体化していたギリシャ政府は、クレタ併合を拒否するよう要求する列強の圧力に屈した。その結果ゲオルギオスと政府の権威は失墜した。
 1910年、クレタ出身のエレフテリオス・ヴェニゼロスが首相に就任(1910-14)。強力に改革を推進する。陸軍・海軍の増強を推進する一方、バルカン半島のキリスト教諸国との関係強化を進めた。

 1912年の第1次バルカン戦争に参加。セルビア、ブルガリア、モンテネグロと同盟してオスマン帝国と戦い、南マケドニア(テッサロニキ)とエーゲ諸島(キオス、サモス等)、エペイロスを占領する。
 しかしこの戦争の最中、ゲオルギオスは占領地テッサロニキにて暗殺された。暗殺犯は社会主義組織との関係も噂されたが、暗殺そのものには政治的背景はないものとされた。遺体はタトイに埋葬された。
 戦争はその直後、ロンドン条約で終結。占領地の獲得と、クレタ島の併合が承認された(ただし北エペイロスは新生アルバニア領とされる)。

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最終更新日 07 03 2013

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