ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチ・メクレンブルグスキイ

Georg Alexander Michael Friedrich Wilhelm Franz Karl, Георгий Георгиевич

メクレンブルク=シュトレーリツ公 Herzog zu Mecklenburg-Strelitz/герцог Мекленбург-Стрелицкий

生:1859.05.25/06.06−レンプリン(メクレンブルク、ドイツ)
没:1909.12.05/12.18(享年50)−サンクト・ペテルブルグ

父:ゲオルク 1824-76 (メクレンブルク=シュトレーリツ公ゲオルク)
母:エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女 1827-94 (ミハイール・パーヴロヴィチ大公

結婚:1890−サンクト・ペテルブルグ
  & ナターリヤ・フョードロヴナ・ヴォンリャルスカヤ 1858-1921

子:

生没年結婚相手
ナターリヤと
1カタリーナ/エカテリーナ1891-1940ヴラディーミル・ゴリーツィン公
2マリー/マリーヤ1893-1979ボリース・ゴリーツィン公
ヴラディーミル・クレインミヘリ伯
3ナタリア/ナターリヤ1894-1913
4ゲオルク/ゲオルギイ1899-1963イリーナ・ラエフスカヤ
オーストリア皇女シャルロッテ

ドイツの領邦君主の一族ゲオルクエカテリーナ・ミハイロヴナ大公女の第三子(次男)。ルター派。
 皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。
 ドイツ語ではゲオルク・アレクサンダーと言うが、ロシアではゲオルギイ・ゲオルギエヴィチと呼ばれている。

 生まれたのはドイツだが、両親とともにサンクト・ペテルブルグに暮らす。
 一家の暮らしたミハイロフスキイ宮殿では祖母エレーナ・パーヴロヴナ大公女が君臨しており、ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチもその影響下に、音楽に関心を深めた。ピアノとバイオリンに優れていたという。1896年には弦楽四重奏団を結成。«メクレンブルク・カルテット» と呼ばれて評判を取ったらしい。

 もちろん、ロマーノフ家の男子として軍務にも就き(最終的な階級は陸軍少将)、また祖父ミハイール・パーヴロヴィチ大公の趣味を受け継いでフランスのリトグラフ蒐集にも血道を上げた。

 ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチは、財務省に勤務する中流貴族の娘ナターリヤ・ヴォンリャルスカヤと恋に堕ちる。ナターリヤ・ヴォンリャルスカヤはロマーノフ家の基準からしても、またメクレンブルク=シュトレーリツ大公家の基準からしても、結婚には相応しくない家柄の出である。これを憂えた母がナターリヤ・ヴォンリャルスカヤを遠ざけるが、ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチは諦めず、1889年にはメクレンブルクへ赴き、本家のメクレンブルク=シュトレーリツ大公に結婚の許可を乞う。伯父の大公フリードリヒ・ヴィルヘルム(1819-1904)はこれを許可した。
 ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチはロシアに住み、ロマーノフ一族の端に連なるとはいえ、ロシアの臣民ではなく、ロマーノフ家の一員でもなかったので、母にも、当然ロシア皇帝にも、メクレンブルク=シュトレーリツ大公の決定を覆すことはできない。ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチは晴れてナターリヤ・ヴォンリャルスカヤと結婚した。母も最後には折れ、結婚式はミハイロフスキイ宮殿の付属教会で行われた。
 結婚に際し、フリードリヒ・ヴィルヘルムからナターリヤ・ヴォンリャルスカヤにはカーロフ伯妃 Gräfin von Carlow (ロシア語ではカールロヴァ伯妃 графиня Карлова)の称号が与えられた(子供たちはこの称号と姓を名乗る)。

細かいことながら、カーロフ/カールロフの名前の由来について、ドイツ語の文献によるとメクレンブルクにある所領カーロフ Carlow、ロシア語の文献によるとポルターヴァ県にある所領カールロフカ Карловка にちなんだものとされている。

 ナターリヤ・ヴォンリャルスカヤは、当初は社交界からも無視され、ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチとふたり静かな生活を送っていた。ふたりは非常に仲睦まじく、エカテリーナ・ミハイロヴナ大公女もナターリヤに感謝の言葉を残している。やがてふたりをよく知る人々を通じて、徐々にナターリヤも社交界に受け入れられていった(そもそもナターリヤは貴族の娘であり、社交界から締め出される謂われはない)。

 1894年に母が死ぬと、遺言によってミハイロフスキイ宮殿等の遺産は弟ミハイール・ゲオルギエヴィチに与えられた。ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチは終生にわたり使用することが認められただけだった。
 おそらくこのためだろう、1895年、ゲオルギイ一家はミハイロフスキイ宮殿を出て、サンクト・ペテルブルグ市内に家を買ってそこに住む。宮廷にもあまり顔を出さず、一家水入らずの生活を送った。ちなみにミハイロフスキイ宮殿はのちに皇帝ニコライ2世に買い取られ、ロシア美術館として公開された。

 オラニエンバウムのルター派教会に葬られた。

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最終更新日 07 03 2013

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