ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチ・カールロフ
Georg Alexander Michael Friedrich Wilhelm Albert Theodor Franz, Георгий Георгиевич Карлов
カーロフ伯 Graf von Carlow/граф Карлов
メクレンブルク公 Herzog zu Mecklenburg-Strelitz (1929-)
生:1899.09.22/10.05−オラニエンバウム
没:1963.07.06(享年63)−ジグマリンゲン(ドイツ)
父:ゲオルク・アレクサンダー 1859-1909 (ゲオルク・フォン・メクレンブルク)
母:カールロフ伯妃ナターリヤ・フョードロヴナ・ヴォンリャルスカヤ 1858-1921
結婚①:1920−ジュネーヴ
& イリーナ・ミハイロヴナ 1892-1955 (ミハイール・ニコラーエヴィチ・ラエフスキイ)
アレクサンドル・ミハイロヴィチ・トルストーイ伯未亡人
結婚②:1956
& シャルロッテ 1921-89 (オーストリア皇帝カール1世)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
---|---|---|---|
イリーナと | |||
1 | ゲオルク・アレクサンダー | 1921-96 | オーストリア大公女イロナ |
2 | アレクサンダー | 1922 | − |
3 | ヘレーネ | 1924-62 | ハッサン・サイード・カーミル |
4 | カール・グレゴール | 1933- | マリーア・マルガレーテ・フォン・ホーエンツォレルン |
ドイツの領邦君主の末裔ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチの第四子(長男)。ルター派。
両親の結婚は貴賎結婚であったため、ゲオルギイ・ゲオルギエヴィチはメクレンブルクの権利を継ぐことができず、母の称号を名乗った。
10歳の時に父を亡くし、以後母や姉たちとともに叔父ミハイール・ゲオルギエヴィチに後見される。
1910年、母の要請により、ゲオルギイ一家がロシア臣民として皇帝ニコライ2世により認められた。
1918年、又従兄弟のメクレンブルク=シュトレーリツ大公アードルフ・フリードリヒ6世(1882-1918)が自殺。叔父ミハイール・ゲオルギエヴィチがロシア国籍を取って大公位継承権を放棄していたため、メクレンブルク=シュトレーリツ大公家には後継者がいなくなった。メクレンブルク=シュトレーリツ大公国では、メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世(1882-1945)(アナスタシーヤ・ミハイロヴナ大公女の子)が摂政となった。
1919年、叔父に引き連れられ、一族そろってロシアから出国することに成功。一旦ロンドンに居住し、最終的にはメクレンブルクに落ち着く(歴代メクレンブルク=シュトレーリツ大公の居城レンプリン)。
フライブルク大学でポリサイを学ぶ。
妻イリーナ・ラエフスカヤともども、カトリックに改宗。
1928年、カール・ミヒャエル(ミハイール・ゲオルギエヴィチのこと)の養子となり、その遺産や称号を継ぐことが認められた(本来貴賎結婚から生まれたので、継承する権利を持たなかった)。
1929年、メクレンブルク家で唯一継承権を有する生き残りメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ4世と、ロマーノフ家の家長キリール・ヴラディーミロヴィチ大公により、ゲオルクには Herzog zu Mecklenburg の称号が認められた。
1934年、叔父カール・ミヒャエルの死で、メクレンブルク=シュトレーリツ大公家の «正統な» 男系子孫が断絶。ゲオルクがメクレンブルク=シュトレーリツ大公家の家長として認められた(それでも貴賎結婚の子であったために «大公» は名乗れなかった)。
1940年、レンプリンの居城がナチスに焼かれ、一家は引越し。1944年、ゲオルクはナチスに捕らえられ、ザクセンハウゼン収容所に入れられた。
1945年、釈放されたが、メクレンブルクがソ連の管理地域となったため、ジグマリンゲン(シュヴァーベン系ホーエンツォレルン家の本領)に移住。