ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ
Гавриил Константинович
公 князь императорской крови
生:1887.07.03/07.15−パーヴロフスク
没:1955.02.28(享年67)−パリ(フランス)
父:コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公 1858-1915 (コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公)
母:エリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃 1865-1927 (ザクセン=アルテンブルク公モーリッツ)
結婚①:1917−ペトログラード
& アントニーナ・ラファイーロヴナ 1890-1950 (ラファイール・ネステロフスキイ)
結婚②:1951−パリ
& イリーナ・イヴァーノヴナ公女 1903-93 (イヴァン・アナトーリエヴィチ・クラーキン公)
子:なし
コンスタンティーノヴィチ。コンスタンティーン・コンスタンティーノヴィチ大公の第二子(次男)。
皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの又従兄弟。ギリシャ王コンスタンティノス1世(1868-1923)の従兄弟。
兄ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公同様、幼少より病弱で(3歳でチフスを経験)、しばしばふたりだけでクリミアにある父の所領オレアンダに静養にやられていた。このため、ヨアン・コンスタンティーノヴィチ公とガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は非常に緊密な親愛の情で結ばれた。
早くから軍事に関心を深め、1900年に第一モスクワ陸軍幼年学校に、1903年にはニコラーエフスキイ騎兵学校に入校。しかし健康の問題から、政府機関での勤務も視野に大学にも通った。
1910年には肺炎を発症。スイスで療養した。
コンスタンティーノヴィチの中では例外的に社交好きで、浮名も流した。
1911年、マティルダ・クシェシニスカ邸にて、バレリーナのアントニーナ・ネステローフスカヤと出会う。
1912年には、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公、アントニーナ、マティルダ、その愛人アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公とでリビエラに旅行している。
1913年、アントニーナ・ネステローフスカヤにマリインスキイ劇場を辞めさせ、サンクト・ペテルブルグに購入した家に住まわせる。
ちょうどこの頃、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公はムラーモルヌィイ宮殿に部屋をもらってパーヴロフスクを去った。
ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は伯母のギリシャ王太后オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女に取り成しを依頼。オリガ・コンスタンティーノヴナ大公女は皇帝ニコライ2世にガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公とアントニーナ・ネステローフスカヤの結婚を許可するよう頼むが、ニコライ2世がこれを拒否した。
国外にて貴賎結婚をするロマーノフが多かった中、あるいは両親の厳格な教育の賜物か、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は皇帝の許可が得られない限りアントニーナ・ネステローフスカヤと結婚しようとはしなかった。
第一次世界大戦の勃発にともない、兄弟とともに前線へ。しかし3ヶ月後にはペトログラードに召還され、軍事アカデミーで学ぶ。1916年、卒業して大佐。
この間もガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公とアントニーナ・ネステローフスカヤの関係は公然と続けられていた。戦争という状況が人心に影響を与えたのか、かつては貴賎結婚には拒絶反応を示していた皇后アレクサンドラ・フョードロヴナも、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公とアントニーナ・ネステローフスカヤの結婚を認めるようになったと言う。
二月革命により帝政が崩壊すると、許可を得るべき皇帝がいなくなったからか、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公はアントニーナ・ネステローフスカヤと結婚することを決意。母は相変わらず反対していたが、内緒で結婚式を挙げた。事後報告を受けたエリザヴェータ・マヴリーキエヴナ大公妃は激怒したものの、最後には折れた。
十月革命後、ボリシェヴィキーの求めに応じてЧК(秘密警察)に登録。当時はまだペトログラードを去らない限り自由に暮らすことが許されていた。
1918年春、ボリシェヴィキーはロマーノフ一族を国内流刑に処することを決定。しかし当時ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公は結核を病んでおり、アントニーナ・ネステローフスカヤとともにペトログラードにとどまることを認められた。
8月になると、叔父ドミートリー・コンスタンティーノヴィチ大公、ニコライ大公&ゲオルギイ大公兄弟(ミハイロヴィチ)のいるЧКの監獄に入れられた。
当時、ロマーノフ一族の関係者たちは、皇帝一家をはじめとするボリシェヴィキーに捕らえられた一族の釈放を勝ち取ろうと様々に努力していたが、これに成功したのはアントニーナ・ネステローフスカヤだけだった。アントニーナの友人にマクシム・ゴーリキイの妻がいたことが大きい。その仲介でペトログラードЧК議長モイセイ・ウリツキイに泣きつき、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公の釈放を勝ち取った。さらにアントニーナ・ネステローフスカヤはガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公ともどもゴーリキイのアパートに転がり込み、その支援でフィンランドへの亡命を認めてもらった。
ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公と監獄をともにした3人の大公たちは、1919年1月に処刑された。
ロマーノフの成人男子で亡命が認められたのはガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公だけ。ボリシェヴィキーとしては、亡命を許してもすぐに死ぬだろうと思ったのかもしれないが、ガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公はその後37年も生き延びる。
亡命したガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公とアントニーナ・ネステローフスカヤはフランスに落ち着く。1920年にはパリへ。
1924年までには経済状態は悪化し、アントニーナ・ネステローフスカヤはクテュールの店を出す。その成功がふたりの生活を支えた。
大恐慌のあおりで1936年には店を畳み、パリ郊外で細々と暮らした。この頃回想録も書いている(『ムラーモルヌィイ宮殿にて В Мраморном дворце』)。出版は1951年(NYの出版社から。ただしロシア語)。
キリール・ヴラディーミロヴィチ大公の皇位継承権を承認。キリール・ヴラディーミロヴィチ大公は返礼にアントニーナ・ネステローフスカヤにロマーノフスカヤ=ストレーリニンスカヤ公妃 княгиня Романовская-Стрельнинская の称号を与えた。またキリール・ヴラディーミロヴィチ大公の子ヴラディーミル・キリーロヴィチ公は1939年にガヴリイール・コンスタンティーノヴィチ公に大公の称号を与えている。もっとも、ロマーノフ一族のほとんどがこれらの称号を認めていない。
第二次世界大戦中もパリにとどまる。
サント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ墓地に葬られている。
サント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ Sainte-Geneviève-des-Bois はパリ南西24kmの地方都市。ここに1927年に白系ロシア人のための «La Maison russe» がつくられ、以後ここの公営墓地に多数の白系ロシア人が葬られるようになる。1939年にはウスペンスキイ教会が建てられた。が、ここはあくまでも公営墓地であり、白系ロシア人の専用墓地でもなければその所有地でもない。市当局は接収を計画しているらしい。
この墓地には、アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ大公夫妻、フェリクス・ユスーポフ公夫妻を始め、セルジュ・リファール、ルドリフ・ヌレーエフ、アンドレイ・タルコフスキイ、詩人イヴァン・ブーニン、詩人ジナイーダ・ギッピウス、女優マリーナ・ヴラディの姉妹(本人はまだ生存)、商店主グリゴーリイ・エリセーエフなどが埋葬されている。