エヴドキーヤ・フョードロヴナ・ロプヒナー
Авдотья Илларионовна Лопухина, Евдокия Федоровна
ツァリーツァ царица (1689-/98/)
生:1669・70.06.30/07.10−カルーガ県
没:1731.08.27/09.07(享年61?)−モスクワ
父:イラリオーン(フョードル)・アヴラアーモヴィチ・ロプヒーン 1632-1713
母:ウスティーニヤ・ボグダーノヴナ・ルティーシチェヴァ
結婚:1689
& 皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチ 1672-1725
愛人:ステパン・ボグダーノヴィチ・グレーボフ 1672?-1718
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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ピョートル1世・アレクセーエヴィチと | |||
1 | アレクセイ | 1690-1718 | ブラウンシュヴァイク公女ソフィヤ・シャルロッタ |
2 | アレクサンドル | 1691-92 | − |
3 | パーヴェル | 1693 | − |
モスクワの大貴族。正教徒。
ツァーリ・ピョートル1世・アレクセーエヴィチの最初の妃。
ロプヒーン家は、伝説によれば11世紀にさかのぼる。それが巡り巡って、すでにモスクワ公イヴァン1世・カリターの下でボヤーリンとして仕えていた。ロプヒーンという姓になったのは15世紀頃(意味は正確にはわからないが、ロプーフ лопух で «ゴボウ、間抜け»)。ただし、その由来の古さにもかかわらず、エヴドキーヤ・ロプヒナー以前には大した人物を輩出していない。
エヴドキーヤ・ロプヒナーが妃であった当時はピョートル大帝は皇帝ではなくツァーリを名乗っていたので、エヴドキーヤ・ロプヒナーも皇妃ではなくツァリーツァである(ピョートル大帝が皇帝を名乗った後も変わらない)。
エヴドキーヤ・ロプヒナーの本名はアヴドーティヤ、あるいはプラスコーヴィヤとされている(アヴドーティヤはエヴドキーヤが民間で訛った形)。どういう理由かは不明だが、結婚に際してエヴドキーヤと、父もフョードルと改名している(もっとも当時は結婚に際してツァリーツァが改名するのは珍しいことではなかった)。
ピョートル1世の母ナターリヤ・ナルィシュキナによりピョートル1世の妃に選ばれた。
選ばれた理由というのが、ロプヒーン家は決して大貴族ではないが数多の一族を抱え、またいくつもの有力貴族と縁続きになっており、やがて来たるべき摂政ソフィヤ・アレクセーエヴナとの権力闘争においてピョートル1世の力になるだろうとの期待からだったとされている。
エヴドキーヤ・ロプヒナーは古き良きロシアの伝統的な女性であったようで、それが3歳年下のピョートル1世には物足りなかったらしく、はじめからふたりの関係はうまく行っていなかったようだ。ましてやピョートル1世がますます新しい世界に惹きつけられていくにつれ、逆にそのような新しい事物や思想を拒絶するエヴドキーヤ・ロプヒナーとの溝は深まっていった。
すでにピョートル1世はドイツ人居留地に足繁く通い、アンナ・モンスを愛人としたのも1691年頃のことだった。以後、ピョートル1世はますます政務にかまけ、アンナ・モンスその他の飲み仲間たちとの付き合いにかまけて、エヴドキーヤ・ロプヒナーを顧みなくなる。ピョートル1世に宛てて不満をぶちぶちこぼしているエヴドキーヤ・ロプヒナーのこの頃の書簡が残されている。
ピョートル1世がいつ頃からエヴドキーヤ・ロプヒナーを厄介払いしようと考え始めたのかはわからないが、1696年に西欧旅行に赴いている最中に、叔父のレフ・ナルィシュキンに、エヴドキーヤ・ロプヒナーに修道院入りを認めさせるよう説得させている。これは失敗に終わったが、帰国後の1698年、ピョートル1世は自らエヴドキーヤ・ロプヒナーをスーズダリのポクローフスキイ修道院に押しこんだ(修道名エレーナ)。事実上の離婚だが、法的にはピョートル1世との関係は解消されたわけではない。
修道院に入れられたとはいえ、事情が事情だっただけに、修道院長も彼女が世俗的生活を送ることを許していた。そのような中で、修道女エレーナはステパン・グレーボフと関係を持つようになる。
父と対立する息子ツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチと密かに連絡を取る(もっとも手紙で愚痴をこぼす程度だったようだが)。特にピョートル1世の改革が進むにつれて、それに反対する «守旧派» から、アレクセイ・ペトローヴィチともども大いに期待されるようになったらしい。そのため1718年、アレクセイ・ペトローヴィチの «裁判» では修道女エレーナも弾劾された。グレーボフは処刑され、修道女エレーナはラードガのウスペンスキイ修道院へ送られる。
1725年、ピョートル大帝が死去。後を継いだ女帝エカテリーナ1世により、修道女エレーナはシュリッセリブルグ要塞に監禁される。
1727年、孫ピョートル2世の即位で解放され、モスクワへ。クレムリン内にあったヴォズネセンスキイ修道院に入る。以後、反ピョートル派が天下を取ったピョートル2世の治世には、ツァリーツァとしてしかるべく扱われ、大変敬われたらしい。
1730年、ピョートル2世が死ぬと、その後継者を誰にするか迷った最高枢密院から女帝として即位するよう依頼されたが断ったと言われる。しかし別の説では、修道女エレーナ自身が皇位に関心を寄せたが最高枢密院の側がこれを蹴ったともされる。
いずれにせよ、アンナ・イヴァーノヴナの治世にも敬意をもって扱われたらしい。
ノヴォデーヴィチイ修道院に移った修道女エレーナは、死後そこに埋葬された。