エレーナ・パーヴロヴナ (シャルロッテ)
Friederike Charlotte Marie, Елена Павловна
ヴュルテンベルク公女 Prinzessin von Württemberg
大公妃 великая княгиня (1824-)
生:1806.12.28/1807.01.09−シュトゥットガルト(ヴュルテンベルク、ドイツ)
没:1873.01.09/01.21(享年67)−サンクト・ペテルブルグ
父:パウル 1785-1852 (ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世)
母:シャルロッテ 1787-1847 (ザクセン=ヒルドブルクハウゼン公フリードリヒ)
結婚:1824−サンクト・ペテルブルグ
& ミハイール・パーヴロヴィチ大公 1798-1849 (皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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ミハイール大公と | |||
1 | マリーヤ | 1825-46 | − |
2 | エリザヴェータ | 1826-45 | ナッサウ公アードルフ |
3 | エカテリーナ | 1827-94 | ゲオルク・フォン・メクレンブルク |
4 | 1830 | − | |
5 | アレクサンドラ | 1831-32 | − |
6 | アンナ | 1834-36 | − |
パウルの第一子(長女)。ルター派。
甥はのち(エレーナ・パーヴロヴナ死後)のヴュルテンベルク王ヴィルヘルム2世(1848-1921)。
父が誕生した頃、曽祖父フリードリヒ・オイゲン(1744-97)はヴュルテンベルク公の弟にすぎず、祖父フリードリヒ(1754-1816)も公の甥でしかなかった。フリードリヒは妹(マリーヤ・フョードロヴナ大公妃)のつてを頼ってサンクト・ペテルブルグにいた。
父パウルはサンクト・ペテルブルグで生まれて、マリーヤ・フョードロヴナ大公妃の夫パーヴェル・ペトローヴィチ大公にちなんで名づけられた。その後ロシア陸軍中将にまでなっている。
1816年、伯父フリードリヒ1世がヴュルテンベルク王となった時、父がシャルロッテを連れて復古王政下のパリに移住(母はひとりで実家に帰った)。暮らしは質素だったがキュヴィエをはじめとする多くの学者や知識人と交際し、これがシャルロッテの人格形成に大きな影響を与えていると考えられる。パリ生活は4年に及んだ。
1822年、大叔母にあたるロシア皇太后マリーヤ・フョードロヴナの目にとまり、ミハイール・パーヴロヴィチ大公と婚約。1823年には正教に改宗し、エレーナ・パーヴロヴナの洗礼名と父称をもらう。
ちなみに、この間わずか1年でロシア語をほぼマスターした。
五人の娘に恵まれたものの、ミハイール・パーヴロヴィチ大公との結婚生活は不幸であったらしい。そもそもミハイール・パーヴロヴィチ大公とは性格も嗜好もまったく異なっていた。
ロシアの皇后はアレクサンドル1世の妃エリザヴェータ・アレクセーエヴナにせよアレクサンドル2世の妃マリーヤ・アレクサンドロヴナにせよ、いずれも社交界にはあまり馴染めず、どちらかと言うと内気で引っ込み思案で人見知りのする大人しい女性が多かったが(その後のアレクサンドラ・フョードロヴナもそう)、エレーナ・パーヴロヴナ大公妃は彼女ら、特に甥の妃マリーヤ・アレクサンドロヴナとは仲良くなって、宮廷内で孤立しがちな彼女の支えになった(ただしニコライ1世の妃アレクサンドラ・フョードロヴナとの関係はうまく行かなかった)。
他方、エレーナ・パーヴロヴナ大公妃の支えになったのは義兄アレクサンドル1世(もっともほんの数ヶ月)と、意外にももうひとりの義兄コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公であった。特に結婚前からミハイール・パーヴロヴィチ大公の性格を憂慮していたコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は、何くれとなくエレーナ・パーヴロヴナ大公妃を気遣ったらしい(自分の結婚生活は棚に上げて、あるいはむしろ自分の失敗があったが故か)。
20年代後半、コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公の気遣いにもかかわらず、エレーナ・パーヴロヴナ大公妃とミハイール・パーヴロヴィチ大公の関係は破綻寸前にあった。その後エレーナ・パーヴロヴナ大公妃は、義母マリーヤ・フョードロヴナ皇太后(1828年死去)から譲られた慈善事業での活動などを通じて、自分の生活を築いていく。
特にクリミア戦争(1853-56)に際して看護活動を支援したことが注目される。この活動は、のちのロシア赤十字創設につながっていく。ナイティンゲールばかりが持て囃されるが、エレーナ・パーヴロヴナ大公妃ももっと評価されていい。
その他、医療や教育にも力と金を注いだ。
エレーナ・パーヴロヴナ大公妃は学問、芸術を自身も愛好し、また学者や芸術家を物心両面で支援した。彼女の庇護を受けた中には、イヴァーノフ、アイヴァゾーフスキイ、ピロゴーフ、オドーエフスキイ、ルビンシュテイン(と名前を列挙しても仕方ないが)等がいる。また、ニコライ1世、アレクサンドル2世政府から迫害されたプーシュキンやトゥルゲーネフとも交際。
さらにペテルブルグ音楽院の創設を主導し、ゴーゴリ全集の出版にも関与した。
アレクサンドル・アンドレーエヴィチ・イヴァーノフ(1806-58)は画家で、アカデミズムの大家。
イヴァン・コンスタンティーノヴィチ・アイヴァゾーフスキイ/オヴァネス・アイヴァジャン(1817-1900)はアルメニア人画家。主にクリミアで活動し、ロシアでは珍しい海洋画家として有名。
ニコライ・イヴァーノヴィチ・ピロゴーフ(1810-81)は外科医・解剖学者。セヴァストーポリにも従軍し、ギプスの改良、エーテル麻酔のロシアへの導入、従軍看護婦制度の創設などで有名。
ヴラディーミル・フョードロヴィチ・オドーエフスキイ公(1803-69)はリューリコヴィチ。作家、音楽批評家、慈善家として知られる。
アントーン・グリゴーリエヴィチ(1829-94)とニコライ・グリゴーリエヴィチ(1835-81)のルビンシュテイン兄弟はピアニスト・作曲家。のちに続くロシア発の世界的ピアニストの第一号であり、兄はペテルブルグ音楽院の、弟はモスクワ音楽院の創設者。なおこの兄弟(のどちらか)は一部で『猫踏んじゃった』の作曲者とも言われている。
特に1849年の夫の死後、ミハイロフスキイ宮殿は多くの学者、芸術家、知識人(特にリベラルな)の溜まり場となった。ニコライ1世の秘密警察も検閲もここには手が出せず、ニコライ自身これを黙認していた。これがのちの «大改革» につながったとも評価されている。実際、ここでは1856年頃から農奴解放が論議され、その実施案も検討されていた。
ロマーノフ家内のリベラリストで、義兄ニコライ1世もその意見を尊重していたと言われるが、より大きな政治的役割を果たしたのは甥アレクサンドル2世の治世である。アレクサンドル2世の弟コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公は特にエレーナ・パーヴロヴナ大公妃の影響を強く受けた。アレクサンドル2世の治世に行われた農奴解放、処刑の廃止などの諸改革は、コンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公が中心となって推進したが、エレーナ・パーヴロヴナ大公妃も積極的にこれを支援した。すでに1856年(農奴解放の5年前)、ポルターヴァ県の自分の所領の農奴を解放している。
ニコライ1世から «le savant de famille(一家の智慧)» と呼ばれたように、正規の教育を受けたわけではなかったので必ずしも体系的かつ専門的な知識を持っていたわけではなかったが、非常に知性と教養ある女性であった。
ただし性格は厳格で、その死までミハイロフスキイ宮殿に君臨した。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬される。