エカテリーナ・パーヴロヴナ
Екатерина Павловна, Katharina Pawlowna
大公女 великая княжна
ヴュルテンベルク王妃 Königin von Württemberg (1816-)
生:1788.05.10/05.21−ツァールスコエ・セロー
没:1818.12.28/1819.01.09(享年30)−シュトゥットガルト(ヴュルテンベルク、ドイツ)
父:皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1759-1828 (ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世・オイゲン)
婚約:1808
& ミハイール・ペトローヴィチ公 1780-1808 (ピョートル・ペトローヴィチ・ドルゴルーキイ公)
結婚①:1809−サンクト・ペテルブルグ
& ゲオルク 1784-1812 (オルデンブルク大公ペーター1世)
結婚②:1816−サンクト・ペテルブルグ
& ヴィルヘルム1世 1781-1864 ヴュルテンベルク王(1816-64)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
---|---|---|---|
ゲオルクと | |||
1 | アレクサンダー/アレクサンドル | 1810-29 | − |
2 | ペーター/ピョートル | 1812-81 | ナッサウ公女テレーゼ |
ヴィルヘルム1世と | |||
1 | マリーア | 1816-87 | ナイペルク伯アルフレート |
2 | ゾフィーア | 1818-77 | オランダ王ウィレム3世 |
皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの第六子(四女)。
皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチの妹で、ニコライ1世・パーヴロヴィチの姉。
アレクサンドル1世お気に入りの妹(一部には近親相姦説も)。
兄ふたり、アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公とコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は祖母エカテリーナ2世の手元で育てられたが、エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女ら妹弟たちは両親のもとで育つ。
1808年、ティルジットの和約に際してナポレオンから求婚されるが、エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女自身と母の反対で話は流れる。
1808年にはミハイール・ドルゴルーキイ公(リューリクから数えて第29世代)との貴賎結婚が発表されたが、ナポレオンの求婚を拒否する口実という意味合いもあったのかもしれない。発表された時にはすでにドルゴルーキイ公は戦死していた。
ゲオルク・フォン・オルデンブルクとの結婚は、ナポレオンの求婚をかわす目的もあって急遽整えられたものだった。にもかかわらず、エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女とゲオルクの結婚生活はうまくいったらしい。夫ゲオルクはトヴェーリ・ノーヴゴロド・ヤロスラーヴリ総督に任じられ、エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女は夫とともにトヴェーリに赴く。
トヴェーリの知事官邸では、晩餐会や舞踏会、祝祭日の記念行事などを催し、サンクト・ペテルブルグの宮廷生活を模倣した。
エカテリーナ・パーヴロヴナ大公女は、母とともに、皇族の中で反ナポレオンの急先鋒だった。そのため、ティルジットの和約で兄がナポレオンと手を結ぶと、これに強硬に反対。トヴェーリに反ナポレオン派を結集し、露骨に兄の政策を批判した。
1812年にはフョードル・ロストプチーンの復帰にも一役買い、ミハイール・スペランスキイ追い落としの急先鋒だった。
ニコライ・カラムジーン、ユーリイ・ネレディンスキイ=メレツキイ等を呼んで交流。1809年に兄アレクサンドル1世とカラムジーンとの仲も取り持つ(これによりアレクサンドル1世の認可でカラムジーンは『ロシア史』を刊行)。
ユーリイ・アレクサンドロヴィチ・ネレディンスキイ=メレツキイ(1752-1829)は古い貴族。軍人として出発し、宮廷人として出世。特段歴史に残るような人物でもないが、かれの17曲の歌曲の中にはいまでも歌われるものがあるらしい。
1812年、ナポレオンのロシア侵攻に際しては国民的抵抗という考えに立ち、トヴェーリの農民を組織して旅団を編成。この年末ゲオルクが死去。
もともとエカテリーナ大公女は政治向きに関心があり、しかもアレクサンドル1世のお気に入りの妹であったこともあって、独り身となった後は兄に随行してヨーロッパ中を出回り、ヴィーン会議にも出席。アレクサンドル1世の政策にも多大な影響を与えた。
1815年、イギリス滞在の折りに出会ったヴュルテンベルク王太子ヴィルヘルムの求婚を受け入れ(ヴィルヘルムは妃を離縁)、1816年に結婚。その年、ヴィルヘルムは即位し、エカテリーナ大公女は王妃となった。
王妃として、エカテリーナ大公女は慈善事業に力を注ぐ。
若干30にして肺炎をこじらせた丹毒で死去。ヴィルヘルム1世とイタリア人女性ブランシュ・ド・ラ・フレシュとの関係を知って、冬の最中に薄着一枚で城を飛び出して引いた風邪をこじらせたとも言われる。
エカテリーナ大公女が死ぬとヴィルヘルムはシュトゥットガルト近郊のローテンベルクに霊廟を建てた。そこには次のように記されている。
「Die Liebe höret nimmer auf. (この愛は決して死なない)」
歴代ヴュルテンベルク王妃の中で(と言っても5人しかいなかったが)、おそらく最も人気の高い王妃である。もっとも、その人柄が愛されたとか、いまでも遺徳が慕われているとかいうことではないようだ。
最近出版された伝記の惹句。
Katharina Pawlowna - eine sehr ambitionierte und populäre Herrscherin - mit einem dramatischen Leben und einem frühen, rätselhaften Tod.
カタリーナ・パヴロヴナ、非常に野心家でポピュラーな王妃。その劇的な人生と、早すぎた不可解な死とで。
ちなみに、ゲオルクもヴィルヘルムもどちらもエカテリーナ大公女の実の従兄弟であるが、正教では従兄弟同士の結婚は禁じられていたはず。この時は問題にならなかったのだろうか?