ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ(ゾフィー)

Sophie Friederike Augusta, Екатерина Алексеевна "Великая"

アンハルト=ツェルプスト侯女 Prinzessin von Anhalt-Zerbst
大公妃 великая княгиня (1745-61)
ロシア皇妃 императрица Всероссийская (1761-62)
ロシア女帝 императрица Всероссийская (1762-)

生:1729.04.21/05.02−シュテッティン(現シチェツィン、ポーランド)
没:1796.11.06/11.17(享年67)−ツァールスコエ・セロー

父:クリスティアン・アウグスト 1690-1747 アンハルト=ツェルプスト侯(1742-47)
母:ヨハンナ・エリーザベト 1712-60 (クリスティアン・アウグスト・フォン・ホルシュタイン=ゴットルプ)

結婚:1745−サンクト・ペテルブルグ
  & 皇帝ピョートル3世・フョードロヴィチ 1728-62 (ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒ

愛人① 1752-55:セルゲイ・サルトィコーフ 1726-
愛人② 1757-59:スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ 1732-98
愛人③ 1759-72:グリゴーリイ・オルローフ 1734-83
愛人④ 1772-74:アレクサンドル・ヴァシーリチコフ 1740s-1803
愛人⑤ 1774-76:グリゴーリイ・ポテョームキン 1739-91
愛人⑥ 1776:ピョートル・ザヴァドフスキイ伯 1739-1812
愛人⑦ 1776:シモン・ゾーリチ 1743-99
愛人⑧ 1776-78:イヴァン・リムスキイ=コールサコフ 1754-1831
愛人⑨ 1778-84:アレクサンドル・ランスコーイ 1758-84
愛人⑩ 1784:アレクサンドル・エルモーロフ 1754-1836
愛人⑪ 1784-89:アレクサンドル・ドミートリエフ=マモーノフ 1758-1803
愛人⑫ 1789-96:プラトーン・ズーボフ公 1767-1822

子:

生没年結婚相手
ピョートル3世・フョードロヴィチと
1パーヴェル(皇帝)1754-1801ヘッセン=ダルムシュタット方伯女ヴィルヘルミーナ
ヴュルテンベルク公女ゾフィーア・ドロテーア
2アンナ1757-59
グリゴーリイ・オルローフと (父称はグリゴーリエヴィチ、姓はボーブリンスキイ)
1アレクセイ1762-1813アンナ・ヴラディーミル・ウンゲルン=シュテルンベルク
グリゴーリイ・ポテョームキンと (父称はグリゴーリエヴナ、姓はテョームキン)
1エリザヴェータ1775-イヴァン・カラゲオルギ

北ドイツの領邦君主クリスティアン・アウグストの第一子(長女)。ルター派。
 ちなみに弟ひとりと妹ふたりは夭折。生き残ったのは弟フリードリヒ・アウグスト(1734-93)のみ。

 アスカニア家は古くからノルトマルク辺境伯、ブランデンブルク辺境伯、ザクセン選帝侯などを世襲してきた北東ドイツの名門中の名門。しかし15世紀以降はあらゆる所領と称号を失い、わずかにアンハルトだけを領有する弱小貴族になっていた。
 しかもさらに複数の系統に分裂。アンハルト=ツェルプスト系の分家に生まれた父クリスティアン・アウグストは自前の所領すら持たず(ゾフィーの誕生当時アンハルト=ツェルプスト侯は父の従兄弟)、プロイセン軍に勤務していた。ゾフィーの誕生当時は少将(のち元帥)。
 一方母ヨハンナは、ホルシュタイン=ゴットルプ公家の分家の出。従兄弟がホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒであり、つまりヨハンナはピョートル・フョードロヴィチ大公のごく近い親族ということになる。のみならず、亡き長兄カール・アウグスト(1706-27)は女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの婚約者でもあった。その関係もあって、1743年には次兄アードルフ・フリードリヒ(1710-71)がロシアによって将来のスウェーデン王位を与えられている(実際の即位は1751年)。
 つまり、その子ゾフィーは、父方からはさえない弱小貴族の娘でしかなかったが、母方からはロシア皇帝家にもスウェーデン王家にもつながりのある名門であったと言える。

 そのあたりの考慮が働いたのかどうかはわからない。が、後継ぎであるピョートル・フョードロヴィチ大公の花嫁を探していた女帝エリザヴェータ・ペトローヴナは、プロイセン王フリードリヒ2世(1712-86)の推薦を受けて1744年にゾフィーをサンクト・ペテルブルグに招く。
 ピョートル・フョードロヴィチ大公に気に入られたゾフィーは、父祖伝来のルター派を棄てて正教に改宗。エカテリーナの洗礼名とアレクセーエヴナの父称をもらう(エリザヴェータ・ペトローヴナの母である女帝エカテリーナ1世にちなんだのか?)。そして1745年、エカテリーナ・アレクセーエヴナはピョートル・フョードロヴィチ大公と結婚した。
 ちなみに、ロマーノフ家の婿・嫁で正教に改宗した異教徒のプリンス、プリンセスはエカテリーナ・アレクセーエヴナが最初。それまでは全員ルター派にとどまっていた。

なお、ロマーノフ家の結婚相手はルター派がほとんどで、それ以外のプロテスタントはごく少数。カトリックは3例だけしかない。ルター派以外のプロテスタントが少なかったのは偶然。そもそもルター派以外のプロテスタントを信仰する王侯貴族が少なかったためである。他方、カトリックとの結婚は意図的に避けられた。これは、東方正教会がローマ・カトリックを敵視(?)していたためである。

 ロマーノフ家に入った外国人は数あれど、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃ほど成功した者はあるまい。彼女ほどロシアを愛し、彼女ほどうまくロシア語を操り、彼女ほどロシア人を理解し、つまりは彼女ほど完璧に «ロシア人になった» 者はいない。しかもそれが、意識的な努力の結果なのだからなおさら驚かされる。
 さらに彼女が稀有な点は、信仰の面で中庸を歩んだことである。
 ピョートル・フョードロヴィチ大公のように正教徒となってもルター派に未練たらたらだった者、ツァレーヴナ・ソフィヤ・シャルロッタのようにそもそも改宗しない者などが一方にいれば、最後の皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナのように «狂信的» になった者がもう一方にはいる。やはり思春期において、ア・プリオリのものであった世界観を破壊され、まったく新たな世界観を受容するというのは、時としてトラウマちっくな経験になるのだろう。
 その点エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃は、啓蒙主義時代に生まれたせいもあったのかもしれないが、信仰の問題にはむしろ無頓着と言ってもいいほどの態度を示している。
 啓蒙主義の時代の申し子として、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃はモンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベールなどの啓蒙思想家の書物に親しむ(のちに即位後には書簡を交わしたりロシアに招いたりもしている)。

モンテスキュー男爵シャルル・ド・セコンダ(1689-1755)はフランス人。『法の精神』で著名。専制君主制を批判し、三権分立を説いた。エカテリーナ2世とは直接のつながりはなかったが、彼女の思想に大きな影響を与えた。
 ヴォルテール(1694-1778)はフランス人。«フェルネーの長老»。啓蒙主義の代表的思想家。フリードリヒ大王とも親交があったが、エカテリーナ2世とも書簡のやり取りをし、政治的には穏健な君主主義者だったヴォルテールは彼女を讃えている。
 ドニ・ディドロ(1713-84)はフランス人。小説も書いたが、啓蒙主義思想の総決算、百科全書の編集・発行で歴史に名を残している。エカテリーナ2世とは頻繁に書簡のやり取りをし、資金繰りに困った時には蔵書をエカテリーナ2世に買い取ってもらい、その代金で百科全書の刊行を続けた(ただしエカテリーナ2世は買い取った蔵書をそのままディドロの手元に残した)。サンクト・ペテルブルグも訪問している(1773-74)。
 ジャン・ダランベール(1717-83)はフランス人。力学の研究で知られる数学・物理学の専門家だが、それ以上に百科全書の編集・発行で著名。エカテリーナ2世とも書簡のやり取りをしている。
 フリードリヒ・メルキオール・グリム男爵(1723-1807)はドイツ人。その生涯の大半をパリで送り、百科全書派の思想を紹介することに尽力した。エカテリーナ2世としばしば書簡のやり取りをし、その中でエカテリーナ2世はかなり赤裸々な感情をさらしている。1773年にヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタットに付き添ってサンクト・ペテルブルグを訪問。以後、パリにおけるエカテリーナの代理人的役割を果たす。
 ベッカリーア侯チェーザレ・ボネサーナ(1738-94)はイタリア人。『犯罪と刑罰』で著名な法学者で、拷問・死刑の廃止を主張。エカテリーナ2世と直接的なつながりはなかったが、彼女の思想に大きな影響を与えた。

 エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃とピョートル・フョードロヴィチ大公とは、性格的にも、その教養も、また趣味・興味の分野もまったく異なっていた。そのためふたりはまったく合わず、やがて互いに嫌い合うまでになる。

ちなみに、芸術にはまるで興味を持たなかったピョートル・フョードロヴィチ大公が唯一興味を持った音楽が、芸術愛好家だったエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃が唯一苦手とした分野だったのは皮肉である(彼女は音痴だった)。ピョートル・フョードロヴィチ大公はバイオリンが得意だったが(上手かったかどうかは話が別)、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃にとっては騒音以外の何物でもなかった。

 しかしこうなって最も困るのは、後継ぎの見込みが立たない女帝エリザヴェータ・ペトローヴナであった。
 1752年頃、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃はセルゲイ・サルトィコーフを愛人とする。しかし一説には、これはとにかくエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃に子を生ませたいエリザヴェータ・ペトローヴナにあてがわれたものだとも言われる。
 その努力(?)が実ってか、1754年、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃は待望の男子パーヴェル・ペトローヴィチ大公を生む。
 一説にはパーヴェル・ペトローヴィチ大公セルゲイ・サルトィコーフの子とも言われ、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃自身がのちに回顧録の中でそのことを強く示唆している。もっともこの回顧録にはかなりのバイアスがかかっているのではないかとも想像されるので、必ずしも鵜呑みにはできないと思う。何しろこの回顧録の中でエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃は、ピョートル・フョードロヴィチ大公との間に性的関係がなかったことすらほのめかしているのだ。さすがにそれはあり得ないだろう(もし肉体関係がなかったとしたら、ピョートル・フョードロヴィチ大公パーヴェル・ペトローヴィチ大公を自分の子として認知するはずがない)。
 パーヴェル・ペトローヴィチ大公はエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃から引き離され、エリザヴェータ・ペトローヴナの手元で育てられることになった。

 1755年、セルゲイ・サルトィコーフはハンブルクに外交官として派遣され、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃との関係は終わった。その一方で、今度はピョートル・フョードロヴィチ大公エリザヴェータ・ヴォロンツォーヴァとの関係を始めた。

 この頃からエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃は、自ら政治家や外交官たちと接触を持つようになり、宰相アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン伯、イギリス大使サー・チャールズ・ハンベリー=ウィリアムズ、ニキータ・パーニン伯、キリール・ラズモーフスキイ伯にも接近する。
 1757年、サンクト・ペテルブルグに外交官として派遣されてきたポーランド貴族スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを愛人とする。
 ちょうどこの頃は七年戦争開始の時期で、フランス・ハプスブルク家との結びつきを強める女帝エリザヴェータ・ペトローヴナに対して、ベストゥージェフ=リューミン伯やサー・チャールズは親英政策に転換させようと画策していた。スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキもサー・チャールズの書記官であり、これに加担していた。当然エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃もこれに巻き込まれる。しかしこの «陰謀» は発覚し、1758年にはベストゥージェフ=リューミン伯が失脚。ポニャトフスキも1759年にはポーランドに送り返された。エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃もエリザヴェータ・ペトローヴナに睨まれてその地位を危うくしたらしい。
 なお、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の第二子アンナ・ペトローヴナ大公女はポニャトフスキの子だとも言われており、ポニャトフスキがその後終生結婚しなかったのは、生涯エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃を想い続けていたからだ、とも言われる。

ニキータ・イヴァーノヴィチ・パーニン(1718-83)は軍人としてスタートし、外交官として活躍。1760年にパーヴェル・ペトローヴィチ大公の養育係に任命される。外務参事会議長(1763-81)として、エカテリーナ初期の外交政策を指導した。伯。

 この時期、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃はその後の生涯において重要な役割を果たすふたりの人物と出会っている。
 ひとりはエカテリーナ・ダーシュコヴァ公妃(1743-1810)。1758年に出会ったふたりは、啓蒙主義者として意気投合し、ロシアの近代化・西欧化のために手を携えて尽力することになる。なお彼女はエリザヴェータ・ヴォロンツォーヴァの実妹。
 もうひとりは、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの後を継いでエカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の愛人となった、グリゴーリイ・オルローフである。

 1761年クリスマス、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナが死去。ピョートル・フョードロヴィチ大公が即位した。
 これは、エカテリーナ・アレクセーエヴナ大公妃の人生にあって大きな転換点となった。ただ単に大公妃が皇妃となった、というだけではない。妃を嫌っていたピョートル3世が、皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナを修道院に押し込めるか国外に追放するかして、エリザヴェータ・ヴォロンツォーヴァを妃にしようと考え、しかもそれを公然と口にしていたからである。
 自分を護るには行動するしかなかった。しかし幸いなことに、ピョートル3世はロシア国内から総すかんを食らっていた。さらに幸いだったのは、クーデタ決行で最も重要な近衛兵の中に、グリゴーリー・オルローフがいたことである。
 1762年7月、グリゴーリイを筆頭とするオルローフ兄弟やニキータ・パーニン伯らの指揮する近衛兵が中心となってクーデタを起こし、ピョートル3世を廃位。皇妃エカテリーナ・アレクセーエヴナが女帝に擁立された。
 ピョートルはロープシャに幽閉されたが、1週間後にグリゴーリイ・オルローフの弟アレクセイ・オルローフらに殺される。エカテリーナが殺させたとも言われている。

 エカテリーナ2世は、ロマーノフ家の血を一滴も継がずに女帝となった。その点、エカテリーナ1世と同じで、外からロマーノフ家に入ってエカテリーナ・アレクセーエヴナを名乗った女性がふたり続けて皇妃から女帝になったというのは奇妙な偶然である。
 世襲に基づく正統性は、息子のパーヴェル・ペトローヴィチ大公にこそあった。当時7歳のパーヴェル・ペトローヴィチ大公を皇帝とすることは現実的ではなかったかもしれないが、幼君を母后が摂政として補佐するというのはヨーロッパでは一般的であったので、決してあり得ないことではなかった(クーデタの主役ニキータ・パーニン伯はこれを主張していた)。しかもいったん即位した後も、あくまでもエカテリーナをパーヴェル・ペトローヴィチ大公が成人するまでの «つなぎ» と考え、パーヴェル・ペトローヴィチ大公が成人した暁には譲位すべきだとの考えもあった。しかしエカテリーナには、いったん獲得した権力を手放すつもりは毛頭なかった。
 このためエカテリーナは終生パーヴェル・ペトローヴィチ大公に警戒心を絶やさず、それが母子関係をおかしくした一因になったとも言える。
 また、ほかにロマーノフ家の血を継ぐ者と言えば、元皇帝イヴァン6世とその弟妹たちがいた。
 そのイヴァン6世は1764年に、幽閉先のシュリッセリブルグの監獄で、エカテリーナ2世に替えてかれを皇帝にしようとするヴァシーリイ・ミーロヴィチの陰謀(下級貴族の暴走によるもので、政治的背景はなかったものと思われる)に巻き込まれ、警護兵によって殺されている。
 その弟妹たちも、極北のホルモゴールィに流刑されたままだったが、1780年になってエカテリーナ2世はかれらをデンマークに出国させている。元皇帝でもなく、ロシア人もその存在すらほとんど知らず、また自身の権力基盤も固まった(と判断したのだろう)ことから、もはや脅威にならないと考えたのだろう。

 啓蒙思想にかぶれたエカテリーナ2世は、一般的には啓蒙専制君主として知られている。
 学術・芸術・教育行政においては、自身と同じく啓蒙主義に染まったイヴァン・ベツコーイを、やがてエカテリーナ・ダーシュコヴァ公妃を重用している。
 特に教育については80年代から大規模な平民向け学校の開設が各地で始められた。教師や建物といったインフラの不足もあって必ずしも成功したとは言えず、しかも通学した平民の多くが貴族の召使いであった(召使いに読み書きを習わせて領地や屋敷の管理・運営に当たらせた)。そのような欠陥はあるにせよ、平民のための学校が開設され、割合的には少数ながらもそこで学んだ平民がいた事実はロシアの歴史において画期的なことである。またイヴァン・ベツコーイはロシア初の女子教育機関スモーリヌィイ学院を創設している(1764)。
 科学アカデミーは創設以来ないがしろにされてきた。総裁キリール・ラズモーフスキイ伯(1724-1803)は名前だけの存在で、レオンハルト・オイラー(1707-83)も見切りをつけてベルリン・アカデミーに去っていた。エカテリーナ2世はオイラーを呼び戻し、ヴラディーミル・オルローフ伯(グリゴーリイの弟)をディレクトル(総裁の下で実務を取り仕切る役)に就け、活動を活性化させた。また1763年にはイヴァン・シュヴァーロフに替えてイヴァン・ベツコーイを芸術アカデミー総裁に任じ、それまでシュヴァーロフ邸で活動を行っていた芸術アカデミーのために自前の建物を建ててやった。1783年にはエカテリーナ・ダーシュコヴァ公妃を科学アカデミーのディレクトルに任命。さらにはアカデミー・フランセーズに倣ったロシア語・文学の研究・教育機関ロシア・アカデミーを創設し、これもダーシュコヴァ公妃を総裁に任じた。
 エカテリーナ2世はまた、医療参事会の創設に見られるように国民の健康にも気を配り、1768年、自らロシア初の種痘を受けている。これにより、ロシアにも種痘が広まっていった。
 しかし啓蒙主義者としてのエカテリーナ2世が最もよく表明されたのが、1767年に試みられた法典改正であろう。これは、広範な代表から成る立法委員会を招集し、永年の懸案となっていた1649年の «会議法典» の改正を試みたものである。エカテリーナ2世は自らその «草案» を起草したりもした。これはヴォルテールから激賞された一方でルイ15世(1710-74)のフランス政府からは出版が禁止されたことで知られるが、基本的にはモンテスキューなどの啓蒙思想家とベッカリーア(刑法関係)の翻案でしかなかった。立法委員会が広範な代表を集めたのは民主的とも言えようが、選出された代表はとうていあい矛盾する様々な利益を調整し、ましてやエカテリーナ2世の啓蒙主義に沿って立法化するという責務には堪え得なかった。当然のごとくこの試みは何ら成果を挙げることなく、委員会も1768年には解散となった(ちなみにこの時のとあるセッションが、エカテリーナ2世に «大帝 Великая» の称号を受けるよう陳情した。エカテリーナは拒否したが、一般に定着した)。
 また、教会を国家の下に位置づけるピョートル大帝以来の政策を引き継ぎ、1764年にはピョートル3世の決定していた教会領・修道院領の国有化を実施した。これによりロシアの土地は、大雑把に言って皇帝、国家、貴族によって三分割されたことになり、聖職者は国家官僚化した。

イヴァン・イヴァーノヴィチ・ベツコーイ(1704-95)は元帥トルベツコーイ公の私生児。特に教育・芸術関係でエカテリーナを補佐し、モスクワとペテルブルグの孤児院、スモーリヌィー学院などを開設。その努力により、西欧流の教育がロシアに浸透していった。芸術アカデミー総裁(1763-95)。ピョートル騎馬像、ネヴァ河岸通り、エカテリーナ運河、フォンタンカ、エルミタージュなどの建設も支援した。
 アレクサンドル・アレクセーエヴィチ・ヴャーゼムスキー公(1727-93)はリューリコヴィチ。軍人としてスタートしたが、エカテリーナ2世により元老院検事総長に任命される(1764-92)。特に治世当初のエカテリーナ2世の統治を助け、それにより元老院が日常政務の実務機関としての権限を拡大した。
 アレクサンドル・ロマーノヴィチ・ヴォロンツォーフ(1741-1805)はエリザヴェータ時代の宰相の甥であり、ダーシュコヴァ公妃の実兄。パーニン伯と共にエカテリーナ2世初期の外交を指導した。ラディーシチェフと親しく、それがエカテリーナ2世の逆鱗に触れたのか、1774年に引退。伯。
 アレクサンドル・アンドレーエヴィチ・ベズボロードコ(1747-99)はザポロージエ・コサック。1775年以来エカテリーナ2世の側近。パーニン伯に代わって、特に1780年代の外交を主導した。また同じ時期のすべての勅令を準備。元老院令も多くがかれの手になる。公。

ロシア・アカデミー Российская академия は、初の «まともな» ロシア語辞典を筆頭に、教会スラヴ語辞典やロシア語の文法書を編纂、出版するなどの功績を残したが、1841年に科学アカデミーに統合された。

 エカテリーナ2世の時代はロシアの芸術が最初に花開いた時期と言うことができる。
 ピョートル大帝により西欧芸術に目覚め、エリザヴェータ時代にそれにどっぷり浸ったロシア貴族は、エカテリーナの時代になると自らの所領にも西欧芸術を導入しようとする。しかし需要と供給はアンバランスで、何より直接輸入しようとなれば金がかかる。最も安上がりなのは、所有する農奴の中から才能のある者に専門教育を受けさせて、西欧芸術の専門家にしてしまうことだ。すでに芸術家養成のための教育機関は種々存在していたし、幸いエカテリーナ2世が平民のための学校も各地に開設してくれた。
 こうしてエカテリーナ時代の特に末期から大貴族たちが自分の農奴たちから編成した劇団やオーケストラを抱え、自分の領地内に建てた私的な劇場で演劇やバレエを上演させることが流行る。代表格が、オスタンキノ宮殿(別荘兼劇場)を建てたシェレメーテフ伯家(シェレメーテフ伯家はほかに5つの農奴劇場を持っていた)。

農奴劇場 крепостной театр は農奴制の崩壊までに大小取り混ぜて200近くも存在したと言われる。私的なものであったり田舎にあったりしたため、詳細はほとんど不明で、しかも個々の劇場によって事情が大きく異なる(らしい)。図式化して言えば、非公開で貴族の客を相手に(富を誇示するために)上演するものと、営利目的で大衆相手に上演するものとがあったが、後者は田舎によく見られた。定期市で公演することもしばしばだった。これら地方の農奴劇場は、文化の地方への普及、地方文化活性化の上で重要な役割を果たした。また、独自に «農奴芸術家» を育成したことで、特にその閉鎖後に多くの «農奴芸術家» が官立の劇場に流出し、19世紀にロシアの演劇・バレエ・オペラが一躍発展する基盤をつくった。行政面では無責任階級となっていたロシア貴族も、文化面では一応 «ノブレス・オブリージュ» を果たしたと言える。

«農奴芸術家» として最も有名なのはミハイール・セミョーノヴィチ・シチェープキン(1788-1863)だろう。ヴォリケンシュテイン伯の農奴劇場で子役としてデビュー。その後ほかの劇団に貸し出され、ロシア各地で俳優として活躍。その演技が評判を呼び、パトロンの支援で1822年に農奴の身分から解放される。1824年にはマールィイ劇場に招かれた。『智慧の苦しみ』のファムーソフ、『検察官』の市長などの演技も評判を取った。独自の演技法を確立し、リアリズム演劇の父と呼ばれることもある。
 プラスコーヴィヤ・コヴァリョーヴァ(1768-1803)もよく知られている。彼女はシェレメーテフ伯家の農奴で、父は鍛冶屋(なのでコヴァリョーフ)だったが、オスタンキノ宮殿のソプラノ・オペラ歌手となり、ジェムチュゴーヴァの芸名を与えられ、1787年にはエカテリーナ2世も彼女の舞台を観覧している。ついには農奴の身分から解放され、1801年、元の持ち主ニコライ・シェレメーテフ伯と秘密結婚した(やがて出産に際して死去)。

 絵画や彫刻、建築では依然として西欧人が大多数を占めていた。しかしかれらの弟子として、あるいは西欧に赴いて学んだロシア人も徐々に現れてくる。芸術アカデミーもそれを後押しした。ただしこの分野でもロシア人の多数は平民か農奴であった。画家、彫刻家、建築家は所詮手工業者の一種と見られていたためである。

 同じく芸術と言っても文学はこれらとは大きく異なる。農奴出身の文学者がいなかった点だ。ガヴリーラ・デルジャーヴィン(1743-1816)、ニコライ・ノヴィコーフ(1744-1818)、デニース・フォンヴィージン(1745-92)、アレクサンドル・ラディーシチェフ(1749-1802)、そしてニコライ・カラムジーン(1766-1826)はエカテリーナ時代を代表する文学者であるが、いずれも貴族である。かれら貴族出身の文学者・知識人はある意味でエカテリーナ2世の啓蒙主義の申し子と言える。
 エカテリーナ自身、即位直後にパリでの百科全書出版継続が禁じられていたディドロとダランベールをサンクト・ペテルブルグに招いて出版を継続するよう要請している(が断られた)。さらに1769年からは自ら『Всякая всячина(何でもかんでも、という程度の意味)』という雑誌を発行し、自らペンを取って民衆(と言ってもメインは貴族)の啓蒙に乗り出した。ノヴィコーフなどは特にこれに刺激を受けて、自ら雑誌を発刊し、風刺の効いた筆致で啓蒙的な論文を次々に発表している。
 やがてかれらの多くは体制に批判的になり、その «末裔» である «インテリゲンツィヤ» が19世紀にはオピニオン・リーダーとなってロシア社会を大きく揺るがす存在となっていく。

 エカテリーナ2世は、その本質は絶対専制君主であり、領土的に広大で、互いに矛盾する利益を有する諸階級を統一的に支配するためには絶対的な権力を有する専制君主制が不可欠であると考えていた。このため、即位当初ニキータ・パーニン伯から提言された諮問機関設置を却下している(ニキータ・パーニン伯は制限君主制を考えていたらしい)。
 何よりエカテリーナ2世は、クーデタで即位し、しかも自身としては皇位に就く正統性を貴族の支持以外に一切有していなかったため、貴族の支持をつなぎとめることに、特に治世初期には躍起となっていた。かと言って君主権を制限する気のないエカテリーナ2世は、他の階級を犠牲にした。1767年、領主を訴える権利を農奴から剥奪。これにより、ロシアの農奴制は完成したとされる。しかしこのような法制的側面よりも、エカテリーナ2世が大量の農民を貴族たちに下賜したことの方が重要だろう。同じ農民と言っても皇帝領農民の主人は皇帝、国有地農民の主人は国家(究極的には皇帝)であり、領主の所有物であった私有地農民とは異なる地位にあった。実際、農奴とは私有地農民のことで、皇帝領農民と国有地農民は1767年の立法委員会にも代表を派遣している。ところがエカテリーナ2世により大量の国有地と国有地農民が貴族たちに与えられ、その結果として農奴が拡大した。こうしてロシアは «貴族の天国、農民の地獄» となった。

なお、«貴族の天国、農民の地獄» は特にロシアのことを言った言葉ではない。時に «農民» の部分がほかの言葉に置き換えられたり «貴族の天国» だけが使われたりもするが、たとえばポーランドやプロイセンなどに関してもこの言葉は使われる。いつ、誰が、どの国について言い始めた言葉かは不明だが、貴族が絶大な権力を持った国についてよく使われる。

 エカテリーナ2世は対外政策においても、伝統的な拡張主義政策を継承。弱体化したポーランドとオスマン帝国を犠牲にして、前代以上の積極的な領土拡張政策を採る。その際、最初の同盟相手は、伝統的なハプスブルク家ではなくプロイセンだった。エカテリーナ2世初期の外交を指導したニキータ・パーニン伯は «北方諸国» との友好関係を基軸とし、プロイセン、ポーランド、スウェーデン等と協調してまずはオスマン帝国に当たることを基本方針としていた。

 1763年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世/ポーランド王アウグスト3世(1696-1763)が死去。
 これに乗じてエカテリーナはクールラントに侵攻。クールラント公となっていたアウグスト3世の次男カール(1733-96)を追放し、エルンスト・ビロンをクールラント公に復位させる。クールラントは再びロシアの衛星国となった。
 さらにポーランド王選挙に介入。1756年以降同盟関係にあるハプスブルク家とフランスが共同して候補者を擁立しようとしたのに対して、エカテリーナはかつての愛人スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを押し付けようと、フリードリヒ大王に接近。«露普同盟» は «仏墺同盟» を圧倒し、1764年にスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキがポーランド王として即位した。
 1764年にはまた、ザポロージエ・コサックのヘトマンであるキリール・ラズモーフスキイ伯を解任。ヘトマン制度を最終的に廃止し、ピョートル・ルミャーンツェフをマロロシア(ウクライナ)総督に任じて、ザポロージエ・コサックに対する直接統治を復活させた。

 ポーランド王となったスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキは諸外国の干渉に左右されない強力な王権を樹立するため積極的に改革を推進。しかし王権の強化に反発する共和派貴族の要請に応えて1767年にエカテリーナが介入。こうして改革は葬られた。
 しかし、ロシアの強権的姿勢には共和派も反発。さらにその勢力拡大には周辺諸国も警戒感を強めた。特にポーランドの伝統的な友好国フランスと、ポーランドに大きな利害関係を持つハプスブルク家は、共同して共和派を支援。1768年、共和派の反ロシア蜂起が勃発し、さらにこれに乗じてオスマン帝国がロシアに宣戦を布告した。オスマン帝国はフランスの友好国でもあった。逆にハプスブルク家とは伝統的に相容れない関係にあったが、ロシアという共通の敵を前に急接近していた。こうしてロシアは、ポーランド、フランス、ハプスブルク家、オスマン帝国(+クリム・ハーン国)、さらには陰ながらこれらを支援するイギリスを敵にまわして戦うことになった。
 これに対してエカテリーナは、アレクセイ・オルローフ伯(グリゴーリイの弟)率いるバルト海艦隊を、カレー海峡経由でエーゲ海へ派遣。オルローフ艦隊はオスマン海軍を破り、ダーダネルス海峡を封鎖。
 陸路でもピョートル・ルミャーンツェフ率いる陸軍がオスマン帝国に侵攻し、モルドヴァ、ヴァラキアを占領。
 1771年にはヴァシーリイ・ドルゴルーキイ公がクリミアを占領。翌年にはクリム・ハーン国にロシアの宗主権を認めさせた。
 さらにポーランドでもアレクサンドル・スヴォーロフが反露蜂起軍を撃破。

ピョートル・アレクサンドロヴィチ・ルミャーンツェフ(1725-96)はピョートル大帝の愛人マリーヤ・ルミャーンツェヴァの子で、18世紀を代表する軍人。マロロシア総督(1764-96)としてザポロージエ・コサックの体制への取り込みを推進。露土戦争(1768-74)の英雄。ドナウを越えてイスタンブールに迫ったその功績でザドゥナイスキイ(«ドナウの彼方»)の名前をもらう(ルミャーンツェフ=ザドゥナイスキイ)。元帥(1770)。伯。
 ヴァシーリー・ミハイロヴィチ・ドルゴルーキイ公(1722-82)はリューリコヴィチ。露土戦争(1768-74)ではクリム・ハーン国を屈服させ、クルィムスキイの名前をもらう(ドルゴルーキイ=クルィムスキイ)。元帥杖をもらえなかったことに腹を立てて退役したと言われる。モスクワ総司令官(1780-82)。
 アレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・スヴォーロフ(1730-1800)は、ロシアで最も讃えられる軍人。露土戦争(1787-91)の活躍に対してルィムニクスキイの名前をもらう(スヴォーロフ=ルィムニクスキイ)。1799年からイタリア遠征を指揮し、アルプス越えを敢行してスイスへ。その功績でさらにイタリイスキイの名前をもらう(スヴォーロフ=イタリイスキイ)。元帥(1794)。大元帥(1799)。伯、公。

なお、功績のあった軍人に名前を授けるというのはエカテリーナ2世が始めたもので、功績を象徴する戦闘の行われた場所にちなむ。ルミャーンツェフ=ザドゥナイスキイ、ドルゴルーキイ=クルィムスキイ、スヴォーロフ=ルィムニクスキイのほかに、オルローフ=チェスメーンスキイ、ポテョームキン=タヴリーチェスキイなどがある。パーヴェルの代にもスヴォーロフ=イタリイスキイ、アレクサンドル1世の代にもクトゥーゾフ=スモレンスキイ、ニコライ1世の代にもディービチ=ザバルカンスキイ、パスケーヴィチ=エリヴァンスキイ、パスケーヴィチ=ヴァルシャフスキイ(同一人物)、ムラヴィヨーフ=アムールスキイ、アレクサンドル2世の代にもムラヴィヨーフ=ヴィレンスキイなどがあるが(最後の3例は少々異なる例だが)、その後廃れた。忘れていたが、ニコライ2世の代にもセミョーノフ=テャン=シャンスキイという例がある(が、かれは学者)。

 事態の収拾は、ふたつの形で図られた。
 ひとつはポーランド分割である。1770年にフリードリヒ大王と始めた交渉にハプスブルク家も参加し、1772年、3国の間で合意に達する。ポーロツク・ヴィテブスク・ゴーメリなど現ベラルーシ東部をロシアが、ポメレレン(西プロイセン)をプロイセンが、南マウォポルスカ・西ポドリエ(ガリツィア)をハプスブルク家が獲得した。共和派とフランスはハプスブルク家に見棄てられる形になった。
 なお、このポーランド分割は思わぬ副産物をもたらした。ユダヤ人の出現である。それまでロシアにはほとんどユダヤ人はいなかった。しかしポーランド分割の結果、ベラルーシに住んでいた多くのユダヤ人が新たにロシアの支配下に組み込まれることになった。その後第二次・第三次ポーランド分割とポーランド «会議王国» の成立により、さらに大量のユダヤ人がロシア臣民となる。エカテリーナ2世は啓蒙専制君主として、ユダヤ人を特段差別しなかったようだ。つまりはほかの少数民族同様の特殊な権利を認めた。しかし保守化していくにつれてユダヤ人への対応も変化し、ユダヤ人差別は顕在化・制度化されていく。

 残るは対オスマン戦争だが、こちらではエカテリーナは強気で、連戦連勝のロシア軍はついに1774年にはドナウを渡河。イスタンブールにまで迫る勢いだった。
 しかしまさにこの時、100年前のステンカ・ラージンの乱に勝るとも劣らぬ大規模なコサックの叛乱が国内でエカテリーナ政権を脅かした。

 1773年、エメリヤーン・プガチョーフに率いられたヤイク・コサックの乱が勃発。これに農奴、タタール人、バシュキール人、カルムィク人が合流。叛乱軍は北上し、異民族の支配的な辺境地域からロシア人が多数を占める農村地域へと進んでいく。これに伴い、コサック・異民族の叛乱であったものが急速にソ連史学の言う «農民戦争» の様相を呈していく。領主貴族や官吏を各地で虐殺し、ついには南東地域の拠点オレンブルグを半年にわたって攻囲。1774年、これが陥とせぬとなるとさらに北上し、そこから西進してカザニを占領する。
 エメリヤーン・プガチョーフ自身はドン・コサックであったが、ドン・コサックはすでにロシアの支配下に組み込まれて久しい。プガチョーフが何を考えてヤイクに現れたかはわからないが、ヤイク・コサック(ヤイク河=ウラル河の下流域のコサック)もロシアの支配体制に組み込まれつつあり、ますます強まる圧力に対する反発が鬱積していた。そしてそれはヤイク・コサックに限らず、広く少数民族、さらには農民に共通していた。エカテリーナ2世の啓蒙主義的言動はかれらにとっては意味がなく、問題だったのは貴族の権益拡大のために自分たちが犠牲にされている、という現実であった。
 少数民族はモスクワの支配下で長く独自の共同体として自治を認められてきたが、その権利が徐々に奪われ、完全にロシアの支配体制に組み込まれつつあった。まさにエカテリーナ2世の治世にザポロージエ・コサックやドン・コサックが最終的に解体された事実が、そのことを象徴している。
 少数民族に対する締め付けや農奴制の強化はエカテリーナ2世の治世に限ったことではなく、すでに以前から徐々に進行していた現象である。とはいえピョートル3世が農奴を解放するかもしれないという幻想を抱かせた直後に、その皇位を簒奪したエカテリーナ2世によって農奴制が強化されたのだから、反発もひとしおであった。
 エメリヤーン・プガチョーフは、自らをピョートル3世と名乗った。そして皇位の簒奪者エカテリーナ2世から皇位を取り戻すとした。その主張が広くアピールしたという事実は、民衆(農奴)の間におけるエカテリーナ2世の不人気とピョートル3世の人気、そして何より «良きツァーリ» に対する信仰の強さを物語っている。

ある研究によると、ロシアでは歴史上60人に及ぶ «偽ツァーリ»(ツァーリを自称した者)が現れた。偽ドミートリイ1世がその典型であるが、そのうち半数以上が18世紀に現れている。しかもエカテリーナ2世の治世に出現したのが24人、ほとんどがピョートル3世を僭称した。
 君主を僭称するという現象は古今東西で普遍的に見られるもので、それぞれの文脈で理解する必要がある。ロシアについて言えば、ひとつには «良きツァーリ» に対する素朴な信仰がその最大の要因として挙げられよう。地上における神の代理人たるツァーリが君臨するにもかかわらず、現実は厳しくつらい。それが一方でツァーリの良き意図を貴族が阻害していると捉えられ、また一方では玉座の上のツァーリは実は偽者だと考えられた。すると本物がどこかにいるはずである。これが «偽ツァーリ» の出現を頻繁に引き起こした最大の要因である。つまり、エカテリーナ2世時代に24人もの «偽ツァーリ» が出現したという事実は、それだけエカテリーナ2世の治世が民衆の不満を呼んでいたことの証である。

 プガチョーフの乱に対処するため、エカテリーナは対オスマン戦争の継続を断念。1774年にキュチュク・カイナルジ条約を結んだ。
 キュチュク・カイナルジ条約は、ロシアにとって大きな意味を持った。
 第一に、ドニェプル・南ブグの河口部とケルチ海峡がオスマン帝国からロシアに割譲された。これによりロシアは念願の黒海進出を果たす。これに合わせてロシア艦船にボスフォロス・ダルダネルス両海峡の自由航行権が認められた。以後、ロシアは自由に地中海と行き来することができるようになった。
 また、いまさらであるが、ザポロージエ・コサックに対するロシアの宗主権が認められた。これにより右岸(西)ウクライナの宗主権を巡るオスマン帝国とロシアの確執に最終決着がつけられ、イヴァン・マゼーパ以来続いた «亡命コサック政権» に対する支援をオスマン帝国は打ち切った。ウクライナはその大部分がロシア領となったわけである。
 他方、ロシアが占領していたモルドヴァ、ヴァラキア、ブルガリア等はオスマン帝国に返還されることになった。一方でモルドヴァ、ヴァラキアに対するロシアの保護権が認められた。モルドヴァ、ヴァラキアはオスマン帝国の宗主権下にありながらロシアの保護下に置かれることになり、将来的にロシアが両国を属国化、さらには併合するための足がかりができたと言えよう。しかしこの時ロシアに認められたのは正確には、漠然とした文言ながら、オスマン帝国内のキリスト教徒に対する保護権であった。当時オスマン帝国臣民の40%はキリスト教徒だったと言われ、理屈上はモルドヴァ、ヴァラキアだけでなく、ブルガリアやギリシャ、さらにはパレスティナにいるキリスト教徒に対する保護権にも拡大解釈され得る。キリスト教徒保護を口実にオスマン帝国の内政に干渉する正当な権利がロシアに与えられたことになり、ひいてはこれが1853年のクリミア戦争勃発につながってくる。
 しかし当面最重要な点は、クリム・ハーン国の独立の地位が承認されたことだろう。これまでクリム・ハーン国はオスマン帝国の宗主権下にあったのだから、これはクリム・ハーン国がオスマン帝国から独立した(させられた)ことを意味する。それは同時に、1772年にクリム・ハーンがロシアの宗主権を認めていた以上、クリム・ハーン国がロシアの属国であることをオスマン帝国が認めたということになる。これはひとつには、ドニェプル河口部やケルチ海峡の獲得以上にロシアにとっては大きな領土的収穫であった。また、ノガイや北カフカーズ西部の諸民族はそれまでクリム・ハーン国を宗主としていたから、過去200年間遅々として進まなかったロシアの北カフカーズ進出にとって大きな意味を持った。事実、この直後にロシアはオセット人と協定を結び、これを事実上併合している。

オセット人はカフカーズ山脈を挟んで南北に住む山岳民族。言語的にはイラン系で、宗教的にはキリスト教徒という、カフカーズ(特に北カフカーズ)では少数派に属する。このためもあって、すでに女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの時代にはロシアと関係を持っていたが、1774年の «併合» 交渉も比較的スムーズに行った。

 エカテリーナは軍をドナウからヴォルガにまわし、カザニのプガチョーフ軍を破る。プガチョーフは南下するが、ツァリーツィン(スターリングラード、現ヴォルゴグラード)で再度敗北。これにより叛乱軍は壊滅した。故郷ドンに戻ったプガチョーフは仲間に売られ、1775年、モスクワで処刑された。

 プガチョーフの乱は、いくつかの改革をエカテリーナに迫り、その意味で彼女の統治上ひとつの画期と言えるだろう。
 最大の問題点と見られた地方行政に関しては、1775年に地方行政単位を改編。地方制度はピョートル大帝以来懸案となっていた事柄だが、うまく機能する制度を創設できず、特に末端の地方行政は事実上各領主にお任せであった。エカテリーナ2世は地方分権を導入し、地元の貴族を地方行政に参画させて各地の状況と利益に応じた行政を行うこととした。貴族は各県ごとにまとめられて «貴族会議» を開催し、皇帝の任命する知事と協調して «地方自治» を担う体制が成立した。長年にわたって中央政府を悩ませてきた地方行政の問題は、ひとまず解決を見たと言っていいだろう(この体制は1864年にアレクサンドル2世によって修正されるまで続いた)。
 プガチョーフの乱で主要な役割を果たしていたのが、自治権の縮小に不満を募らせていた少数民族であった。エカテリーナはさらに自治権を奪うことで叛乱を芽を摘もうとする。最大のコサック軍団であるドン・コサックは1775年に正規軍に編入。またすでに1764年に直接統治に乗り出していたマロロシアでは、同じく1775年にザポロージエ・コサックのシーチ(本営)を廃止。最終的に1781年に地方行政に組み込み、その «独立» の歴史を閉じた。«諸民族の牢獄» はすでにこの時期に始まっていたのである。
 とはいえ、少数民族の言語は学校でも使用され、独自の法体系(たとえばイスラーム法)もしばしば維持された。信仰の自由は認められたし、末端では自治的組織の活動も続いていた。少数民族だからという理由で差別されることも基本的にはなかった(ロシア人は、下手でもロシア語さえ話せれば顔立ちが違ってもほとんど気にしない、鷹揚と言うか大雑把な人たちだ)。少数民族が少数民族としてのアイデンティティを否定され、ロシア人への同化を強制される真の意味での «諸民族の牢獄» は、アレクサンドル3世の時代に訪れる。

 この頃は、私生活面でもエカテリーナに変化のあった時期である。
 10年来、事実上の夫婦として暮らしてきたグリゴーリイ・オルローフ公との関係を打ち切り、アレクサンドル・ヴァシーリチコフを経てグリゴーリイ・ポテョームキンを新たな愛人とした。
 グリゴーリイ・ポテョームキンがエカテリーナの愛人であった期間はむしろ短かったが、以後グリゴーリイ・ポテョームキンは15年にわたってエカテリーナの片腕として統治上の最高のパートナーとなった。プガチョーフの乱を鎮圧したのもかれだし、1775年にザポロージエ・シーチを廃止するため乗り込んだのもかれだった。1776年には南ロシアに派遣され、かの地一帯を統治に組み込み、開発し、オスマン帝国との戦いに備えるすべてを一手に委ねられた。
 以後、エカテリーナの愛人はグリゴーリイ・ポテョームキンが送り込んだ連中ばかりで、政治的な役割は果たさない。

 一方、皇太子であるパーヴェル・ペトローヴィチ大公が成人に達したのもこの頃。エカテリーナとしては皇位を巡る潜在的な «ライバル» と見ていたにしても、将来的なことを考えればパーヴェル・ペトローヴィチ大公を結婚させないわけにはいかない。1773年、フリードリヒ大王にみつくろってもらったナターリヤ・アレクセーエヴナと、彼女が死ぬと続いて1776年にマリーヤ・フョードロヴナと結婚させる。にもかかわらずエカテリーナがパーヴェル・ペトローヴィチ大公にもその妃たちにも政治的な役割を与えようとしなかったため、息子のみならず嫁との関係も悪化する。
 1777年、初孫アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公が誕生。さらに1779年にはコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公が続くが、エカテリーナはふたりをその両親から取り上げて自ら育てる。女帝エリザヴェータ・ペトローヴナに自らが受けた仕打ちを忘れたのか、あるいはその埋め合わせのつもりだったのか、いずれにせよこれがさらにエカテリーナと息子夫婦との関係を悪化させることになった。

 なお、デンマークとの間で永年懸案となっていたホルシュタイン=ゴットルプ家領について、1773年にようやく合意に達する。パーヴェル・ペトローヴィチ大公がホルシュタイン=ゴットルプ公としてシュレスヴィヒ公領内に有するすべての権利を放棄し、かつホルシュタイン公領内の領土も割譲。代わりに、デンマーク王家が北西ドイツに持つオルデンブルク=デルメンホルスト伯領を獲得した。
 これにより、1720年以来、つまりはピョートル3世の父カール・フリードリヒ以来続いてきたデンマークとホルシュタイン=ゴットルプ公家との係争が解決した。
 エカテリーナはさらにオルデンブルク=デルメンホルスト伯領を、ホルシュタイン=ゴットルプ公家の分家(自身の叔父でもある)フリードリヒ・アウグストに譲渡。
 ただしこれはパーヴェル・ペトローヴィチ大公の問題であって、もはやパーヴェル・ペトローヴィチ大公が成人に達した以上エカテリーナの口出しすべきことでもなかったが、もちろん実際にこの協定を取り決めたのはエカテリーナだった。

 プガチョーフの叛乱以後の10年間は、その後始末に追われ、対外的には積極的に動くことができなかった。地方行政改革はまだその緒についたばかりだったし、自治を奪ったマロロシアでも直接統治が浸透し始めたところであった。
 特に開発が急がれたのが、過去50年間にオスマン帝国から奪った南ロシア・南ウクライナ地域であった。この地域はサンクト・ペテルブルグから遠く、しかもクリム・ハーン国、ノガイ、ドン・コサック、カルムィク人などの諸勢力が入り乱れ、国家体制に組み込むことが困難な地域であった。エカテリーナはここに寵臣グリゴーリイ・ポテョームキン公を送り込む。1776年、アーストラハン県、アゾーフ県、そして新たにオスマン帝国から奪ったばかりの地域につくられたノヴォロシア県(主に南ウクライナ)の3県の総督に任命されたグリゴーリイ・ポテョームキン公は、精力的にこの地を «ロシア化» していく。正規軍に編入されたばかりのドン・コサックを従え、逃亡農民をも受け入れて(法的には逃亡農民は元の領主に返さなければならない)黒海北岸一帯の開拓を推進。黒海艦隊を建設し、ヘルソン、ニコラーエフ、セヴァストーポリ、エカテリノスラーフ(ドニェプロペトローフスク)を建設。

なお、こんにちのウクライナは当時マロロシア、ノヴォロシア、その他に分けられていたと言うことができる。マロロシアとはかつてのザポロージエ・コサックの領域のことで、ルミャーンツェフ=ザドゥナイスキイ伯を総督とする。ノヴォロシアは黒海北岸一帯で、オスマン帝国、クリム・ハーン国、ノガイなどの領土であった地域だ。さらに現在の東ウクライナの一部はロシアの一般的な行政に組み込まれていたし、西ウクライナの一部は依然ポーランド領だった。

 1780年、アメリカ独立戦争に関して、武装中立を宣言。デンマーク王クリスティアン7世(1749-1808)、スウェーデン王グスタフ3世(1746-92)、プロイセン王フリードリヒ2世(1712-86)もこれに同調。
 デンマーク、スウェーデン、プロイセンを巻き込んだこの宣言はある意味でニキータ・パーニン伯の «北方政策» の成果でもあったが、この頃からエカテリーナ2世はハプスブルク家との協調関係強化に傾斜。1781年、パーニン伯を解任したエカテリーナはハプスブルク家と同盟を結ぶ。
 最大の目標がオスマン帝国である点で、エカテリーナ2世もパーニン伯も変わりはない。しかしパーニン伯が北方諸国と協調することでオスマン帝国と利害関係の深い仏墺同盟(ハプスブルク家とフランス)に対抗しようとしたのに対して、エカテリーナは逆に仏墺同盟と協調することでオスマン帝国問題を解決しようとしたのである。これを受けて、プロイセンはイギリスや反露派ポーランド貴族などと結んでロシアに対抗する。
 この頃のエカテリーナ2世を捕らえて離さなかった夢想に、«ギリシャ計画» なるものがある。オスマン帝国を滅ぼし(少なくともシリアの、最低でもアナトリアの彼方に押し込んで)、かつてのビザンティン帝国を復興させようというものだった。エカテリーナがどの程度真剣だったのかは定かではない。しかし1779年に生まれたパーヴェル・ペトローヴィチ大公の次男にコンスタンティーンと名付けたのは、この子をいずれは復活させたビザンティン帝国の皇帝にしよう(首都は当然イスタンブール=コンスタンティノープル)という意図の表れだったとされている。
 «ギリシャ計画» をエカテリーナと共有していたとされるグリゴーリイ・ポテョームキン公はこの頃、着々と南方での地盤固めを進めていった。«ギリシャ計画» を実現するとなれば、南ロシア・南ウクライナを確実に固めておかなければならない。キュチュク=カイナルジ条約でオスマン帝国の支配から離脱せしめたクリム・ハーン国を、1783年にロシアに併合。クリム・ハーンの宗主権下にあったノガイもまた屈服。これにより300年にわたりロシアを苦しめてきたタタールの最後の勢力が抹殺された(以後、クリミア・タタール人もノガイ人も少数民族と位置づけられる)。
 さらに1783年には東グルジアのカルトリ=カヘティ王国を保護国とし、1784年にヴラディカフカースを建設。

当時のザカフカージエには、黒海沿岸にイメレティ王国、内陸部にカルトリ=カヘティ王国、さらにその東にはサファヴィー朝の宗主権下にあるエリヴァン、ナヒチェヴァン、カラバフ等の無数のハーン国があった。
 中でもカルトリ=カヘティ王国は、早くからロシアに目を向けていた。すでにピョートル大帝の時代にはロシアに接触。エリザヴェータ・ペトローヴナの宮廷にも支援の要請に訪れたことがある。南西のオスマン帝国、南東のペルシャ帝国、そして北のロシア帝国の狭間にあって、同じ正教徒であるロシア帝国に期待するところがあったのだろう。しかし当時のロシアにとっては、ザカフカージエは所詮二義的な意味しか持たなかった。それにもめげずエレクレ2世(1720-98、カヘティ王1744-98、カルトリ王1762-98)は執拗にロシアの支援を要請。露土戦争(1768-74)にも参加して、ようやく1783年にロシアの保護国となった。
 ロシアはまだ北カフカーズを抑えていなかったが(西側はオスマン帝国の、東側はサファヴィー朝の宗主権下にあった)、すでに併合した中央部のオセティアにはヴラディカフカースを建設し、カルトリ=カヘティ王国と連結した。

 地方行政の整備は着々と進み、1785年、エカテリーナ2世は改めて貴族のあり方を規定。国家への勤務は義務ではないとしながらも、勤務を奨励。それどころか勤務をしない貴族を地位や各県ごとの «貴族会議» から締めだした。他方で «貴族会議» に広範な権利と義務を与えて国家ヒエラルキーの重要な核とした。また貴族の所領に対する国家の規制がほぼ撤廃され、これを完全に貴族の私有財産として認めた。また称号や所領の没収も原則廃止(反逆者ですら称号と所領を子に相続させることができる)。しかしその一方で貴族の要望した階級の閉鎖性は認めず、平民でも貴族になれる制度はあくまでも残した(可能性でしかないが)。
 同時に都市のあり方も規定し、いわゆる «第3身分» の創出を目指したが、それにしてはその意図に逆行するような内容だった。すなわち都市民に都市間の移動の自由を認めなかったのだ。これでは都市民は、農地に縛り付けられた農奴と同じである。さらにブルジョワジー(商人)の地位は相変わらず低く、しかも都市自治の担い手はごく一部の限られた富裕商人やギルドに加入している手工業者に限定された。都市住人の大多数を占める零細商人、ギルドに加入していない手工業者、その他の人々は無視された。こうしてごく一部の富裕商人は事実上貴族化していくが、平民が貴族になるにはピョートル大帝の定めた官等表に基づいて官位を得るしかない。デミードフ家をほぼ唯一の例外として、商人で貴族となった者はない。1769年に紙幣を発行し、1775年には商工業を農奴以外のすべての階級に解放するなど経済の発展にも力を注いできたエカテリーナだったが、その担い手たるブルジョワジーの育成には必ずしも熱心ではなかったと言わざるを得ない。
 「ロシアの都市は大きな村でしかない」と言った西欧人がいたが、形から見ればロシアの都市は農村から切り離されておらず、確かに «大きな村» であった。都市民の中心たるべきブルジョワ、手工業者はろくな権利を与えられておらず、都市自治も未発達だった。都市の実権を握るのは、一部の富裕商人と、やはり貴族(とその所有物たる農奴)だった。そして貴族はそのほとんどが農村経営によって生計を立てる領主貴族であり、こうしてロシアにおいて都市と農村は密接に結びついていた。所詮ロシアは農業国であり、農村国家であった(ただし穀物輸出が本格化するのはこの頃で、世界最大の穀物輸出国となるのは19世紀に入ってから)。工業化されるのはソ連時代の五ヶ年計画によって、都市化が進展するのはさらに遅れて20世紀後半に入ってからのことである。

 1787年、エカテリーナがクリミアを視察旅行。これにはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741-90)も同行。南方が完全にロシアの領土となったことをアピールするものともなった。
 これに刺激を受けたオスマン帝国が、イギリスの後押しを得て1787年にロシアに宣戦布告。さらに翌1788年、オスマン帝国と同盟を結んだスウェーデンがロシアに侵攻。
 スウェーデンがロシアと開戦したのは絶対君主グスタフ3世の独断によるもので、反グスタフ派のみならず一般でも不評で、フィンランドの将校は独自にロシアとの講和を交渉する始末だった(ただしフィンランド併合を狙うエカテリーナは相手にしなかった)。その結果ほぼ海上に限定された戦闘では、ロシア海軍がスウェーデン海軍を破り、スヴェーアボリを封鎖する。
 他方、ハプスブルク家がオスマン帝国に宣戦を布告し、ロシア軍はオチャコフを占領。
 戦況は北でも南でもロシアに有利に推移していた。ところがこの時、フランスで大革命が勃発。状況は徐々に変化していく。

 フランス革命は、エカテリーナの内外政策に大きな影響を与えた。
 継続中の戦争は、いずれも終結が急がれた。
 スウェーデンとの講和は1790年。ロシアに有利な状況ではあったが、エカテリーナはフィンランド併合を諦めて領土変更はなし。他方オスマン帝国との戦争でも、1791年にハプスブルク家がオスマン帝国と単独講和し(フランス革命に対処するため)、エカテリーナも年末(グレゴリウス暦では1792年1月)に講和。オデッサとその周辺部を獲得しただけで満足した。
 啓蒙主義者を気取っていたエカテリーナも、革命の進展につれて保守化し、ラディーシチェフやノヴィコーフをシベリアに配流したり投獄。第一次対仏大同盟にこそ参加しなかったものの、1793年には革命政府がルイ16世を処刑したのを契機にフランスと断交。
 しかも時あたかも、プラトーン・ズーボフが新たな愛人となり、1791年にはグリゴーリイ・ポテョームキン公が死去。プラトーン・ズーボフが宮廷最大の権力者となった。

 フランス革命は、ポーランド情勢にも大きな影響を与えた。
 1791年、改革派が5月3日憲法を制定。これに反対する保守派は、1792年にエカテリーナに介入を要請。ポーランドに侵攻したアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍はワルシャワを占領する。
 これに口をはさんできたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と、第二次ポーランド分割交渉を開始。1793年、第二次ポーランド分割でロシアは中部ベラルーシとウクライナの残りを、プロイセンはヴィェルコポルスカ(南プロイセン)を獲得。
 1794年にはタデウシュ・コシチューシコ率いる叛乱が勃発する。一旦ワルシャワに迫ったプロイセン軍は撃退されて撤退するが、スヴォーロフ率いるロシア軍が叛乱軍を撃破。第三次ポーランド分割交渉の結果、1795年、ロシアはリトアニアとクールラントを併合。プロイセンがマゾフシェを、ハプスブルク家が北マウォポルスカを獲得し、ポーランドは地上から姿を消した。エカテリーナはスタニスワフ・アウグストをグロドノに拘禁した。

 なお、エカテリーナ2世の治世にはアラスカへの進出も本格化した。南西端に位置するこんにちのシトカ近郊に城塞が建てられたのも1795年のことである。こうしてロシア帝国の領土は、西はリトアニアから東はアラスカまで、地球を半周するに至った。

 パーヴェル・ペトローヴィチ大公を嫌ったエカテリーナは、孫アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公への皇位継承を考えていたと言われる。1793年、そのアレクサンドル・パーヴロヴィチ大公をバーデン辺境伯女ルイーゼと結婚させる。さらに1796年にはコンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公をザクセン=コーブルク&ゴータ公女ユリアーネと結婚させる。同時にアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女をスウェーデン王グスタフ4世・アドルフ(1778-1837)と結婚させようと交渉するが、まとまらず。この時の心労が、エカテリーナ2世の死を早めたとも言われる。

 1795年、ザンド朝を倒してペルシャを平定したカージャール朝のアーガー・ムハンマド・シャーが、その勢いを駆ってザカフカージエに侵攻。こんにちのアルメニア、アゼルバイジャンの地に割拠していた諸ハーン国を占領し(この時諸ハーンの中にはロシアに庇護を求めた者もあった)、さらにロシアの保護国となっていたカルトリ=カヘティ王国をも併合する。これに対して1796年、エカテリーナはプラトーン・ズーボフ公を派遣。ロシア軍はダゲスターンを越えてザカフカージエに侵攻するが、この最中、エカテリーナは死去した。

 生涯にわたり多くの愛人がいたにもかかわらず、かれらをうまく操縦し、政治の最高権力を手放すことはなかった。アレクサンドル・デュマが「ベッドの上でも君主だった女性はエリザベス1世とエカテリーナ2世だけだった」みたいなことを言っているが、言い得て妙である。
 なお、一般に知られている12人以外にも愛人がいたと言われることもあるが、エカテリーナ2世とそれぞれの愛人との生活は慎ましやかで、関係が続いている間はほかの男をつまみ食いしたりすることはなかったようだ。
 エカテリーナは君主としてはこれ以上ないほど «ロシア人化» したが、根っこの部分においてはやはり最後までドイツ女であった。骨の髄までロシア人だったエリザヴェータ・ペトローヴナとは対極的に、几帳面で規則正しく、働き者で、質素かつ簡素な生活を好んだ。4人いる女帝の中で、エカテリーナ1世アンナ・イヴァーノヴナエリザヴェータ・ペトローヴナの3人が、直接的な死因が何であれ、いずれも不節制が祟って死んでいるのに対して、エカテリーナ2世のみは不節制とは無縁だった。
 とはいえエリザヴェータ・ペトローヴナほどではないにせよやはり観劇やページェントを好み、バロック風の宮廷文化はエカテリーナの下でも栄えた(もっともエカテリーナはエリザヴェータ風のバロック様式を嫌ってラストレッリを解任。新古典主義建築に傾倒した)。

 なお、エカテリーナの父親はクリスティアン・アウグストではなかった、とする者もいる。では誰が挙げられているかを見れば、その意図は明白だ。つまり、フリードリヒ大王か、あるいはアレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンかイヴァン・ベツコーイか、である。要するに、エカテリーナのような偉大な君主の父親は偉大な帝王であったはずだ、あるいは、エカテリーナのような偉大な «ロシア人» にはロシア人の血が流れていて欲しい、ということでしかない。母親が盛んに遊びまわっていたのは事実だが、やはり妄想と言うべきだろう。

▲ページのトップにもどる▲

最終更新日 07 03 2013

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

inserted by FC2 system