エカテリーナ・アントーノヴナ
Екатерина Антоновна
ブラウンシュヴァイクのプリンセス Prinzessin von Braunschweig
生:1741.07.26/08.06−サンクト・ペテルブルグ
没:1807.04.09/04.21(享年65)−ホルセンス(デンマーク)
父:アントン・ウルリヒ 1714-74 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェールディナント・アルプレヒト2世)
母:アンナ・レオポリドヴナ 1718-46 (メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レーオポルト)
結婚:なし
子:なし
アントン・ウルリヒとアンナ・レオポリドヴナの第二子(長女)。皇帝イヴァン6世・アントーノヴィチの妹。正教徒。
母アンナ・レオポリドヴナは女帝アンナ・イヴァーノヴナの姪。
父方の大伯母エリーザベト・クリスティーネ(1691-1750)は神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)の妃。別の大伯母シャルロッテ・クリスティーネはツァレーヴィチ・アレクセイ・ペトローヴィチの妃。
また父方の叔母エリーザベト・クリスティーネ(1715-97)はプロイセン王フリードリヒ2世大王(1712-86)の妃。別の叔母ユリアーナ・マリーア(1729-96)はデンマーク王フレデリク5世(1723-66)の妃。
エカテリーナ・アントーノヴナ誕生の直後、エリザヴェータ・ペトローヴナにより兄イヴァン6世が廃位される。以後、家族とともに国内流刑され、この措置は1780年まで解けなかった。その間、リガ、ディナミュンデ、ラーネンブルグ、ホルモゴールィと転々とたらい回しにされる(なお、兄イヴァン6世とは引き離された)。
エカテリーナ・アントーノヴナら姉弟は環境に恵まれない中、父から教育を授けられたという。とはいえ、ロシア語しか話せなかった。なお、父はルター派だったが、エカテリーナ・アントーノヴナら姉弟は正教徒として育てられた。
1780年、デンマーク王太后ユリアーナ・マリーアと女帝エカテリーナ2世の合意により、3人の弟妹とともにデンマークへの出国が認められた。
デンマークではデンマーク王女の称号も与えられ、それに相応しく扱われた。ホルセンス(ユラン半島)に家を与えられ、小さな正教会も建てられた。エカテリーナ2世からはひとり当たり8,000ルーブリの年金が与えられた。
しかしロシア語しか話せず、ルター派の国の中で正教信仰を護り続け、係累も家族以外にない生活は厳しかったのだろう。特に弟妹たちが相次いで先立っていくと、ひとり残されたエカテリーナ・アントーノヴナにはロシアへの郷愁が募ったものと思われる。ホルモゴールィ(アルハンゲリスク近郊)の生活は、自然環境も厳しかったし、流刑という待遇も、劣悪というほどのものではなかったとしても決して恵まれたものとは言えなかったはずだが、あるいは老いゆくエカテリーナ・アントーノヴナには懐かしく思い出されたのかもしれない。
1803年、62歳のエカテリーナ・アントーノヴナは皇帝アレクサンドル1世に、ロシアへの帰国許可を嘆願する。しかし返事ももらえなかった。
ホルセンスに埋葬されている。