ダニイール・ロマーノヴィチ・ザハーリイン
Даниил Романович Юрьев-Захарьин
ボヤーリン боярин (1549-)
生:?
没:1565(享年?)
父:ロマーン・ユーリエヴィチ・ザハーリイン -1543?
母:ウリヤーナ или アナスタシーヤ・フョードロヴナ -1579
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | ||
---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||
1 | アンナ | -1547 | フョードル・ノゴトコーフ=オボレーンスキイ公 |
ロマーン・ユーリエヴィチの長男 или 次男。アナスタシーヤ・ロマーノヴナとニキータ・ロマーノヴィチの兄。
兄弟にはドルマート・ロマーノヴィチもおり、ダニイール・ロマーノヴィチとどちらが年長かよくわからないが、ドルマート・ロマーノヴィチは1543年(父と同年)に死んだとされ、父の死後一家の中心となったのがダニイール・ロマーノヴィチであったことに違いはない。
その父は、祖父ユーリイ・ザハーリエヴィチや伯父ミハイール・ユーリエヴィチと異なり、ボヤーリンになっていない。当時はザハーリイン一族として宮廷に、ロマーノヴィチ兄弟のほかにも、ヴァシーリイ・ヤーコヴレヴィチの子ら、ピョートル・ヤーコヴレヴィチの子ら、そしてミハイール・ユーリエヴィチの子らがおり、ボヤーリンではなかったロマーン・ユーリエヴィチの子であるダニイール・ロマーノヴィチや弟ニキータ・ロマーノヴィチが出世する見込みは薄い状況であったと言っていいかもしれない。
15世紀にはボヤーリンは階級ではなく宮中の位階となっており、ボヤーリンの子が必ずしもボヤーリンになれるとは限らなくなっていた。しかもザハーリイン家のように世代を経るごとに一族の数が増えていけば、ボヤーリンになれないボヤーリンの子も幾何級数的に増加する。かれらボヤーリンになれないボヤーリンの末裔は «ボヤーリンの子ら дети боярские» と呼ばれ、この頃には事実上大貴族(かつてボヤーリンと呼ばれていた階級)とドヴォリャニーン(新興宮廷貴族)の中間に位置する一階級となっていた。のち、16世紀末までには «ボヤーリンの子ら» はドヴォリャニーンに吸収される。
なお、「ボヤーリンになれない」と書いたが、ボヤーリンが宮中の位階である以上、«ボヤーリンの子ら» もボヤーリンになれないわけではない。個人の資質やモスクワ大公の意向次第である。それは下の階級であるドヴォリャニーンとて同様である。これに対して大貴族とは、いずれは必ずボヤーリンになる家系である。のちの例になるが、アレクセイ・ミハイロヴィチの治世(1645-76)には、ヴォロトィンスキイ公、ウルーソフ公、オドーエフスキイ公、ゴリーツィン公、サルトィコーフ、シェイン、シェレメーテフ、チェルカースキイ公、トルベツコーイ公、ヒルコーフ公、ブイノーソフ=ロストーフスキイ公、プローゾロフスキイ公、プロンスキイ公、ホヴァンスキイ公、モローゾフ、レプニーン公の16家の、少なくとも嫡男は、宮廷に出仕すると同時にボヤーリンに任命されていた。さらに、イズマイロフ、ヴォルコーンスキイ公、クラーキン公、スーキン、ストレーシュネフ、バリャーティンスキイ公、プーシュキン、ブトゥルリーン、プレシチェーエフ、ミロスラーフスキイ、リヴォーフ公、ロバーノフ=ロストーフスキイ公の12家の、少なくとも嫡男は、宮廷に出仕すると同時にオコーリニチーに任命され、のちにボヤーリンに任命されていた。オコーリニチーにすらなれるかどうか、という «ボヤーリンの子ら» やドヴォリャニーンとは、この点で決定的に異なっていた。
ダニイール・ロマーノヴィチの場合、父はボヤーリンにこそなっていないもののそのすぐ下に位置するオコーリニチーになっており、ゆえに必ずしも «ボヤーリンの子ら» の階級に下落していた、とは言えないだろう。ただしそうなる可能性はあった。
1547年、イヴァン雷帝が妹アナスタシーヤ・ロマーノヴナを妃に選び、ロマーノヴィチ兄弟の運は大きく開けた。これにともないダニイール・ロマーノヴィチもオコーリニチーに登用され、さらに1549年にはボヤーリンとなった。
もっとも、だからと言って特別目立った活躍をするようになったわけではない。国家の運営に携わったイヴァン雷帝の側近グループ «イーズブランナヤ・ラーダ» にも加わっておらず、カザン・ハーン国への遠征でも司令官ではなく副官として、しかも山岳地方のチェレミース人(マリ人)の平定に従事させられている。
その後も、クリム・ハーン国やチェレミース人との戦闘に従事。リヴォニア戦争の開始とともに西部戦線に送られるが、こちらでもより上位の指揮官の下につけられていた。家格にこだわって門地制度上の論争を挑んだ祖父とは大違いである。
もっとも、かれの生年は不明だが、アナスタシーヤ・ロマーノヴナが1530年頃の生まれと考えられるので、1520年代と見てよかろう。とすると、年齢的にはむしろこれからというところだったのかもしれない。