ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

アンナ・イヴァーノヴナ

Анна Иоанновна

ツァレーヴナ царевна
クールラント公妃 Herzogin von Kurland (1710-30)
ロシア女帝 императрица Всероссийская (1730-)

生:1693.01.28/02.07−モスクワ
没:1740.10.17/10.28(享年47)−サンクト・ペテルブルグ

父:ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチ 1666-96
母:ツァリーツァ・プラスコーヴィヤ・フョードロヴナ 1664-1723 (フョードル・ペトローヴィチ・サルトィコーフ)

結婚:1710−サンクト・ペテルブルグ
  & フリードリヒ・ヴィルヘルム 1692-1711 クールラント公(1698-1711)

愛人:ピョートル・ミハイロヴィチ・ベストゥージェフ=リューミン 1664-1743
愛人:エルンスト・ビロン 1690-1772

子:なし

ツァーリ・イヴァン5世・アレクセーエヴィチの第四子(四女)。
 皇帝ピョートル1世・アレクセーエヴィチの姪。

 1696年、父を亡くす。1708年まで、主にモスクワ郊外のイズマイロヴォに母や姉妹と暮らすが、母に愛されなかったツァレーヴナ・アンナ・イヴァーノヴナはわずかな教育しか受けなかったとも言われる。現実には姉エカテリーナ・イヴァーノヴナ同様、それまでのロシアでは考えられないような高い教育を受けているはず。とはいえ、実際フランス語もドイツ語も満足に喋れるようにはならず、間違いだらけのロシア語しか書けなかった。
 1708年、サンクト・ペテルブルグにお引越し。

 1710年、叔父ピョートル大帝の命により、クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚。
 当時スウェーデンと北方戦争を戦っていたピョートル大帝は、バルト海沿岸を領土とし、プロイセン王の甥でもあるフリードリヒ・ヴィルヘルムに姪を嫁がせるのは戦略上の利点が大きいと考えたのだろう。
 ピョートル大帝は、3人の姪のうち誰をフリードリヒ・ヴィルヘルムに与えるか、その母プラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァに相談した。外国人を嫌うプラスコーヴィヤ・サルトィコーヴァは娘を外国人に与えるという考えそのものに怖気をふるったが、どうしてもと言うなら、と、一番「気に入らない」娘アンナ・イヴァーノヴナを差し出した、という。
 ちなみにアンナ・イヴァーノヴナは正教徒のまま(ルター派には改宗していない)。

 結婚式を終えてクールラントに向けて出発した直後の1711年、フリードリヒ・ヴィルヘルムが死去。
 フリードリヒ・ヴィルヘルムには子はもちろん、兄弟もなかったが、叔父フェールディナントがいた。当然フェールディナントがクールラント公位を継ぎ、クールラントを支配するはずだったが、フェールディナントはポーランド軍に仕え、当時はダンツィヒ(プロイセン)に居住していた。
 ピョートル大帝としては、クールラントをロシアの勢力圏下に確保しておきたい。そこで、クールラント議会に圧力をかけ、フェールディナントの公位継承を否認させた。そして空位状態に陥ったクールラントに、«前の公の未亡人» としてアンナ・イヴァーノヴナを送り込んだのである。
 一旦引き返しかけたアンナ・イヴァーノヴナは、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンとともにクールラントに送り出され、ミタウ(現エルガヴァ、ラトヴィア)に居住。事実上これを支配した。と言っても、実権を行使したのはベストゥージェフ=リューミンベストゥージェフ=リューミンはアンナ・イヴァーノヴナの愛人だったとも言われるが、はっきりしない。
 これに対してクールラント貴族は、ロシアの影響力が強化されるのを怖れてアンナ・イヴァーノヴナを追い出そうとする。アンナ・イヴァーノヴナは、政治的にも経済的にもピョートル大帝に頼っていた。

 1723年、再婚話が持ち上がる。

 1726年、ピョートル大帝の死をロシアの桎梏から逃れる機会到来と捉えたのか、クールラント議会はモーリッツ・フォン・ザクセンをクールラント公として招致。モーリッツは、クールラントの主君であるポーランド王アウグスト2世/ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(1670-1733)の庶子で、当時フランス軍に勤めていた。交渉の結果、モーリッツとアンナ・イヴァーノヴナが結婚することが決められた。
 しかし当時の国際関係は基本的に、ロシア=ポーランドとスウェーデン=フランスがそれぞれ同盟して対立するという図式であり、フランスと関係のあるモーリッツが公となることはロシアにとって好ましいことではなかった。まして現状、アンナ・イヴァーノヴナ(ベストゥージェフ=リューミン)を通じてロシアがクールラントを支配していたのだから、モーリッツをアンナの夫としてクールラント公にするという案にはメリットがなかった。結局、女帝エカテリーナ1世の政府はこの案を拒否。モーリッツは抵抗したが、ロシアは武力でかれを追い出し、クールラントにおける影響力をさらに強めた。

モーリッツ・フォン・ザクセン(1696-1750)は、フランス語でモーリス・ド・サクスと呼ばれる。この後モーリッツはオーストリア継承戦争でフランス元帥となり、さらにフランスで歴史上4人しか与えられていない元帥より上の位 maréchal général des camps et armées du roi を与えられている。

 ちょうどこの頃からアンナ・イヴァーノヴナはエルンスト・ビロンを愛人としたらしい。1728年に生まれたビロンの次男はアンナ・イヴァーノヴナの子だという説もある。
 クールラントにおける実権も、ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンからエルンスト・ビロンに移った。

 1730年、皇帝ピョートル2世が死去。ピョートル2世自身は後継者を指名せず、またピョートル2世がロマーノフ家最後の男子であったため、後継者選びは難航した。なお、当時の国政の最高機関は最高枢密院であり、そのメンバーが誰を後継者とすべきか秘密裏に協議した。
 候補としてはひとりの男性と6人の女性がいた。
 ロマーノフの血を引く唯一の男子は、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの嫡男カール・ペーター・ウルリヒである。しかしかれはまだ当時2歳で、父親も健在であり(このため父親がロシアの国政に容喙してくる可能性が高い)、そもそもその母はピョートル大帝の娘のツェサレーヴナ・アンナ・ペトローヴナであって、最高枢密院の多数を占める改革反対派としてみれば忌避すべき存在であった(アンナ・ペトローヴナ自身はすでに死んでいたが)。このため、この時点ではカール・ペーター・ウルリヒの即位は真剣に検討されなかった。
 ピョートル2世の婚約者エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女は父親だけがその即位を望んでいて、ドルゴルーキー一族ですら候補者として真剣に考えてはいなかった。
 ピョートル大帝の最初の妃エヴドキーヤ・ロプヒナーは、それなりの同情と尊敬を集めてはいたが、これも真剣な考慮の対象とはならなかった(一説では逆に最高枢密院が即位を要請したが、エヴドキーヤ・ロプヒナー自身が断ったという)。
 ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトローヴナピョートル大帝の改革に «叛旗を翻した» 最高枢密院の多数派にとっては、むしろ絶対に皇位に就けてはならない人物だった。しかも彼女には、両親が結婚する前に生まれたという決定的な «傷» があった。
 アンナの姉エカテリーナ・イヴァーノヴナはメクレンブルク公の妃であり、まだ夫が健在で、しかもその夫の評判は悪かった。さらにかれは当時公位を追われて無職。もしエカテリーナ・イヴァーノヴナを女帝とすれば、ロシアは夫のメクレンブルク公という厄介なお荷物をも抱え込むことになる。
 アンナの妹プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナはもともと病弱であったと言われ、事実この翌1731年に死んでいる。また彼女には夫イヴァン・ドミートリエフ=マモーノフがおり、これまた最高枢密院としてはあまり歓迎できる存在ではなかった。
 これらに対してアンナ・イヴァーノヴナにはもはや夫がおらずフリー。しかもクールラントの事実上の支配者であった過去20年間、常にロシアに依存し、その意向に忠実であった。

 最高枢密院で主導権を握ったドミートリイ・ミハイロヴィチ・ゴリーツィン公は、弟ミハイール公、さらには敵対していたヴァシーリイ・ルキーチ・ドルゴルーキイ公らの同調も得て、アンナ・イヴァーノヴナを女帝として招くことを決めた。
 しかしドミートリイ・ゴリーツィン公はそれだけで満足せず、君主権を制限しようとする。それは一言で言えば、アンナ・イヴァーノヴナには女帝として自身のイニシャティヴを一切許さず、すべてに関して最高枢密院に諮らせ、その決定に従わせる、というものだった。120年前にも大貴族は、ヴァシーリイ・シュイスキイを帝位に就けるに際して、同様の条件に合意させていた。
 この時のゴリーツィン公以下の企図が実現していたら、ロシアは「君臨すれども統治せず」の象徴皇帝制の国となり、最高枢密院に依る大貴族による寡頭制が実現していたかもしれない。

 アンナ・イヴァーノヴナはかれらの提示した «条件»(ロシア語では単純に Кондиции と呼ばれる)に同意し、ミタウから帰国してモスクワで即位する。おそらくアンナ・イヴァーノヴナとしては、ロシアに帰れる、しかも女帝になれる、ということでどんな «条件» であろうと同意したことだろう。
 ちなみに、クールラントではフリードリヒ・ヴィルヘルムの叔父フェールディナントが公に即位した。

 しかしゴリーツィン公以下、最高枢密院で多数を占める改革反対派の大貴族(«ヴェルホーヴニキ верховники» と呼ばれた)は、むしろ勢力的には少数派だった。特に、自身最高枢密院のメンバーである宰相ガヴリイール・ゴローフキン伯、副宰相アンドレイ・オステルマン男爵を筆頭に、ノーヴゴロド大主教フェオファン・プロコポーヴィチ、パーヴェル・ヤグジンスキイ伯、アンティオフ・カンテミール公、ヴァシーリイ・タティーシチェフなど、ピョートル大帝以来の改革派や大貴族の専横を怖れる新興貴族がヴェルホーヴニキに反対していた。新興貴族にとっては、皇帝の強大な専制権力は世襲領主貴族の専横を抑制するための保障であった。
 こういった情勢を背景に、アンナ・イヴァーノヴナは最高枢密院(実際はヴェルホーヴニキ)との合意を破棄。ドミートリイ・ゴリーツィン公やドルゴルーキイ一族を流刑に処し、最高枢密院を解散させた。
 なお、貴族階層が大貴族階級と下級貴族階級とに分裂・対立したのは、おそらくこれが最後となる。

アンティオフ・ドミートリエヴィチ・カンテミール公(1708-44)はルーマニア人。モルドヴァ公(現ルーマニアの東部の支配者)の子。露土戦争(1710-13)でロシアに亡命。政治的にはこの時ヴェルホーヴニキに反対したこと位しか知られていないが、ロシア文学最初期の詩人、文学者として著名。姉がピョートル大帝最後の愛人マリア・カンテミール公女
 ヴァシーリイ・ニキーティチ・タティーシチェフ(1686-1750)はリューリコヴィチ。政治家としては地方官僚として活躍したが、何より «ロシア最初の歴史家» として名高い。

 アンナ・イヴァーノヴナは、おそらく叔父ピョートル大帝と似たパーソナリティ、嗜好の持ち主だったのだろう。冗談好きで(ただし冗談の種にされる方としては笑えないたぐいの性質の悪い悪戯、嫌がらせ)、酒飲みで、享楽的だった。1740年には、50過ぎのミハイール・ゴリーツィン公をカルムィク人女性と結婚させ、しかも初夜を氷でつくった宮殿で過ごさせたりしている。
 愛人が大勢いた(と思われている)点もアンナ・イヴァーノヴナはピョートル大帝に似ている。しかもその趣味があまり良くなかった点でも。ピョートル・ベストゥージェフ=リューミンエルンスト・ビロンを愛人としていたと言われるクールラント公妃時代には、オギニスカと呼ばれる若い女性との関係も噂された。もっとも、女性権力者は «淫乱» という中傷を受けるのが常で、アンナ・イヴァーノヴナの場合も必ずしもこの手の噂が真実であるとは限らない。
 アンナ・イヴァーノヴナがピョートル大帝と違ったのは、彼女が女性であったことで、このためピョートル大帝であれば許された悪徳もアンナ・イヴァーノヴナの場合は歴史家から激しく非難されている。こんにち、ロシア史ではアンナ時代は «暗黒の時代» と見なされている。
 もうひとつ、アンナ・イヴァーノヴナとピョートル大帝との違いは、アンナ・イヴァーノヴナが政務にほとんど関心を払わなかったことであろう。

 その代わり、と言うわけではないが、ピョートル大帝が輸入し始めた西欧芸術が大規模にロシアに導入されるようになったのが、まさにアンナ・イヴァーノヴナの時代であったと言えるだろう。
 宮廷劇団としてイタリアから専門家が招かれ、1735年にはコメディア・デラルテの一団もやってきている。最初の官立バレエ・オペラ学校が開学したのも1738年と言われている。

 教養も国務への関心もなく、最高枢密院解散後は国政の最高機関となった元老院を蔑ろにしたアンナ・イヴァーノヴナは、代わりに1731年に大臣官房 Кабинет министров を設け、政務をそのメンバー(宰相ガヴリイール・ゴローフキン伯、副宰相アンドレイ・オステルマン伯、アレクセイ・チェルカースキイ公、アルテーミイ・ヴォルィンスキイ公など)に委ねる。

アレクセイ・ミハイロヴィチ・チェルカースキイ公(1680-1742)は古くからの大貴族。シベリア知事(1719-24)などを歴任。アンナ・イヴァーノヴナ時代はオステルマンの下で内政を担当。
 アルテーミイ・ペトローヴィチ・ヴォルィンスキイ公(1689-1740)はゲディミノヴィチ。アーストラハン県知事(1719-24)、カザン県知事(1725-30)などを歴任。当初はミーニフの下で軍で活躍したが、1738年に大臣官房へ。大逆罪で処刑された。

 とはいえ、必ずしもアンナ・イヴァーノヴナに政治的能力・センスが皆無だったとは言えないだろう。
 ヴェルホーヴニキを追放したアンナ・イヴァーノヴナは、自らを «ピョートル大帝の継承者» と位置づけている。結果論として、19世紀のロシア皇帝で自身をそのように位置づけなかったのはピョートル2世ぐらいなものだ。アンナ・イヴァーノヴナの場合、おそらく彼女を担いだ改革派の側近たちの意見を取り入れたものと思われるが、本来守旧派に擁立され、しかもピョートル大帝の血を引かない(それどころかのちの行動に見られるようにミロスラーフスキー家とナルィシュキン家の対立という図式を引きずっているように思われる)アンナ・イヴァーノヴナが、自らをこのように位置づけた意味は大きい。側近たちの意見を取り入れたのだとしても、そもそもこのような意見を取り入れる見識・度量があった点は評価されてしかるべきだろう。
 ピョートル改革を継続し、これに反対するヴェルホーヴニキ勢力と決別するジェスチャーの意味も込めて、1731年にアンナ・イヴァーノヴナは宮廷をサンクト・ペテルブルグに移した。モスクワは古いロシアの象徴であり、大貴族たちの巣窟だった。こうしてサンクト・ペテルブルグが最終的に帝国の首都となる。この場合も、アンナ・イヴァーノヴナ自身はモスクワで生まれ育ったので愛着もあったろうと思われるのだが、そのような情緒的な判断よりも理性的な(打算的なと言ってもいい)判断を優先できた点はやはり評価できる。
 しかしアンナ・イヴァーノヴナに政治的能力・センスがあったとしても、それを発揮しようとしなかったのだから意味がない。

 クールラントからくっついてきたエルンスト・ビロンは相変わらず寵臣の地位にあったが、特別官職に就いたわけでもなく、国政にはさほど介入しなかった。
 女帝もその寵臣も政務を取ろうとしない中、代わって実権を掌握したのは、外交ではアンドレイ・オステルマン伯、軍ではブルハルト・ミーニフ伯、宮廷ではレーヴェンヴォリデ兄弟であった。
 ビロン、オステルマン、ミーニフ、レーヴェンヴォリデ兄弟はいずれもドイツ系であった。このため後世、アンナの治世は «ドイツ人が支配した時代» と映っており、特に «ビローノフシチナ Бироновщина» と呼ばれている(ビロン時代、あるいはビロン体制、といった程度の意味)。
 プレオブラジェンスキイ連隊、セミョーノフスキイ連隊に続いて1731年に新たに創設されたイズマイロフスキイ連隊は、その士官のほとんどをクールラントを中心とするリヴォニア出身のドイツ系が占めた(連隊長はカルル・レーヴェンヴォリデ)。このことからすると、ロシアにほとんど知己のないアンナ・イヴァーノヴナが、気心の知れたドイツ系リヴォニア人を重用したという側面はあったのかもしれない。あえて言えば、ヴェルホーヴニキに代表されるロシア貴族に対してアンナ・イヴァーノヴナが猜疑心を抱いていた、ということもあっただろう。
 しかし、アンナ・イヴァーノヴナの治世を «ドイツ人» が支配した時代とするのは必ずしも現実を反映した認識ではない。ポーランド継承戦争やアゾーフ占領で活躍したピョートル・ラシはアイルランド人だし、アンティオフ・カンテミール公はモルドヴァ人(ルーマニア人)だし、さらにはガヴリイール・ゴローフキン伯を筆頭にロシア人もいた(この時代の官職表を調査して、ドイツ人の割合が他の外国人と比べて決して高くはないことを立証した研究もあるらしい)。
 とはいえ、ドイツ人がやたら目立ったこと、特にほかの時代に比べてそれが顕著であったことは確かである。

カール・グスタフ(?-1735)とラインホルト・グスタフ(1693-1758)のレーヴェンヴォリデ(ドイツ語ではレーヴェンヴォルデ)兄弟はリヴォニア系ドイツ人。すでにピョートル大帝に仕えていたが、これといった目立った存在ではなかった。ヴェルホーヴニキの意図をまだクールラントにいたアンナ・イヴァーノヴナに伝えたのが出世のきっかけ。特にカール・グスタフは外交などでも重用されたが、ろくな結果を残していない。
 フリストーフォル・アントーノヴィチ・ミーニフ/ブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ(1683-1767)はドイツ人。1721年にロシア軍へ。すぐにピョートル大帝の信頼を勝ち得、急速に台頭。インゲルマンランディヤ・カレリア・フィンランディア総督(1728-34)。元帥(1732)。以後、軍を掌握する。伯。
 ピョートル・ペトローヴィチ・ラシ/ピーター・ド・ラシ(1678-1751)はアイルランド人(もともとはアングロ=ノルマン貴族)。1700年にロシア軍へ。リガ県知事、リーフリャンディヤ総督を歴任し、対オスマン戦争や対スウェーデン戦争で軍を率いる。元帥(1736)。伯。軍人としてはミーニフ以上に評価されている。なお、息子フランツ・モーリッツ(1725-1801)はハプスブルク家に仕え、こちらも18世紀オーストリア軍最高の将軍と讃えられている。
 このふたりに仕えたヤーコフ・ヴィーリモヴィチ・ケイト/ジェイムズ・キース(1696-1758)はスコットランド人。ジャコバイトで、1728年にロシア軍に。しかし待遇に不満を抱き、1747年にはプロイセン軍に転勤。フリードリヒ大王から元帥として迎えられた。七年戦争では古巣を相手に戦うことになる。ドイツ語ではヤーコプ・フォン・カイト。

 もともとロシアはツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチの時代以来西欧への関心を高め、大勢の西欧出身者がロシア軍やロシア宮廷に勤務するようになっていたが、ピョートル大帝の西欧化、特に北方戦争における勝利でますます多くの西欧人がロシアに惹きつけられるようになっていた。
 ピョートル大帝の政権を支えたアイルランド人パトリーク・ゴールドン、スイス人フランツ・レフォールト、スコットランド人の子ヤーコフ・ブリュースなどは、中でも特に名を残した連中であり、名を残せなかったあまたの西欧人がいたのだ。
 アンナ・イヴァーノヴナ時代に活躍したアンドレイ・オステルマンもブルハルト・ミーニフもピョートル・ラシもピョートル大帝時代にロシアにやって来たものだ。そういう意味では、アンナ時代にドイツ人を中心とした西欧人が活躍したという事実は、ピョートル大帝の西欧化政策が花開いたものと見なすこともできるだろう。

 ちなみに外国人が活躍したのは、何もロシアが特に «遅れていた» からではない。ハプスブルク家でもフランス人プリンツ・オイゲン、フランスでもイタリア人マザランなど、外国人が政治で、軍で、最高権力を握るのはどこの国でも珍しいことではなかった。とはいえ、当時のロシアが特に西欧的知識を身に付けた人材を求めていた、という特殊事情があったのも事実である。
 なお、これら外国人は通常母国の利益よりも、仕えている国の利益を優先した。当時はまだナショナリズムなどなく、それどころか民族という意識も希薄であったので、オステルマンにしても特段ドイツとの関係を重視したということはなかった。
 その後もロシアでは西欧出身の外国人が長く活躍した。エカテリーナ2世時代のサー・サミュエル・グレイグ(スコットランド人)やホセ・デ・リバス(ナポリ出身のスペイン人)、アレクサンドル1世時代のミヒャエル・アンドレーアス・バルクラーイ=デ=トーリ(クールラント出身のドイツ人)やトラヴェルセ侯ジャン=バティスト・ド・サンサック(フランス人)、イオアンネス・カポディストリアス(ギリシャ人)、ニコライ1世時代のヨハン・フォン・ディービチ(シュレージエン出身のドイツ人)等。アンナ時代の反動からロシア人が重用されたと言われるエリザヴェータ時代にもウィリアム・ファーマー(イングランド人)がロシア軍を指揮していた。

ロシアでは古くから外国出身者が貴族となっている。モンゴル=タタール系のユスーポフ、トゥルゲーネフ、オガリョーフ、ポーランド=リトアニア系のグリンカ、チェルヌィショーフ、その他国内の少数民族出身のチェルカースキイ、メシチョールスキイ、スコットランド人のレールモントフ、ドイツ人のフォンヴィージン……。
 ピョートル大帝時代には多種多様な外国人がロシアに勤務した。レフォールト(スイス)、ゴールドン(アイルランド)、シャフィーロフ(ユダヤ)を筆頭に、カンテミール(モルドヴァ)、ヘラスコフ(ヴァラキア)、カンタクジーン(ギリシャ)、ミロラードヴィチ(セルビア)といったバルカン出身者、スカロン(フランス)、カプニスト(ヴェネツィア)、フレデリクス(スウェーデン)、そしてベンケンドルフ、リーヴェン等のリヴォニア系ドイツ人。言うまでもなく、アフリカ人ガンニバルもそうだ(事情は著しく異なるが)。
 しかし以後はドイツ系が圧倒的となり、次に外国人が大量にロシア化したエカテリーナ2世の治世では、ヴィッテ、カウフマン、クレインミヘリ、ラムズドルフ、ネッセリローデ、パーレン、レンネンカンプフ等そのほとんどがドイツ系である(もっともロシアに併合されたリヴォニア在住のドイツ系貴族が多かった)。19世紀はこれらドイツ系を中心とする外国系が多数目立つが、特に後半ではそのほとんどが二世、三世であり、新たにロシア化する外国人はほとんどいなくなった。

 アンナ時代を «ビローノフシチナ» と呼び、«暗黒の時代» として描き出したのは、続くエリザヴェータ・ペトローヴナの時代である。エリザヴェータ・ペトローヴナ個人、そしてその下で権力を握った連中としてみれば、自分たちを正当化し価値あらしめるために、アンナ時代を不当に貶める必要があった。それに影響された、これまでのアンナ時代の評価は、必ずしも客観的とは言えないのではないだろうか。このことはアンナ・イヴァーノヴナ個人の評価についても言える。

 貴族の支持により女帝となり、専制権力を手にしたアンナ・イヴァーノヴナは、貴族への譲歩を余儀なくされた。
 1730年、叔父ピョートル大帝の定めた、貴族所領の一子相続法を廃止(分割相続法を復活)。一子相続法は、非相続者を国家勤務に動員する目的で制定されたものだが、貴族には不人気だった。
 1731年、陸軍幼年学校を創設。ピョートル大帝の官等表では、貴族といえども兵卒から勤務を始めることとされていたが、陸軍幼年学校の創設でこれを卒業した貴族は一足飛びに士官として任官できるようになった。
 1736年、貴族の終身勤務義務を25年に緩和。
 これらにより、ピョートル大帝の貴族抑制政策が破棄された。学者の中には、のちにロシア貴族が莫大な財産と権利を有しながら何ら国家に対する責務を負わない «無責任階級» となったのは、この時の政策転換が最大の原因になっている、とする者もある。

 こうして貴族に譲歩したアンナ・イヴァーノヴナだったが、同時にピョートル大帝時代に恐怖の的だったプレオブラジェンスキイ・プリカーズを復活させてもいる。もっとも名称は «秘密捜査部 Канцелярия тайных разыскных дел» としたが、役割は同じだった。この時代、多くの貴族がシベリアに追放されたり処刑されている(シベリア流刑は20,000人以上、処刑は1,000人以上と推定されている)。クーデタや宮廷革命を怖れたためだと言われるが、アンナ・イヴァーノヴナ(やその側近)自身、自分たちの不人気を心得ていたのかもしれない。

 なお、アンナ・イヴァーノヴナの政権は、ピョートル大帝死後無視されてきた海軍に再び関心を向けるようになった。また、1740年には郵便制度を創設している。

 対外政策では、アンドレイ・オステルマンの指導下に、共通の敵オスマン帝国を相手にハプスブルク家と協調関係を構築。
 1733年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世/ポーランド王アウグスト2世(1670-1733)が死ぬと、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740)と共に、後継のポーランド王にザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(1696-1763)を推し、スタニスワフ・レシチニスキを推すフランスとの戦争に突入(ポーランド継承戦争)。フランスとハプスブルク家との戦争はスペイン継承戦争の後始末もからんでむしろイタリア半島を巡って1738年まで続くが、ポーランドにおいてはすでに1734年にスタニスワフ・レシチニスキをポーランドから追い、フリードリヒ・アウグスト2世をポーランド王位に就けた。
 また1734年にはイギリスと通商条約を結ぶ(この手のものでは最初)。

スタニスワフ・レシチニスキ(1677-1766)はポーランドの大貴族。反アウグスト2世派の頭目で、スウェーデンに推されて1704年にポーランド王に。しかしポルターヴァの戦いの後、王位を失い亡命。1725年、娘マリアがフランス王ルイ15世の妃となり、その後押しで1733年に再びポーランド王位を狙うが敗北。1736年にロレーヌ(ロートリンゲン)の公となり、啓蒙専制君主としてこれを統治した。

 1734年、ザポロージエ・コサックのヘトマン・アポストルが死去すると、ヘトマン統治委員会を設置し、ピョートル大帝に倣ってザポロージエ・コサックの直接統治に乗り出す。
 ロシアがウクライナに乗り出してくると、これに反発するのがクリム・ハーン国でありオスマン帝国である。1735年にはクリム・ハーン国がウクライナに侵攻。これに対して1736年、ピョートル・ラシ伯、ブルハルト・ミーニフ伯が軍を率いてクリミアに侵攻し、アゾーフを占領する。さらに一時はクリム・ハーンの首都バフチサライをも占領する。
 1737年には神聖ローマ皇帝カール6世もオスマン帝国に宣戦。ロシア軍は、1739年にはヤシ(モルドヴァ)をも占領する。戦争は順調に進んでいたが、オーストリア軍はオスマン軍に敗北し、戦線を離脱。単独で戦争を継続する余力のなくなったロシアも講和を余儀なくされた。
 1739年のベオグラード条約でロシアは、ピョートル大帝が失ったアゾーフを奪回し、オスマン帝国に右岸(西)ウクライナの宗主権を放棄させた。

オスマン帝国の属国であるモルドヴァとヴァラキアは、ピョートル大帝の時代から新たにロシアの視界に入ってきたが、ロシアがザポロージエ・コサックを支配下に収めた結果、アンナ・イヴァーノヴナの時代以降19世紀にいたるまで、露土戦争の際にはこの両国が主戦場となった。両国の支配者はオスマン帝国に任命された «ファナリオット» と呼ばれるギリシャ人だったが、国民は正教徒で、同じ正教徒たるロシアに親近感を抱いていた。
 ちなみに、さらに南方のブルガリア、西方のセルビアは、まだロシアの視界に入ってきていなかった(どちらもモルドヴァ・ヴァラキアと違いオスマン帝国の完全な一部であった)。

 1737年、クールラント公フェールディナントがダンツィヒで死ぬと、200年にわたってクールラントを支配してきたケトラー家が断絶した。アンナ・イヴァーノヴナはロシアの影響力を駆使してエルンスト・ビロンをクールラント公に押し付けた。もっともエルンスト・ビロンはクールラント公になった後もミタウには赴かず、サンクト・ペテルブルグのアンナの傍らにとどまった。クールラントは駐在ロシア大使が支配した。

 アンナ・イヴァーノヴナの治世は、本格的な中央アジア進出の第一歩が記された時期でもある。
 カザン、アストラハン、シビルの3ハーン国の征服によって、ロシアの中央アジア方面への道は開かれた。しかしその後、歴代ツァーリは必ずしも国家的規模での進出を図ってこなかった(その余裕がなかったというのもある)。シビル・ハーン国の征服自体がストローガノフ家によるものであり、その後ロシアの勢力が太平洋に達しても、必ずしも国家を挙げての事業としてシベリア進出・開拓が行われていたわけではない。中央アジアでも同様で、カザン、アーストラハン、トボーリスクを経由した貿易が栄えたが、基本的に輸入超過で、この方面での領土拡張はほとんどなく、リヴォニアやウクライナに対して執拗に領土拡張を続けたのとは対照的だった(そもそも領土としたはずのアーストラハン地方すら完全には平定できていなかった)。
 とはいえ、中央アジア進出がまったく視野に入っていなかったわけではない。その足掛かりとして、1735年にオレンブルグ要塞がヤイク中流域(ウラル地方南部)に建設される(現在のオレンブルグは1743年に建てられた別の都市)。
 この頃カザフ・ステップは大中小3つのオルダに分かれていたが、このうち小オルダのアブール・ハイル・ハーンが1731年、オレンブルグでロシアに朝貢を行っている。さらに1740年、中オルダのアブール・マンベト・ハーンとアブライ・ハーンが、これもオレンブルグでロシア皇帝への臣従を表明。ロシア史ではこれをもって中オルダのロシア併合としている。しかし実際にはこのふたつの出来事は、小オルダと中オルダの支配階層がロシア皇帝と名目的な主従関係を結んだことを意味するにすぎず、それは例えば16世紀までの中国と日本の関係と同じものだったと言ってもいいだろう。ロシアによる本格的なカザフ・ステップ併合は19世紀に入ってからのことである(大オルダの併合も1847年)。

 またピョートル大帝を引き継いでカフカーズへの進出も行った。
 当時ペルシャではサファヴィー朝の権威が地に堕ち、ガルザイ族のマフムード、アフシャール族のナーディルが相次いでシャー位を奪うなど、言わばロシアにとって好都合な状況にあった。ちなみにこのためカフカーズ東部は群小ハーン国に細分化されていく。これら諸ハーン国は、シャーの権威を認めつつも半独立を獲得。ロシアはこれらを圧迫しつつ、徐々にカスピ海沿岸部に勢力を拡大していった。
 しかしその一方で、ポーランド問題と対オスマン戦争とでロシアにも必ずしも余裕はなかった。西方を優先する立場から1735年にサファヴィー朝と条約を結び、オスマン帝国との対決のためにペルシャの好意的立場を確保しようと、バクーを含むカスピ海西岸地域の占領地をペルシャに返還した。これにより10年以上に及ぶロシア軍の駐留も終わり、ロシアのザカフカージエ進出はひとまず頓挫した形となった。北カフカーズの平定がまったく進んでいない状況では、それも無理からぬことと思われる。

 アンナ・イヴァーノヴナには子がなく、1730年当時の後継者問題は未解決のままだった。
 当時生き残っていたロマーノフの血を引く者は、メクレンブルク=シュヴェリーン公女エリーザベト(姉エカテリーナ・イヴァーノヴナの遺児)、ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・ペーター・ウルリヒピョートル大帝の孫)、ツェサレーヴナ・エリザヴェータ・ペトローヴナピョートル大帝の娘)の3人だけだった。
 姉エカテリーナ・イヴァーノヴナ死後、アンナ・イヴァーノヴナはその遺児エリーザベトを手元に引き取り、正教に改宗させていた(正教徒名アンナ・レオポリドヴナ)。アンナ・イヴァーノヴナとしては、皇位をイヴァン5世の系統で維持したいと考え、そのためアンナ・レオポリドヴナの花婿候補を物色。神聖ローマ皇帝カール6世の妃エリーザベトの斡旋で、その甥、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公家のアントン・ウルリヒをサンクト・ペテルブルクに呼び寄せた(1733年)。
 アンナ・レオポリドヴナアントン・ウルリヒは、1739年に結婚。翌1740年、待望の男子イヴァン・アントーノヴィチが誕生した。アンナ・イヴァーノヴナはさっそくイヴァン・アントーノヴィチを後継者に指名。寵臣エルンスト・ビロンを、イヴァン・アントーノヴィチが成人するまでの摂政とした。
 2ヶ月後の10月、アンナ・イヴァーノヴィチは死去。死因は腎結石と言われる。
 サンクト・ペテルブルクのペトロパーヴロフスキー大聖堂に葬られた。

 アンナ・イヴァーノヴナの治世、エカテリーナ1世ピョートル2世と進行してきた中央権力の弱体化がさらに深刻化。地方では総督 воевода が事実上独立して各地を支配していた(ピョートル大帝の導入した知事制度はまだ浸透しきっていなかった)。
 ただし中央権力の弱体化は、必ずしも歴代皇帝や中央政権の責任とばかりは言えない。帝国が国家機構を整備し、また領土を拡張するに伴い、膨大な数の国家官僚が必要となったが、近代的教育も官僚制度も十分整備されていない閉鎖的身分制国家ロシアでは、官僚が不足していたからである。
 また地主である貴族が中央にしばりつけられている間に地方の農村は荒廃していった。

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最終更新日 07 03 2013

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