ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

アンドレイ・アレクサンドロヴィチ

Андрей Александрович

公 князь императорской крови

生:1897.01.12/01.24−サンクト・ペテルブルグ
没:1981.05.08(享年84)−プロヴェンダー(ケント州、イギリス)

父:アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公 1866-1933 (ミハイール・ニコラーエヴィチ大公
母:クセーニヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1875-1960 (皇帝アレクサンドル3世・アレクサンドロヴィチ

結婚①:1918−ヤルタ
  & エリザベッタ 1887-1940 (サッソ=ルッフォ公ファブリツィオ・ルッフォ)
                    アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・フォン・フリーデリクス夫人

結婚②:1942−ノートン(ケント州)
  & ナディーン 1908-2000 (ハーバート・マクドゥガル)

子:

生没年結婚相手
エリザベッタと
1クセーニヤ1919-2000カルフーン・アンクラム
ジェフリー・カスバート・トゥース
2ミハイール1920-2008エスター・マーフィー
シャーリー・クラモンド
ジューリア・クレスピ
3アンドレイ1922-エレーナ・ドゥールネヴァ
キャスリーン・ノリス
イネス・フォン・バヒェリン
ナディーンと
1オリガ1950-トーマス・マシュー

ミハイロヴィチ。アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公の第二子(長男)。
 皇帝ニコライ2世・アレクサンドロヴィチの甥。

 ロシアで生まれ育ち、ロシア軍人となった最後の世代。ちなみに、父にならって海軍。とはいえ第一次世界大戦時にはまだまだ若年で(開戦時に17)、実際の戦闘には従事していない。

 1917年、二月革命はクリミアの父の所領アイ=トドルで迎える。一時は臨時政府により自宅軟禁状態に置かれた。1918年にはボリシェヴィキーに逮捕される危機もあったが、ドイツ軍、白衛軍により救われる。
 1918年、家族とともに革命を逃れてクリミアで生活していた時に、エリザベッタと結婚。エリザベッタ公妃は母親がロシア貴族で、最初の夫もロシア貴族だったが、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ公との結婚に際して正教に改宗(ロシア語ではエリザヴェータ・ファブリーツィエヴナ)。
 1918年暮れ、第一次世界大戦が終結。パリで開催される講和会議に出席するため父が出国。父以外のロマーノフ一族は誰も出国しようとせずクリミアにとどまったが(誰もがいずれはボリシェヴィキー政権はつぶれるものと考えていたので、亡命しようとはまだ思ってもいなかった)、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ公だけは、結婚したばかりだというのもあったのだろう、妻とともに父に同行している。
 結局そのままロシアに戻ることがかなわず、しばらくフランスで過ごした後、イギリスに落ち着いた。

 ロンドンに暮らしたアンドレイ・アレクサンドロヴィチ公は、やがて亡命してきた母とも合流。
 イギリス陸軍に入隊し、騎兵中尉として勤務した。

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツのロンドン空襲により妻エリザヴェータ・ファブリーツィエヴナ公妃を亡くす。

 再婚後は新妻ナディーンの実家で暮らす。

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最終更新日 07 03 2013

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