ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ (スタナ)

Стана Петровић, Анастасия Николаевна

モンテネグロ公女 кнегиња Црне Горе
ロイヒテンベルク公妃 Herzogin von Leuchtenberg (1901-06)
大公妃 великая княгиня (1907-)

生:1868.12.23/1869.01.04−ツェティニェ(モンテネグロ)
没:1935.11.25(享年66)−カープ・ダンティーブ(フランス)

父:ニコラ1世 1841-1921 モンテネグロ公(1860-1910)・王(1910-18)
母:ミレナ 1847-1923 (ペータル・ヴコヴィチ)

結婚①:1889−サンクト・ペテルブルグ(1906離婚)
  & ロイヒテンベルク公ジョルジュ・ド・ボーアルネ 1852-1912 (ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボーアルネ

結婚②:1907−ヤルタ
  & ニコライ・ニコラーエヴィチ大公 1856-1929 (ニコライ・ニコラーエヴィチ大公

子:

生没年結婚相手
ジョルジュ・ド・ボーアルネと
1セルゲイ1890-1974
2エレーナ1892-1971ステファン・ティシュケヴィチ伯

モンテネグロ公ニコラ1世の第三子(三女)。正教徒。
 長姉ゾルカ(1864-90)はのちのセルビア王ペータル1世(1844-1921)の妃、次姉ミリツァピョートル・ニコラーエヴィチ大公の妃、妹イェレナ(1872-1952)はイタリア王ヴィットーリョ・エマヌエーレ3世(1869-1947)の妃。

 1878年、ベルリン会議で国際的に祖国モンテネグロの独立が承認される。スタナは、姉ミリツァ、妹イェレナ、マリア(1869-85)とともに、サンクト・ペテルブルグのスモーリヌィイ学院で学ぶ。
 ちなみに、スタナはロシアではアナスタシーヤ・ニコラーエヴナと呼ばれた。

 姉がピョートル・ニコラーエヴィチ大公と結婚した同じ1889年、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公女もゲオルギイ・マクシミリアーノヴィチ公(ジョルジュ・ド・ボーアルネ)と結婚。
 これは皇帝アレクサンドル3世のあつらえたものらしい。アレクサンドル3世としては、バルカン出身の同じスラヴ人・正教徒の同胞の王女に対する配慮、責任感があったのかもしれない。しかしこの配慮は裏目に出た。アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃とゲオルギイ・マクシミリアーノヴィチ公との間には互いに愛情がなかったようで、ゲオルギイ・マクシミリアーノヴィチ公は基本的にアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃をロシアに残し、フランスで過ごした。
 この時期、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃は皇帝一家と親しくなる(皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ大公が長男セルゲイ・ゲオルギエヴィチの教父となっている)。姉ミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃が皇族の一員になったというのもあったし、せっかく斡旋した結婚がうまく行かなかったことにアレクサンドル3世も責任を感じた側面もあったろうし、社交界全体もアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃に同情的だったこともあった(しかし彼女に対する好意的感情は長続きしなかった)。
 特に、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナとも親しくなった。ロシアにやってきていきなり皇妃となり(大公妃の段階を経ずにいきなり皇妃となったのはアレクサンドラ・フョードロヴナが唯一)、しかも非社交的だったために上流階級から冷たく受け入れられたアレクサンドラ・フョードロヴナにとっては、アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃やミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃は数少ない友人だった。

 アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃とミリツァ・ニコラーエヴナ大公妃の姉妹はともに神秘主義やオカルト趣味を云々されることが多い。しかし、当時はそれが最先端の流行であり、コナン・ドイルから何からみなスピリチュアリズムにはまっていた(ブラヴァツキーがもてはやされていた時代なのだ)。そもそもロマーノフ家でもアレクサンドル1世を筆頭に神秘主義にはまった人間は数多いし、当時もアレクサンドラ・イオシフォヴナ大公妃などが神秘主義を熱烈に信奉していた。姉妹だけを批判するのはおかしな話だろう。当時の人々のふたりに対する批判には、「バルカンの山奥の片田舎から出てきて大公妃に納まった成上り者」に対する差別と嫉妬が透けて見える気がする。
 もっとも、特に姉妹にその傾向が顕著だった、ということはあったかもしれない。しかも、ふたりを通じて仲の良かった皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナまで神秘主義にはまってしまったとあっては、ロシア宮廷の姉妹に対する見方(特に神秘主義に批判的な人々の)が厳しくなるのもやむを得ないことではあったろう(もっともアレクサンドラ・フョードロヴナ自身にもともとその傾向はあったと思うが)。
 1905年にラスプーティンを皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナに紹介したのも姉妹。

 姉の家庭で、義兄にあたるニコライ・ニコラーエヴィチ «ムラードシイ» 大公と出会う。1906年にはゲオルギイ・マクシミリアーノヴィチ公と離婚し、1907年、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公と再婚した。
 当時、不倫は普通のことだったが離婚はスキャンダラスな出来事だった。このためニコライ・ニコラーエヴィチ大公とアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ公妃の結婚にも皇帝ニコライ2世はいい顔をしなかったが、結局は押し切られたようだ(なおこのスキャンダルが一因となって、皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナとの関係は冷却化)。
 結婚式はニコライ・ニコラーエヴィチ大公の所領のあるクリミアで、近親者のみで行われた(とはいえ妹婿のヴィットーリョ・エマヌエーレ3世も参列している)。

 アナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃とニコライ・ニコラーエヴィチ大公の結婚生活は幸せなものであったらしいが、子はなかった。
 反トルコ闘争を通じて独立を勝ち取ったモンテネグロの王女であるアナスタシーヤ・ニコラーエヴナ大公妃は強硬な反トルコ主義者であり汎スラヴ主義者であって、元来その傾向のあったニコライ・ニコラーエヴィチ大公もさらにその傾向を強めることになる。

 1915年、ニコライ・ニコラーエヴィチ大公がカフカーズ副王に任じられるとこれに同行。以後、革命も亡命も夫と行動を共にする。1917年にはクリミアへ、1919年には国外へ。
 なお、最初の結婚から生まれた二子もこの時同行している。
 亡命後、当初は妹イェレナの嫁ぎ先であるイタリアのジェノヴァに滞在するが、最終的には南フランスに落ち着いた。

 カンヌの大天使ミカエル教会(正教会)に埋葬されている。

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最終更新日 07 03 2013

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