アルフレッド・アーネスト・アルバート
Alfred Ernest Albert, Альфред
イギリス王子 Prince of Great Britain and Ireland
エディンバラ公 Duke of Edinburgh (1866-)
ザクセン=コーブルク&ゴータ公 Herzog von Sachsen-Coburg und Gotha (1893-)
生:1844.07.25/08.06−ウィンザー城(イギリス)
没:1900.07.17/07.30(享年55)−ローゼナウ城(コーブルク、ドイツ)
父:プリンス・アルバート 1819-61 (ザクセン=コーブルク&ゴータ公エルンスト1世)
母:ヴィクトリア 1819-1901 イギリス女王(1837-1901)
結婚:1874−サンクト・ペテルブルグ
& マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女 1853-1920 (皇帝アレクサンドル2世・ニコラーエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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マリーヤ・アレクサンドロヴナと | |||
1 | アルフレッド | 1874-99 | − |
2 | メアリ | 1875-1938 | ルーマニア王フェルディナンド1世 |
3 | ヴィクトリア・メリタ | 1876-1936 | ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ |
キリール・ヴラディーミロヴィチ大公 | |||
4 | アレクサンドラ | 1878-1942 | ホーエンローエ=ランゲンブルク侯エルンスト |
5 | 1879 | − | |
6 | ベアトリス | 1884-1966 | 第5代ガリエラ公アルフォンソ |
プリンス・アルバートと女王ヴィクトリアの第四子(次男)。イギリス国教徒。
兄はイギリス王エドワード7世(1841-1910)。姉ヴィクトリア(1840-1901)はドイツ皇帝フリードリヒ3世(1831-88)の妃、妹アリス(1843-78)はヘッセン&ライン大公ルートヴィヒ4世(1837-92)の妃(つまり皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナの母)。
1856年よりイギリス海軍に入隊。
1862年、ギリシャ王オトンが廃位された時にはアルフレッドが後継候補に挙げられた。
1867年、ガラテア号の艦長として世界一周航海に出発。ケープタウンを経てオーストラリアへ。イギリス王族として初めてオーストラリアを訪問し大歓迎を受けたが、同時に暗殺未遂事件も起こった。さらにニュージーランド、香港、インドへ(いずれもイギリス王族初訪問)。
1874年、マリーヤ・アレクサンドロヴナ大公女と結婚。サンクト・ペテルブルグで行われた結婚式には母は欠席。
一時期マルタに駐屯していた。英仏海峡艦隊司令官(1883-84)、地中海艦隊司令官(1886-89)、プリマス港司令官(1890-93)。この間、海軍少将(1878)、海軍中将(1882)、海軍大将(1887)、海軍元帥(1893)。
1893年、ザクセン=コーブルク&ゴータ公エルンスト2世が死去。子がなかったため、その弟アルベルト(プリンス・アルバート)の子である兄イギリス王太子アルバートが継承法からすると跡継ぎとなるべきであったが、イギリス王位を継承する身であることから継承権を放棄。アルフレッドがザクセン=コーブルク&ゴータ公位を継いだ。
アルフレッドは当然イギリス海軍勤務をやめ、イギリス上院の議席も返上して、家族とともにコーブルクに居住。
ザクセン=コーブルク&ゴータ公としてのアルフレッドの治世は、7年と短かったこともあって、これといって特筆すべきものはない。
1899年、唯一の男子であった長男が、スキャンダルに絡んで自殺。このため、アルフレッドの死後は、次弟コノート公アーサーが公位継承権を放棄していたため、末弟の子であるオールバニー公チャールズ・エドワード(ドイツ語カール・エドゥアルト)がザクセン=コーブルク&ゴータ公位を継いだ。
咽頭ガンで死去。コーブルクに埋葬された。