ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

アレクセイ・グリゴーリエヴィチ・ボーブリンスキイ

Алексей Григорьевич Бобринский

伯 граф (1796-)

生:1762.04.11/04.22−サンクト・ペテルブルグ
没:1813.06.20/07.02(享年51)−ボゴロディツク(トゥーラ県)

父:グリゴーリイ・グリゴーリエヴィチ・オルローフ公 1734-83
母:女帝エカテリーナ2世・アレクセーエヴナ 1729-96

結婚:1796−レーヴェリ(スウェーデン語でレヴァル、現タリン、エストニア)
  & アンナ・ヴラディーミロヴナ 1769-1846(ヴラディーミル・ウンゲルン=シュテルンベルク男爵)

子:

生没年結婚相手
アンナ・ヴラディーミロヴナと
1アレクセイ1796-97
2マリーヤ1798-1835ニコライ・ガガーリン公
3アレクセイ1800-68
4パーヴェル1801-30
5ヴァシーリイ1804-74

グリゴーリイ・オルローフエカテリーナ2世の私生児。

 妊娠・出産を夫ピョートル3世から隠すために母エカテリーナが凝らした様々な工夫に関して話が伝わっている。
 特に有名なのが、出産に際して、侍従ヴァシーリイ・シュクーリンが自宅に放火し、火事の好きなピョートルが現場に赴いている間に産み落とした、というもの。

 誕生と同時にアレクセイはシュクーリンに預けられた。以後シュクーリンの子として育てられ(父称もグリゴーリエヴィチではなくヴァシーリエヴィチ)、シュクーリンの実子とともに生活し、教育も受けた。エカテリーナの配慮か、シュクーリンの子らは(アレクセイも含め)、ライプツィヒに留学している。

 1765年、トゥーラ県ボーブリキを所領としてもらう。ボーブリンスキイの姓はこれにちなんだもの。

 1774年、ドイツから帰国すると、正式に母からグリゴーリエヴィチの父称を認められ(ヴァシーリイ・シュクーリンの子ではなくグリゴーリイ・オルローフと女帝との子として認知された)、ボーブリンスキイの姓を与えられる。これに伴い、アレクセイ・ボーブリンスキイはイヴァン・ベツコーイに預けられる。
 陸軍幼年学校に入学し、1782年、卒業に伴い陸軍中尉。

 しかしアレクセイ・ボーブリンスキイは基本的に遊び人だったようで、その後長期の国内旅行に出、一通りロシア各地をまわると今度はヨーロッパへと向かい、ヴィーンからイタリアを経てパリへ。この間、各地で豪遊する。母はパリのメルキオール・グリムにアレクセイ・ボーブリンスキイに目を光らせてくれるよう依頼したりしている。この頃、イヴァン・ベツコーイに代わってピョートル・ザヴァドフスキイが後見人となっている。
 1788年に帰国。レーヴェリに居住。ただしこれは半分 «国内流刑» みたいなもので、アレクセイ・ボーブリンスキイが何度サンクト・ペテルブルグに住まわせてくれるよう嘆願しても、母は許さなかった。1790年、アレクセイ・ボーブリンスキイは早くも退役。以後、ピョートル・ザヴァドフスキイの送ってくる金を頼りに生活した。
 エカテリーナは息子の行跡を苦々しく思い、アンナ・ウンゲルン=シュテルンベルクと結婚させた(もっとも、ウンゲルン=シュテルンベルク男爵はレーヴェリ近郊に所領を有し、アレクセイ・ボーブリンスキイも日頃から付き合いがあって、花嫁とも以前からの知り合いだったとも言われる)。

 1796年、異父兄パーヴェル・ペトローヴィチが即位。皇帝パーヴェルは早速弟を皇室の一族として認知し、伯に叙勲。さらに戴冠式にあわせて陸軍少将に昇進させる。
 もっとも、だからと言ってアレクセイ・ボーブリンスキイが以後政治や軍事で活躍したかと言うとそんなことはなく、かろうじて没年がわかっている程度。その他大勢の貴族の中に埋没してしまった。
 1798年には再び退役。以後は所領経営に精を出す。

 ボーブリンスキイ家はその後大土地所有者として革命まで存続。特に長男アレクセイ・アレクセーエヴィチ伯によって、ロシア初の国産の砂糖が生産された。以後、砂糖の製造業で財を成す。

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最終更新日 07 03 2013

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