ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家人名録系図人名一覧

ロマーノフ家人名録

アレクサンドラ・パーヴロヴナ

Александра Павловна, Alexandra Pawlowna

大公女 великая княжна
大公妃 Erzherzogin (1799-)

生:1783.07.29/08.10−サンクト・ペテルブルグ или ツァールスコエ・セロー
没:1801.03.04/03.16(享年17)−オフェン(現ブダペスト、ハンガリー)

父:皇帝パーヴェル・ペトローヴィチ 1754-1801
母:皇妃マリーヤ・フョードロヴナ 1759-1828 (ヴュルテンベルク公フリードリヒ2世・オイゲン)

婚約:1796
  & グスタフ4世・アドルフ 1778-1837 スウェーデン王(1792-1809)

結婚:1799−ガッチナ
  & オーストリア大公ヨーゼフ・アントン 1776-1847 (神聖ローマ皇帝レーオポルト2世)

子:

生没年結婚相手
ヨーゼフ・アントンと
1アレクサンドリーネ1801

皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの第三子(長女)。
 皇帝アレクサンドル1世・パーヴロヴィチの妹で、ニコライ1世・パーヴロヴィチの姉。

 兄ふたり、アレクサンドル・パーヴロヴィチ大公コンスタンティーン・パーヴロヴィチ大公は祖母エカテリーナ2世の手元で育てられたが、アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女(と妹弟たち)は両親のもとで育つ。

シャルロッタ・カールロヴナ・リーヴェン(1743-1828)はリヴォニア系ドイツ人。未亡人として4人の子供を育てた。1783年、アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女の誕生で、エカテリーナ2世によりその養育係として雇われる。以後、パーヴェル・ペトローヴィチマリーヤ・フョードロヴナのすべての子たちの養育を看た。女帝自身の生活態度が悪影響を与えると言ったのを耳にしたエカテリーナ2世は「あなたのような女性が必要なのだ」と言ったとか。エカテリーナ2世の信任を得ると同時にマリーヤ・フョードロヴナからも好かれた希有の人物。その死に際して、ニコライ1世(かれもリーヴェン夫人に育てられたひとりだ)の命で宮廷は3日間の喪に服した。伯、公(彼女自身の権利として)。

 ロマーノフ家で女子の教育が問題となるのは久方ぶりのことだったが、ピョートル大帝の時代と同じように、歴史や地理、舞踏、語学(フランス語、ドイツ語、ほかに時としてイタリア語、英語など)が教えられ、さらにこの頃からは美術や文学、音楽も取り入れられるようになった。

 1793年、スウェーデン王グスタフ4世・アドルフ(1778-1837)との結婚話が持ち上がる。
 1796年、アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女が13歳になると話は本格化し、グスタフ・アドルフがサンクト・ペテルブルグをお忍びで訪問することになった。エカテリーナ2世もグスタフ・アドルフが気に入ったし、グスタフ・アドルフもアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女が気に入ったらしく、結婚話がまとまった。ところが最後の最後になって、アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女の改宗の問題で破談。グスタフ・アドルフがアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女のルター派への改宗を主張し、エカテリーナ2世が正教信仰の保持に固執したのである。

改宗が原因で結婚話が破談となったのは、ツァレーヴナ・イリーナ・ミハイロヴナに続いてこれが2件目。イリーナ・ミハイロヴナの場合は娘婿を正教に改宗させようとして、今回はアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女をルター派に改宗させまいとして、と状況は異なる。しかもイリーナ・ミハイロヴナの相手は君主の私生児だったが、アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女の相手は君主その人であった。君主の妃ともなれば改宗するのが当然かと言えば、必ずしもそうでもない。たとえばノイシュヴァンシュタインとヴァーグナーで有名なバイエルン王ルートヴィヒ2世(カトリック)の母は結婚時はルター派のままだった(のち息子たちの相次ぐ発狂が原因でカトリックに改宗)。そこら辺は実家の力関係や花婿・花嫁の個性にもよる部分で一概には言えない。このような交渉が面倒だったのか、基本的にカトリックはカトリックと、プロテスタントはプロテスタントとしか結婚していない。残念ながら正教徒の王家はロマーノフ家しかなかった。

 結婚式のまさに当日、結婚契約にアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女の正教信仰維持を認める条文があることに気付いたグスタフ・アドルフが、ロシア側にはめられたとして結婚式をすっぽかしたと言われている。
 この時の心痛が、同年のエカテリーナの死をもたらす要因のひとつであったとも言われている。

ちなみにグスタフ・アドルフはこの直後、エリザヴェータ・アレクセーエヴナの妹フリデリーケ(1781-1826)と結婚している。まだグスタフ・アドルフに未練のあったマリーヤ・フョードロヴナは、グスタフ・アドルフを奪われた腹いせにエリザヴェータ・アレクセーエヴナを逆恨みし、ふたりの関係を悪化させることになったとか。
 さらにちなみに、グスタフ・アドルフはその後クーデタで王位を追われている。

 1799年、革命フランスに対してオーストリアと同盟を結んだ父により、ヨーゼフ・アントン(神聖ローマ皇帝フランツ2世の弟)と結婚させられる。ただし正教信仰は維持することが認められた。相手が君主ではなかったためか。しかしそのためもあってか、彼女はヴィーンでは孤立していたようだ。夫との関係もうまく行かず、アレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女の結婚生活は幸せなものではなかった。
 1801年、夫がハンガリー宮中伯としてハンガリーに赴任するのに同行。
 オフェン(ブダ、現ブダペスト)で子供を出産し、死去。娘もその日のうちに死んだ。

 ハプスブルク家は代々の墓所にアレクサンドラ・パーヴロヴナ大公女を埋葬することを拒否し(正教徒だったため)、ブダに埋葬した。のち、その場所に小さな正教会が建てられている。

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最終更新日 07 03 2013

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