アレクサンドラ・フョードロヴナ (シャルロッテ)
Friederike Luise Charlotte Wilhelmine, Александра Федоровна
プロイセン王女 Prinzessin von Preußen
大公妃 великая княгиня (1817-25)
ロシア皇妃・ポーランド王妃・フィンランド大公妃 императрица Всероссийская, царица Польская, великая княгиня Финляндская (1825-)
生:1798.07.01/07.13−シャルロッテンブルク宮殿(ベルリン、ドイツ)
没:1860.10.20/11.01(享年62)−ツァールスコエ・セロー
父:フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 1770-1840 プロイセン王(1797-1840)
母:ルイーゼ 1776-1810 (メクレンブルク=シュトレーリツ大公カール2世・ルートヴィヒ)
結婚:1817−サンクト・ペテルブルグ
& 皇帝ニコライ1世・パーヴロヴィチ 1796-1855
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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ニコライ1世と | |||
1 | アレクサンドル(皇帝2世) | 1818-81 | ヘッセン大公女マリー |
エカテリーナ・ドルゴルーカヤ公女 | |||
2 | マリーヤ | 1819-76 | ロイヒテンベルク公マクシミリアン・ド・ボーアルネ |
グリゴーリー・ストローガノフ伯 | |||
3 | 1820 | − | |
4 | オリガ | 1822-92 | ヴュルテンベルク王カール1世 |
5 | 1823 | − | |
6 | アレクサンドラ | 1825-44 | ヘッセン=ルンペンハイム方伯フリードリヒ・ヴィルヘルム |
7 | エリザヴェータ | 1826 | − |
8 | コンスタンティーン | 1827-92 | ザクセン=アルテンブルク公女アレクサンドラ |
9 | 1829 | − | |
10 | ニコライ | 1831-91 | アレクサンドラ・フォン・オルデンブルク |
11 | ミハイール | 1832-1909 | バーデン大公女ツェツィーリエ |
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムの第四子(次女)。ただし姉は死産。ルター派。
長兄はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795-1861)。次兄はシャルロッテ王女の死後にプロイセン王ヴィルヘルム1世(1797-1888)となり、さらにドイツ皇帝となった。オランダ王ウィレム2世の従姉妹。
幼少期はナポレオン戦争一色。特に1806年、イェナ・アウエルシュテットの戦いで敗北したプロイセン王家はベルリン(ブランデンブルク)を追われてプロイセン(いわゆる東プロイセン)に難を逃れ、ロシア皇帝アレクサンドル1世の庇護を受ける。ちなみにこの時、母ルイーゼとアレクサンドル1世との関係が種々の憶測を呼んだ(もっとも恋愛関係があったとしても、おそらくプラトニックなものだったろうが)。
以後、シャルロッテ王女はメーメル(現クライペダ、ラトヴィア)で育つ。当然プロイセン王家には金もなく、シャルロッテ王女も質素な暮らしをした。家庭教師を雇う金もなかったのか、シャルロッテ王女の基礎的な教育は母がみたらしい。ティルジットの和約を受けて、1809年にベルリンに帰還。
1810年、母が死去。すでに祖母もなく、まだ幼いシャルロッテ王女がファーストレディとしての務めを果たすことになった。
1814年、パリに進軍するロシア軍を追うニコライ・パーヴロヴィチ大公とミハイール・パーヴロヴィチ大公がベルリンを訪問。ニコライ大公とシャルロッテ王女は互いに気に入り、婚約をした(1813年に父とアレクサンドル1世との間ですでに話がついていたとも言われる)。
1817年、兄ヴィルヘルム(のちのドイツ皇帝)に伴われてサンクト・ペテルブルグへ。正教に改宗し、アレクサンドラ・フョードロヴナの洗礼名と父称を与えられ、ニコライ・パーヴロヴィチ大公と結婚した。
アレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃のロシア語教師となったのが、詩人ヴァシーリイ・ジュコーフスキイ。しかしかれは、アレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃に言わせれば「よい教師であるには詩人でありすぎた」となり、アレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃は終生ロシア語を完全にマスターすることがなかったらしい。
ニコライ・パーヴロヴィチ大公とはドイツ語で話をし、手紙はフランス語で書いた。
ヴァシーリイ・アンドレーエヴィチ・ジュコーフスキイ(1783-1852)は地主の私生児で、極貧貴族の養子となる。モスクワ大学在学中の10代から詩人として活動。ナポレオン戦争時代にその名声を確立。1816年には皇太后マリーヤ・フョードロヴナの朗読係、1817年にはアレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃のロシア語教師、1826年には皇太子アレクサンドル・ニコラーエヴィチ大公の養育係に任命されるなど、皇室との関係も深かった。なお帝国国歌『神よツァーリを護り給え』の作詞者でもある。娘アレクサンドラはアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公の愛人。
皇帝パーヴェル・ペトローヴィチの息子たちの中で、ニコライ・パーヴロヴィチ大公が唯一幸せな結婚生活を送ったと言っていい。アレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃はニコライ・パーヴロヴィチ大公とともにペテルゴーフで暮した。夫婦揃って社交生活よりも家庭を大事にし、しかもプロイセン風の軍隊的生活が身に染みついており、そういう点では似た者夫婦だった。しかもニコライ・パーヴロヴィチ大公は軍隊に没頭していたにもかかわらずアレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃との時間も大切にし、いずれも妃をないがしろにした4兄弟の中で唯一夫婦仲がうまく行った。その意味で、義理の4姉妹のうちでアレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃が最も幸福だったと言える。
ちなみに、アレクサンドラ・フョードロヴナ大公妃は義母の皇太后マリーヤ・フョードロヴナとはうまく行ったが、義姉の皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナとはそりが合わなかった。と言うか、このふたり双方とうまく行った者はおそらくそうはいなかっただろう。もっとも、エリザヴェータ・アレクセーエヴナを毛嫌いしていたマリーヤ・フョードロヴナに気兼ねしていただけだと言う者もいる。
元来さほど頑健ではなく、妊娠、出産の繰り返しで体調を崩すことが多く、しかも死産もあって、1820年から21年、1824年から25年と、ニコライ・パーヴロヴィチ大公とともにベルリンに1年近くにわたり帰省している。
1825年、アレクサンドル1世の突然の死で、アレクサンドラ・フョードロヴナは皇妃となる。
アレクサンドラ・フョードロヴナは皇妃として、さまざまな慈善活動に従事することになる。特に1828年に義母マリーヤ・フョードロヴナが死ぬと、宮廷のファーストレディとなる(ロシアでは皇后より皇太后が優先)。
しかし、すでに健康をかなり害していた皇妃アレクサンドラ・フョードロヴナは(肺か気管支?)必ずしもその務めを果たせず、特に冬期、寒く湿ったサンクト・ペテルブルグの気候を避けるため、しばしば療養のため外国に滞在することを余儀なくされた。
特に末子ミハイール・ニコラーエヴィチ大公を産んだ後は、アレクサンドラ・フョードロヴナは医師から性行為を禁じられたらしい。このためもあってか、この頃ニコライ1世はヴァルヴァーラ・ネリードヴァを愛人としたとも言われる。とはいえ、ニコライとアレクサンドラの関係は変わらなかった。
ちなみに、18世紀までのロマーノフの中に呼吸器関係の疾患のあった者はいない。ところが19世紀(特に後半)以降のロマーノフは、ほぼ半分の割合で呼吸器系に問題を抱えており、寒く長い冬の気候に、特に湿ったサンクト・ペテルブルグに耐えられなかった。
典型はニコライ・アレクサンドロヴィチ大公、アレクセイ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギイ・アレクサンドロヴィチ大公の3人で、いずれも幼少より結核や肺炎を患い、若くして死んでいる。ピョートル・ニコラーエヴィチ大公も、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公とドミートリイ・パーヴロヴィチ大公の父子もそうだった。コンスタンティーノヴィチなどは男はほぼ例外なく呼吸器系がダメで、そのため誰ひとりコンスタンティーン・ニコラーエヴィチ大公の跡を継いで海軍に入ることができなかった。
ちなみに女性で結核を発症したのはアレクサンドラ・ニコラーエヴナ大公女だけ。深刻化する前に外国に嫁に行ったからかもしれないが。
外国からロマーノフに嫁入りした女性たちにも呼吸器系の疾患は見られたことで(もっともアレクサンドラ・フョードロヴナ以外には皇妃マリーヤ・アレクサンドロヴナだけ)、一概には言えないが、おそらくアレクサンドラ・フョードロヴナからの遺伝であろうと思われる。
1837年、アレクサンドラ・フョードロヴナはクリミアに滞在。彼女のためにニコライ1世はオレアンダ宮殿を建てた。
1855年、ニコライが死ぬと、アレクサンドラ・フョードロヴナはツァールスコエ・セローに居住。またしばしばニースにも滞在。ファーストレディの務めは新たに皇妃となったマリーヤ・アレクサンドロヴナに譲り、宮廷から退いた。
ペトロパーヴロフスキイ大聖堂に埋葬されている。
ロシア初の常設公開演劇団に、創設以来76年目にして1832年に与えられた劇場が、彼女にちなんで «アレクサンドリンスキイ» と名付けられた。