アガーフィヤ・セミョーノヴナ・グルシェツカヤ
Агафья Семеновна Грушецкая
ツァリーツァ царица (1680-)
生:1660?
没:1681.07.14/07.24(享年21?)−モスクワ
父:セミョーン・フョードロヴィチ・グルシェツキイ -1668
母:マリーヤ・イヴァーノヴナ・ザボロフスカヤ
結婚:1680−モスクワ
& ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチ 1661-82
子:
名 | 生没年 | 結婚相手 | |
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フョードル3世・アレクセーエヴィチと | |||
1 | イリヤー | 1681 | − |
モスクワの宮廷貴族。正教徒。本名はエヴフィーミヤとも言われる。
ツァーリ・フョードル3世・アレクセーエヴィチの最初の妃。
グルシェツキイ家は16世紀末、フョードル1世の治世にツァーリに仕えるようになったポーランド出身の家系。モスクワに所領を持つ宮廷貴族として革命まで続いたが、歴史に残るような人物は輩出していない。
フョードル3世がアガーフィヤ・セミョーノヴナと結婚したのには、フョードル3世の親友たちイヴァン・ヤズィコーフやアレクセイ・リハチョーフ、ヴァシーリー・ゴリーツィン公など、ポーランド文化にかぶれた若手貴族の影響があったのかどうかはよくわからないが、結果的にグルシェツキイ一族はヤズィコーフやリハチョーフ、ゴリーツィン公などとともに、モスクワ宮廷をポーランド化していく上で大きな役割を演じた。
同時にこの結婚を期に、フョードル3世の政権で大きな権勢をふるっていたミロスラーフスキイ一族が弱体化していく。
ただしアガーフィヤ・グルシェツカヤ個人は、フョードル3世に対して何ら影響を与えなかった(それでもフョードル3世や側近たちのポーランド化政策を支持したと伝えられる)。
イリヤー・フョードロヴィチを産んだ3日後に死去。イリヤー・フョードロヴィチも1週間しかもたなかった。
ヴォズネセンスキイ修道院に埋葬された。