ロシア学事始ロシアの君主ロマーノフ家

外国王家との関係

ヴェッティン家

ヴェッティン家は11世紀以降、旧東ドイツへの植民に活躍した家系(かつての旧東ドイツは11世紀にはスラヴ人の土地だった)。マイセン辺境伯、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯として東部ドイツの有力諸侯となる。15世紀、ザクセン選帝侯に。その直後、エルンスト系とアルプレヒト系に分裂する。

アルプレヒト系

 アルプレヒト系はザクセン選帝侯として東半(旧マイセン辺境伯領)を相続。分家がほとんどなく、あってもすぐ断絶したために、エルンスト系と違って領土的統一が保たれた。
 プロテスタントだったが、17世紀末にポーランド王位を獲得するに際して、フリードリヒ・アウグスト1世がカトリックに改宗。以後、2代60年間にわたりポーランド王を兼ねた。
 ちなみにフリードリヒ・アウグスト1世は300人以上の私生児を残したことで有名(自分の娘とも気付かずに愛人にしたこともあると言う)。ドイツ語で der Starke、ポーランド語では Mocny と呼ばれているが(どちらも «強い» という意味)、歴史的に見るとかれの «強さ» は性的なものだけだったと言わざるを得まい。
 ポーランドは以後没落の一途をたどり(かれの責任とも言えないが)、ザクセン本国もオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセン軍に蹂躙されている。ナポレオンによってザクセン王に格上げされたが、ヴィーン会議では北部をプロイセンに奪われた。
 1871年にドイツ帝国に統合され(帝国内の王国として存続)、1918年に王制廃止。

 ポーランド王位獲得はロシアの後押しを受けたものだったが、あるいはカトリックに改宗したためか、ロマーノフ家との婚姻関係は一切ない。ピョートル3世の曽々祖母がザクセン選帝侯の娘だった程度だろうか。同じくマリーヤ・アレクサンドロヴナ(アレクサンドル2世妃)の祖先にもザクセン選帝侯の娘がいる。
 なのでロマーノフ家にはアルプレヒト系の血が流れているが、アルプレヒト系にはロマーノフ家の血は一滴も流れていない。

 マイセン焼きで著名。

 以下、こちらの画像を参照のこと。なお、赤枠はツァーリ・皇帝。水色枠はヴェッティン家。赤紫枠は女性。

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エルンスト系

 エルンスト系は西半(旧テューリンゲン方伯領)を相続。ルターの庇護者であったフリードリヒ3世賢公、最初にルター派に改宗した領邦君主ヨハン持続公、シュマルカルデン戦争の指導者ヨハン・フリードリヒ寛容公と、3代にわたり歴史に名を残した。
 その後幾多の分家に分裂するが、おおまかにヴァイマール系、ゴータ系、マイニンゲン系、ヒルドブルクハウゼン系、コーブルク系の5つ。いずれもプロテスタント。
 いずれも1871年、ドイツ帝国に統合され(帝国内の大公国・公国として存続)、1918年、君主制が廃止される。

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ザクセン=ヴァイマール大公家

 ザクセン=ヴァイマール&アイゼナハ公は、バッハやゲーテの庇護者として有名。ヴィーン会議で大公に格上げされる。特に初代の大公となったカール・アウグストはゲーテを大臣として招き、典型的な啓蒙専制君主としてヴァイマールをドイツ文化の中心地とした。

 以下、こちらの画像を参照のこと。なお、赤枠はツァーリ・皇帝。水色枠はヴェッティン家。赤紫枠は女性。

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ザクセン=ゴータ&アルテンブルク公家

 ザクセン=ゴータ&アルテンブルク公家は1825年に断絶。その領土は、残るマイニンゲン系、ヒルドブルクハウゼン系、コーブルク系に分割された。

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ザクセン=マイニンゲン公家

 名を残したのはゲオルク2世ぐらい? その宮廷劇団(«マイニンゲン一座»)は演劇史上重要で、またハンス・フォン・ビューローやリヒャルト・シュトラウスを宮廷楽長として迎えている。
 ザクセン=マイニンゲン公家は、なぜがロマーノフ家とのつながりがない。

 以下、こちらの画像を参照のこと。なお、赤枠はツァーリ・皇帝。水色枠はヴェッティン家。赤紫枠は女性。

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ザクセン=ヒルドブルクハウゼン公家(ザクセン=アルテンブルク公家)

 ザクセン=ヒルドブルクハウゼン公は、1826年以降ザクセン=アルテンブルク公と呼ばれる。1991年、断絶。

 以下、こちらの画像を参照のこと。なお、赤枠はツァーリ・皇帝。水色枠はヴェッティン家。赤紫枠は女性。

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ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公家(ザクセン=コーブルク&ゴータ公家)

 ザクセン=コーブルク&ザールフェルト公は、1826年以降ザクセン=コーブルク&ゴータ公と呼ばれる。1831年、レーオポルトがベルギー王に選ばれて以来脚光を浴びる。ヴィクトリアがイギリス女王となり、プリンス・アルバートと結婚して、以後ポルトガル王家(結婚による相続)、ブルガリア王家(列強による擁立)ともなった。
 イギリス王家は、エリザベス2世の後をその子・孫が継げばロマーノフ家の血が混じっていくことになる。
 ザクセン=コーブルク&ゴータ公位は、本家が断絶したためイギリス王家の分家が継ぎ、現存。ロマーノフ家との血縁関係はない。
 ポルトガル王家(断絶)、ブルガリア王家(現存)、ベルギー王家(現存)のいずれも、ロマーノフ家との関係は一切ない。カトリックに改宗したポルトガル王家とベルギー王家がロマーノフ家と関係を持たなかったのはまだわかるが、正教徒となり国自体が親露派最右翼のブルガリア王家(王家自体は親露派と言うよりは親独派だったが)がロマーノフ家との婚姻関係を持たなかったのは少々不審である。せいぜい、フェルディナントの後妻がヴラディーミル・アレクサンドロヴィチ大公の妃マリーヤ・パーヴロヴナの従姉妹だとか、ボリース3世の妃がニコライ&ピョートル・ニコラーエヴィチ大公兄弟の妻たちの姪だとか、といった迂遠なもの。

 以下、こちらの画像を参照のこと。なお、赤枠はツァーリ・皇帝。水色枠はヴェッティン家。赤紫枠は女性。

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最終更新日 07 03 2013

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