ロシア学事始

ロシア暦

わたしたちはしばしば混同して理解しているが、«紀年法» と «暦法» とはまったく別物である。

 紀年法とはある年を元年として二年、三年と数えていくもので、西暦とか平成とかがこれにあたる。
 暦法とは何日を1年とするか、月や週をどう数えるか、また何月何日を元旦(1年のはじまり)とするか、を定めるもの。太陽暦とか太陰暦とか、ユリウス暦とかグレゴリウス暦とかがこれにあたる。
 紀元節というのは紀年法に基くものであり、旧暦の正月というような場合は暦法である。
 イスラーム暦では、紀年法ではヒジュラのあった622年を元年とし、暦法では太陰暦を使用している。
 こんにちのわれわれで言うと、西暦2008年と言うのはキリストの誕生を元年とした紀年法(キリスト紀元)であり、1年が365日あって、4年に一回閏年があって、さらに100年に一回閏年がなくて、という複雑怪奇な日付の計算は暦法(グレゴリウス暦)である。

 ロシアは、10世紀にビザンティン帝国からキリスト教を受け入れると同時に、ビザンティン帝国の用いていた紀年法と暦法を導入した。天地創造紀元(紀年法)とユリウス暦(暦法)である。
 天地創造紀元(天地創造暦)とは、聖書から換算して神による天地創造を紀元前5508年とし、これを天地創造元年として数えるものである。西暦2012年は天地創造7520年に相当する。
 しかし1453年にビザンティン帝国が滅亡し、その後接触の深くなったヨーロッパ各国がキリスト紀元を用いていたため、ピョートル大帝により天地創造紀元が廃止されてキリスト紀元が導入される。つまり7208年12月31日の翌日が1700年1月1日と宣言されて、ロシアもヨーロッパ各国と足並みを揃えることになった。
 ちなみにこの時、元旦も9月1日から1日1日に改められている(これは暦法の改正にあたる)。

 ところがユリウス暦(暦法)の方は、その後も相変わらず使い続けた。これには宗教的な理由もあったためである。

 ユリウス暦とは、紀元前46年にユリウス・カエサルの制定したもので、1太陽年(地球が太陽を一周する時間)を365日と4分の1と見なし、4年に一度閏年を設ける。
 しかし実際に地球が太陽を一周するのにかかる時間はそれより10分強短く、そのため数百年たつと数日単位でズレが生じる。このため、1582年に教皇グレゴリウス13世が改正した暦法がグレゴリウス暦である。これは、100で割り切れて400で割り切れない年(1700年、1800年、1900年、2100年、2200年、2300年、2500年……)は閏年にしない、というものである。これでも5000年で1日の誤差が生じるが、ユリウス暦よりははるかに1太陽年に合致している。
 グレゴリウス暦はあくまでも科学的なものであるが、主導者がローマ教皇であったということで、対応にばらつきが出た。カトリック諸国は同年、ないし翌年のうちに導入した。しかしプロテスタント諸国の対応は遅れ、北ドイツ、北欧、オランダ、イギリスなどは100年以上もユリウス暦を使い続けた。つまりその間、カトリック諸国の1月1日とプロテスタント諸国の1月1日は同じ日ではなかったのである。たとえばフランスとイギリス、あるいは同じドイツ国内でもオーストリアとプロイセンなど。
 ピョートル大帝が紀元法を改正した1700年の時点では、たとえばイギリスが依然ユリウス暦を使用していた。ましてロシアは正教国としてカトリックを敵視し、かつ正教会が正教の伝統に固執したので、グレゴリウス暦を導入しようという動きすら起きなかった。

 その後、プロテスタント各国も順次グレゴリウス暦を導入していき、19世紀に入った時点で依然としてユリウス暦を使用しているのはロシアだけになった。このため、「ロシアだけで用いられている特殊な暦法」ということで、それがユリウス暦であることを知らない人々が «ロシア暦» と呼ぶようになったのである。
 もっとも、«ロシア暦» を用いる国は、19世紀には逆に増えた。すでに述べたように、正教会はカトリックと対立していたから、各国の正教会はグレゴリウス暦を用いずユリウス暦を使用し続けていた。ゆえに19世紀に独立した正教国は、おしなべてユリウス暦を用いている。すなわちブルガリア、セルビア、ルーマニア、ギリシャなどである。

 ロシア革命後、ボリシェヴィキー政権はユリウス暦を廃止してグレゴリウス暦を導入することを決定する。こうして1918年、1月31日の翌日が2月14日とされた(つまり1918年には2月1日から2月13日までの13日間の日付が存在しない)。
 ただしこれは国家の話。ロシア正教会は、いまもユリウス暦を用いている。ゆえにロシアでは、クリスマス(キリストの誕生日)は 12/25 ではなく 1/7 である。
 また、ほかの正教国は、ロシアよりもグレゴリウス暦への転換が遅れ、国によっては第二次世界大戦後になったところもある。

ユリウス暦からグレゴリウス暦への換算表
ユリウス暦換算
1582.10.05 - 1700.02.18+10
1700.02.19 - 1800.02.17+11
1800.02.18 - 1900.02.28+12
1900.03.01 - 1918.01.31+13

 なお、暦法についてはデイヴィド・E・ダンカン『暦をつくった人々』などが詳しく語っている(必ずしもロシア独自の事情を述べているわけではないが)。

 ついでに、ピョートル大帝以前の年代確定の問題点について一言述べておきたい。
 上述のように、ピョートル大帝が7208年12月31日の翌日を1700年1月1日とするまでは、ロシアでは9月1日が新年だった。つまり7208年は4ヶ月しかなかったことになる。
 これが問題となるのは、たとえば次のような場合である。
 『原初年代記』によると、キエフ大公ヴラディーミルは6523年に死んだという。しかし、天地創造暦の6523年は、キリスト暦の1014年9月1日から1015年8月31日までを指す。では、ヴラディーミルが死んだのは1014年なのか1015年なのか。この場合、年代記には具体的な日付が記されている。7月15日である。こうして、ヴラディーミルの死は1015年の出来事であることが確定した。
 その息子ヤロスラーフ賢公の場合、6562年の「聖フョードルの斎戒期の最初の土曜日」に死んだとされている。この日は2月19日であるので、この場合は1053年ではなく1054年であることがわかる。
 ところがその弟ムスティスラーフ勇敢公については、6544年の項に「狩りに出かけ、発病して死んだ」とあるだけである。日付については一切記述がない。ムスティスラーフ勇敢公が死んだのは、1035年なのか1036年なのか(伝統的に1036年とされているようだが、根拠はわからない)。
 ここで言いたいのは、このように、正確な日付(せめて月)がわからない限り、1700年1月1日以前について年が確定できない、ということだ。この点は、特に歴史関連のコンテンツにおいては重要なので、念頭に置いておいてもらえるといいだろう。

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最終更新日 20 08 2014

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