ロシア学事始

ロシアの宗教

ロシアには、キリスト教、イスラーム、仏教など様々な宗教の信徒が居住している。

 アメリカ中央情報局 CIA の推計によると、ロシア正教徒が 15 - 20 %、その他キリスト教諸派が 5 %、イスラーム教徒が 10 - 15 % となっている(『The World Factbook』)。この数字はあくまでも宗教的儀礼・行事を遵守・参加している者の数である。民族的区分に従えば、基本的にロシア正教徒であるロシア民族が 79.8 % を占める以上、正教徒は 80 % 以上にのぼる。それ以外の宗派では、イスラームのスンニ派が最大であり、正教以外のキリスト教諸派やイスラーム諸派、仏教その他の諸宗教がそれぞれ(少なくともパーセント的には)ごくわずかずつであろう。
 しかし70年以上に及ぶ無神論国家ソ連による宗教弾圧の結果、真摯な信徒はロシア正教会であれイスラームであれごく少数派となっていることは間違いない。わたしの知人にタタール人のイスラーム教徒がいるが、「ボクはムスリマーニン(イスラーム教徒)ですヨ」とか言っていたが、礼拝や断食はしておらず、モスクにも1、2度行ったことがある程度だと言っていた。
 ВЦИОМ (世論調査機関)が2010年に行った調査によると、正教徒が 75 %、イスラーム教徒が 5 %、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教徒、仏教徒がそれぞれ 1 % 未満、無宗教が 8 % となっている。

 宗教は民族と無関係ではない。ユダヤ人や回族などのように、宗教を自らの民族性の拠り所としている民族でなくとも、キリスト教徒であること、イスラーム教徒であることは、それぞれの民族にとっては、コミュニティのアイデンティティを確立・維持する重要な柱であった。
 こんにちのロシアにおいても、ある民族がまとめてすべて、ある宗教、ある宗派の信徒であるのが通例である。たとえば、ロシア民族は原則として全員が正教徒(オルトドクス信徒)であると思って間違いはない。逆に言えばオルトドクスはロシア民族の精神性や日常生活に深く根付いている。無神論者を自認するロシア人も、生活の各所でオルトドクスの伝統を遵守していたりする。
 しかし少数民族は、古来の伝統的な民族宗教(アニミズムやシャーマニズム)を保持しているものもあるが、多くが正教化の圧力にさらされている。

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国教

 こんにちのロシアでは、キリスト教のオルトドクスに属するロシア正教会の信徒が圧倒的多数派である。とはいえ、ロシア正教会(オルトドクス)はロシア連邦の国教ではない。

 皇帝がロシア正教会のトップを兼ねたロシア帝国は、言わば «政祭一致» 国家であった。しかし革命によって国家と教会は分離された。近代西欧によって獲得された政教分離の原則は無神論国家ソ連においても当然踏襲され、こんにちのロシアもそれを引き継いでいると言ってもいい。
 とはいえ、事実上国民のほとんどがある宗教を信奉し、国民の生活と切り離し得なくなっている場合、国家が特定の宗教を(主に財政面で)支援するのは近代国家においても珍しいことではない。イギリスでは、イングランドの国教会とスコットランドの長老派が、北欧でもそれぞれルター派が «国教» とされている。フィンランドでは、ルター派に加え、人口のわずか 1% しかいないオルトドクス(フィンランド正教会)も事実上の国教扱いされている。
 このように形式的な庇護を与えていなくても、大統領が就任式で聖書にかけて宣誓をおこなうアメリカのように、事実上国家が特定の宗教と密接に結びついている例は珍しくない。

 ソ連時代には、ある意味では無神論が «国教» であり、あらゆる宗教が弾圧された。

 ロシアでは、前述のように圧倒的多数の住民が正教徒であるにもかかわらず、これを国教、あるいは国教に準ずるものとしては扱っていない。むしろ、キリスト教、イスラーム、仏教、ユダヤ教の4つをロシアの «土着の» 宗教として、これらを平等に扱おうとする傾向が強いように思われる。

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キリスト教

 キリスト教は、大雑把に次のように分類され得る。すなわち、ニカイア信条を否定するアッシリア教会、ニカイア信条は肯定しカルケドン信条を否定する非カルケドン派、そしてニカイア信条もカルケドン信条も肯定するカトリックとオルトドクスである。

 以上は教義上の分類だが、地理的に西方教会と東方教会に分類されることもある。その場合、アッシリア教会や非カルケドン派はオルトドクスともども東方教会に属することになる。

 さらに、特殊な «東方典礼カトリック教会» がある。これは東方教会(オルトドクスや非カルケドン派)だが、ローマ教皇の権威を認め、西方カトリックの教義を採り入れたものである。地理的には東方教会に属し、歴史的発展の上からも東方教会に属するが、西方カトリックの一部である。

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アッシリア教会

 正式には «アッシリア東方教会»。俗に «アッシリア正教会» とも呼ばれるが、謝りと言うべき。
 ロシアではアッシリア教会に属するのは北カフカーズに住む少数民族アッシリア人だけであり、北イラク主教区に属する。ただし1998年にモスクワに教会堂が建設された。

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アルメニア教会

 教義的には非カルケドン派に属する。
 正式には «アルメニア使徒教会»。俗に «アルメニア正教会» とも呼ばれるが、正教会は通常オルトドクスの訳語とされているので、これは誤解を招く呼び方。もっとも、«オルトドクス» という言葉は «正統な» という意味で、オルトドクス(正教会)の専売特許ではなく、アルメニア教会も自ら «正統な教会» という意味で «正教会(オルトドクス教会)» を名乗ることがあるので、誤りとも言えない。
 アルメニアはローマ帝国よりも早く、世界で最初にキリスト教を公認し、国教とした。その後国が滅亡した後も、アルメニア人はキリスト教を自らの拠り所とし、そのためカルケドン公会議でカルケドン信条が確立されると、すでにそれと異なる教義を確立していたアルメニア教会は他のキリスト教徒から分離。アルメニア教会は独自の宗派として発展していった。

 その名のとおり、現実にはアルメニア人の教会(典礼言語はアルメニア語)。もっとも教義的には同じ非カルケドン派のコプト、シリア、エティオピアの各教会と共通で、その典礼にはオルトドクスと共通する部分が少なくない(教会暦もオルトドクス同様にユリウス暦を使用し続けている)。
 総本山は国教化以前からエチミアディンで(首都エレヴァン近郊)、長はカトリコス(日本語では総主教と訳されることが多い)。

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カトリック

 カルケドン派は、最終的には1054年にカトリックとオルトドクスに分裂した。以来、基本的にオルトドクスは(正教徒のロシア人は)、カトリックを «異端» と見なしている。これはカトリックの側も同様で、いわゆる «北方十字軍» を正当化する論理にもなった。あるいはこの «北方十字軍» が、ロシア人の反カトリック感情をある程度増幅させたかもしれない。

 ピョートル大帝以降、外国出身のカトリック信徒が増加したこともあり、ロシア国内にもカトリックの教会や修道院が建てられたものの、正教徒のカトリックへの改宗は事実上禁止されていた。
 18世紀のポーランド分割により、大量のカトリック信徒がロシア帝国に組み込まれることになった。かれらに対しては比較的寛容な政策が採られた。1773年にはモギリョーフ司教区(のち大司教区)が認められ、1783年にはサンクト・ペテルブルグのネフスキイ大通りにカトリックの教会が建てられた。教皇により解散させられた後もイエズス会が活動を認められた数少ない国のひとつでもあった。
 19世紀の2度のポーランド叛乱により、多数のカトリック信徒がシベリアに送られ、結果としてカトリックはロシア各地に広がった。
 このように、ロシアにおいてカトリックは元来 «外国人の宗教» であった。ただし、西欧化の進展に伴い、カトリックに改宗するモノ好きなロシア人も(主に貴族の間に)徐々に現れてくる。現存するロシア人のカトリック信徒は、主にこれらポーランド人や改宗ロシア貴族の子孫である。
 ソ連時代にはオルトドクス以上に弾圧された(«外国人の宗教»、すなわち «資本主義のスパイの宗教» と見なされたためか)。

 こんにち、ロシアには426の教区が存在するが、その4分の1は独自の教会堂を持たない。これらはモスクワの大司教座、ノヴォシビルスク、イルクーツク、サラートフの司教座に分けられている。
 カトリック信徒の数は、推測による大雑把な数値しか存在しない。それによれば、20万から60万。

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プロテスタント

 厳密な定義はともかくとして、ここではカトリックから分離した宗派をプロテスタントとしておく。
 ロシア人はカトリックを敵視した分、プロテスタントには比較的好意的だった。

 ロシアにおけるプロテスタントは、16世紀のリヴォニア戦争が契機で発生したと言っていいだろう。戦争捕虜となったドイツ人やスウェーデン人が、言うならばロシア最初のプロテスタントである。
 18世紀、ポーランド併合によって大量のカトリック信徒がロシア国民となったが、プロテスタントの場合もそれと前後するリヴォニア併合によってロシアに増えた。さらに19世紀のフィンランド併合により増大。
 フィンランド人は必ずしもロシア人と同化しなかったが、リヴォニアの特にドイツ人はロシア国内で活躍。またこれとは別に、18世紀後半にヴォルガ下流域に多くのドイツ人が入植した(帝国政府の後押しを受けて)。このヴォルガ・ドイツ人はその後もドイツ人としてのアイデンティティを失わず、巨大なプロテスタント・コミュニティを形成した(そのため第二次世界大戦時にはスターリンに弾圧された)。

 正確な数字は知らないが、一説にはロシアにおけるプロテスタントの総数は 200万人を越える。この数字は、特にソ連崩壊後に急激に増大した。ソ連時代には宗教が事実上迫害されていたという事情もあるが、ソ連崩壊後に欧米の各宗派が資金力にモノを言わせて «宗教空白地» のロシアに精力的に進出したことも関係している。
 宗派別に見ると、福音派が最大勢力となっているらしい。ルター派がこれに続き、さらにイギリス国教会、メソディスト、クエーカー、メノナイトなど、欧米の多くの宗派がロシアに存在している。

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オルトドクス

 通常 «正教» ないし «正教会» と訳されている。«ギリシャ正教» と呼ばれることもあるが、ギリシャ共和国のオルトドクス教会組織 «ギリシャ正教会» と混同されてしまうので、ここでは «ギリシャ正教» の訳語は使わない。

八端十字架

 1054年に相互破門によってカトリックと袂を分かったオルトドクスは、原則として一国にひとつの教会組織を設ける。カトリックにおけるローマ教皇のような普遍的な権威を持たない(とはいえコンスタンティノープル総主教がいちおう最高権威)。このため、こんにち、オルトドクスは以下の組織に «分裂» している。
 コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、イェルサレム、ギリシャ、ロシア、ルーマニア、セルビア、グルジア、ブルガリア、キプロス、ポーランド、チェコスロヴァキア、アルバニア、アメリカ、フィンランド、シナイ、エストニア、日本、マケドニア、ウクライナ、モンテネグロ、ほか。最初の4つは古代ローマ帝国以来の権威を誇る総主教座であり、それ以外は中世以降に国別に創設された教会組織である。
 ロシア国内には多くのオルトドクス信徒(正教徒)が存在する。所属教会別に見るとロシア正教会がもちろん圧倒的に多いが、ほかにもルーマニア正教会、ギリシャ正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会などに所属するオルトドクス信徒もいる。言うまでもなく、ルーマニア正教会に属するロシア人とは、基本的にロシア在住のルーマニア人のことである(ほかも同様)。
 所属教会の違いは単に組織的な問題でしかなく、信仰の上から言えば同じオルトドクスの教会であればどこで礼拝しても同じことである。とはいえ、正教会組織ごとに典礼言語が異なり、さらに承認する聖者に異同が見られるなどの微小な差異が存在する。このため実際面からすると、ロシア在住のルーマニア人が、同じオルトドクスだからと言ってほいほいロシア正教会の教会に通えるものでもない。

 なお、オルトドクス諸教会はいまでもユリウス暦を使用している。
 また十字架も、わたしたちが普通に想像するラテン十字架(短い横棒が縦棒上部に重なる)とは異なる十字架を用いることが多い。ロシア正教会で主に用いられるのは «八端十字架» と呼ばれるもので、ラテン十字架の横棒の上にさらに短い横棒が重なり、さらに縦棒下部には斜めの短い横棒が交差する。この十字架は «ロシア十字架» とか «正教の十字架» などと呼ばれることがあるが、どちらも必ずしも間違いとは言えないものの、誤解を招きやすい呼び方である。

 ちなみに、オルトドクスとカトリックの違いは十字の切り方にも表れる。オルトドクスでは親指・人差し指・中指の三本で(薬指・小指をまげて)額・胸・右肩・左肩の順で切るが、カトリックでは指の決まりはなく(通常は薬指・小指をまげず)、額・胸・左肩・右肩の順で切る。

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ロシア正教会

 オルトドクスは一国一教会組織が原則だが、正教徒の数が少ない国については独立の教会組織を設けられない場合がある。ロシア正教会も、旧ソ連諸国(ベラルーシ、中央アジア)を管轄するほか、自治組織としてウクライナ正教会と日本ハリストス正教会、在外ロシア正教会をも庇護下に置いている。
 ロシア正教会はロシア国民のほとんどを擁し、そのトップであるモスクワ総主教は各種国家行事でも中心的な位置を与えられているものの、上述のように、公的には国教ではない。

 特殊な問題として、ウクライナ正教会を巡る問題、在外ロシア正教会の問題、そして300年来の古儀式派の問題がある。

在外ロシア正教会

 ロシア革命後、反革命・反共産主義の立場から亡命した、あるいは亡命を余儀なくされた聖職者たちによって組織された正教会組織。
 もともと帝政時代からロシア正教会は外国への布教をおこない、また外国に滞在・在住するロシア人・オルトドクス信徒のための教会組織を外国に設けていた。たとえば日本の正教会もそのひとつである。これらはロシア革命後、ソ連体制との共存を余儀なくされたロシア正教会(モスクワ総主教)との関係をどうするかという問題に直面し、多くがロシア正教会の管轄から離れて事実上独立していった。その後、ロシア正教会と和解。アメリカの正教会組織は1970年に独立のアメリカ正教会として認められた。同年にロシア正教会との関係を修復した日本の正教会も、いちおうモスクワ総主教の管轄下に入ったものの、自治教会組織としての立場を認められている。
 これに対して在外ロシア正教会は、そもそも反共の立場からロシアを棄てた・棄てざるを得なかった聖職者の組織である。かれらは特に1927年に時のモスクワ府主教セールギイの発した「正教徒はソ連政府に忠誠を誓え」との宣言に反発し、このためソ連崩壊まで、ソ連体制を容認したロシア正教会との対決姿勢を貫いた。ソ連崩壊後も、ロシア正教会が過去の政策(セールギイの宣言など)を否定しない以上、在外ロシア正教会としても共産主義政権が崩壊したからと言っておいそれと元のさやに納まるわけに行かず、長く関係修復が大きな課題であった。
 ようやく2007年、モスクワ総主教と在外ロシア正教会幹部が和解。在外ロシア正教会は、ロシア正教会の管轄下に自治教会組織に準ずる位置づけを得た。

古儀式派

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東方典礼カトリック

 歴史的出自や典礼面(言語も含め)では東方教会(オルトドクスや非カルケドン派)でありながら、カトリックの教義を受け入れ、ローマ教皇を首長として認める教会組織のこと。ただしカトリックの教義とローマ教皇の権威を受容した背景や経緯はそれぞれであり、一様ではない。

 ロシア史の文脈では、ウクライナの東方カトリック教会(一般にユニアート教会などと呼ばれる)が有名だが、事実、規模としても最大。帝政時代末期にはその大主教区がロシアにもつくられ、ロシア帝国各地にちらばった東方カトリックを信奉するウクライナ人だけでなく、オルトドクスから改宗したロシア人も多く含まれていた。
 東方カトリックはオルトドクスの «裏切り者» であり、オルトドクス教会からは古儀式派同様に(あるいはそれ以上に)敵視され、迫害された。このためソ連時代にはソ連政府からのものと二重の迫害を受けることになり、逼塞する。
 ソ連崩壊後に復活。とはいえ、依然としてごく少数派であることに変わりはない。なお、典礼面では東方オルトドクスに準拠しているため、いまでもユリウス暦を使用している。

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イスラーム

 ロシア領内におけるイスラームの歴史は、イスラーム誕生からまだ間もない8世紀にダゲスターン(北カフカーズ東部)がイスラーム勢力によって征服された時をもって始まる。10世紀にはヴォルガ中流域にヴォルガ・ブルガールが国を建て、周辺地域にイスラームを広めた。
 しかしこれらは、言わばロシアとは別の国の話である。ロシア(の祖形となった国家)がイスラームを受容することになるのはこれより遅く、15世紀以降のことである。ヴォルガ流域への領土拡大に伴い、カシーモフ・ハーン国、カザン・ハーン国、アストラハン・ハーン国、さらにウラルを越えてシビル・ハーン国と、相次いでイスラーム国家を吸収。18世紀にはクリム・ハーン国とノガイ・ウルス、18世紀末から19世紀にかけて北カフカーズ諸民族と中央アジアを次々に併合していき、ロシアにおけるイスラームの比重は相対的に高まった。

 こんにち、ロシアにおけるイスラーム教徒は総人口の 6% とも、あるいは 20% 近くともされる(ロシア民族が総人口の 80% を占める以上、イスラーム教徒が 20% もいるはずがない)。その大部分は、北カフカーズの非ロシア系諸民族と、ヴォルガ中流域のテュルク語派の言語を話すタタール人・バシュキール人である。
 ロシア政府は、政治的にはイスラーム過激派に対する警戒と、チェチニャーとの戦争などの影響から、イスラームに対して警戒的になっている。しかし他方で文化的には、積極的にその復興を支援している。メッカへの巡礼者数はウナギ登りに増加しているし、各地にモスクが建設されているし、ロシア・イスラーム大学がカザーニに、ロシア・イスラーム文化センターがモスクワに創設された。タタルスターン共和国の首都カザーニは、帝政時代からヨーロッパ・ロシアにおけるイスラームの中心地であり、ここにはソ連崩壊後にヨーロッパ最大のモスクも建設されている。
 人口動態を見ると、キリスト教徒に比べてイスラーム教徒の人口増加率が著しい。このため、ロシアの総人口に占めるイスラーム教徒の割合は増加の一途を辿るものと思われる。なお、ソ連時代にも同様の傾向から、いずれはソ連国民の過半数がイスラーム教徒になると思われたが、そのような事態が訪れる前にソ連が崩壊してしまった。

 周知のように、イスラームは大雑把にスンニ派とシーア派に分かれるが、シーア派は原則としてイラン系・ペルシャ系の人々にのみ信仰されており、残るイスラーム教徒は基本的にスンニ派である。ロシアにおいても、シーア派に属するのはアゼルバイジャン人のほかにはタト人、レズギ人の一部などぐらいである。

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仏教

 ロシアにおける仏教徒は、基本的にモンゴル語派の言語を話すティベット仏教徒である。具体的には、ブリャート人、トィヴァ人、カルムィク人である(なおトィヴァ語はこんにちではテュルク系の言語)。

 歴史的には、17世紀にカルムィク人がヴォルガ下流域の領土を与えられたのが、ロシアにおいて仏教(仏教徒)が大きな意味を持った最初であろう(ちなみにカルムィク人はヨーロッパ唯一の仏教徒でもある)。1741年には女帝エリザヴェータによって仏教が帝国の公式な宗教として認可された。
 カルムィク人も含めて、ロシアにおける仏教はモンゴル系のティベット仏教徒と事実上イコールであった。ブリャート人やトィヴァ人だけでなく、ザバイカーリエ地方(バイカル湖以東)には広くティベット仏教徒が存在していた。
 ソ連政府は仏教の根絶政策に乗り出すが(スターリンはカルムィク人をシベリアに追放してもいる)、大祖国戦争後はその政策も緩和されていった(カルムィク人は1957年にヴォルガ下流域への帰還を赦された)。

 数的には大したことはないが、シベリア・極東の少数民族の中にも仏教徒がいる。

 ロシアには、これ以外にも、日本人、中国人、韓国・朝鮮人、ヴェトナム人などの仏教徒が散在している。

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ユダヤ教

 ロシアにおけるユダヤ人はポーランド分割とともに急増し、その後徐々に減少していっている。ロシア人はあまり人種差別をしない人たちだが、ユダヤ人差別だけは別である(これには宗教的な問題もからんでいる)。帝政時代には、数度におよぶポグロム(ユダヤ人の大量虐殺)が発生している。
 ロシア革命は民族の解放を謳ったが、ソ連政府になってもユダヤ人に対する差別は潜在化しただけでなくなりはしなかった。特にスターリン時代の末期にはユダヤ人迫害が顕在化し、時あたかもイスラエルが建国したこともあり、ユダヤ人の出国・亡命が増加する。
 こうして、ソ連時代初期には300万を超えたユダヤ人は(もっともその多くはロシアではなくウクライナやベラルーシに住んでいたが)、こんにちでは20万程度に激減している。

 にもかかわらず、こんにちでもユダヤ教徒の数は100万人を越えるとの統計もある。シナゴーグもロシア全土に70を数えている。
 ユダヤ教徒とはまず間違いなくユダヤ人のことである。にもかかわらず両者の数が100万と20万では開きがありすぎるが、これはおそらくロシア社会にあるユダヤ人差別と無縁ではあるまい。

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その他

ヒンドゥー教

 歴史的には17世紀にアーストラハニにインド系商人が到来したのが、ロシアにヒンドゥー教がもたらされた最初である。
 こんにちでは、ロシアにおけるヒンドゥー教徒は、ある資料によると6万人にのぼる。2002年の国勢調査によればヒンドゥー系の言語を話すインド・パキスタン系の人々はロシア国内には 5 000 人弱しかいないから、単純に言って 55 000 人が非インド系のヒンドゥー教徒だということになる。これがどういう人々なのかは知らない。
 しかしモスクワだけで1万人のヒンドゥー教コミュニティが存在するとされ、近年ヴィシュヌ寺院の建設に反発してヒンドゥー教徒に対する反発が高まった。

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アニミズム・シャーマニズム

 森羅万象(とも限らないが)すべてのものに «霊魂(アニマ)» が宿っているとする考えがアニミズムである。もっとも、一般的には、そのような霊的存在に対する信仰のことを指す。
 一方、トランス状態に入って神や精霊と交信する «シャーマン» の呪術的役割が、人々の信仰生活の中核となっている宗教をシャーマニズムと呼ぶ。もともとは北東アジア(極東)の少数民族に見られる現象を呼ぶものであった。
 厳密にはこのふたつは区別すべきかもしれないが、乱暴に言ってしまうとシャーマンがいるかいないかの違いでしかない。しかしシャーマニズムと一口に言っても、シャーマンの具体的な役割など必ずしも一様ではない。卑弥呼はシャーマンであったと言えるだろうが、一般に日本古来の信仰(神道)にはシャーマンは存在しない。

 極論を言えば、あらゆる民族は元来アニミストであったと言えるだろうが(ゼウスやジュピターは天空の神だし、天照大神は太陽の神である)、キリスト教やイスラームの浸透により、こんにちのロシアで本来のアニミズムを残している民族はごく少数となっている。
 具体的には、主に北極圏やシベリア・極東の少数民族である。つまり、通常アニミズム・シャーマニズムを宗教とする(あるいは生活習慣や文化にその影響が色濃く見られる)民族として挙げられるのは、コラ半島のサーミ人、西シベリア平原のネネツ人、ハントィ人、マンシ人、ケート人、東シベリアのエヴェンキ人、ヤクート人、ユカギール人、モンゴル国境のショール人、トファラル人、ハカス人、ブリャート人、極東のウデヘ人、ウリチ人、オロチ人、コリャーク人、ナナイ人、ニヴフ人、ネギダール人。
 これらを単純に合計すると、100万人を越える。しかしだからと言って、こんにちのロシアにアニミズム・シャーマニズムの信徒が100万人もいる、ということにはならない。ほとんどがロシア化の影響で正教徒(場合によってはムスリム)となっているし、たとえばブリャート人は基本的にティベット仏教を信仰している。

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最終更新日 17 08 2012

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