北東ルーシ
ここはもともとロストーフ公領として成立したが、のちロストーフ=スーズダリ公領と、さらにヴラディーミル=スーズダリ公領と呼ばれるようになり、最終的にヴラディーミル大公領となった。問題は、ヴラディーミル大公領の分領としてロストーフ公領が形成されたことである。ロシアでもこれを何と呼ぶべきか迷っているようで、おそらく一般的にはロストーフ=スーズダリ、ヴラディーミル=スーズダリ、あるいは単純にヴラディーミル、そしてここで使う北東ルーシと呼ぶ。単純にロストーフ公領といった場合はヴラディーミル大公領の分領を指す。
その領域は大雑把に、こんにちのモスクワ州とヴラディーミル州の大部分、トヴェーリ州の東部、ヤロスラーヴリ州、イヴァーノヴォ州、コストロマー州の(おそらく)西部、ヴォーログダ州の一部を含む。
西でノーヴゴロド共和国とスモレンスク公領、南でセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(チェルニーゴフ公領)とムーロム公領に接している。北はノーヴゴロドの属州。東はウラル系諸民族の居住地である。そもそも北東ルーシの大部分が、もともとはウラル系民族の居住地であった。
キエフ・ルーシの北東の最前線に位置し、ウラル系諸民族との友好的・敵対的関係を軸に発展。広大な森林が広がり河川が縦横無尽に走って、自然の要害となっていたとともに住民に恩恵を与えた。
早くから公が派遣され、ロストーフを主都とする公領として成立したが、西のノーヴゴロド共和国やスモレンスク公領、南のセーヴェルスカヤ・ゼムリャー(特にヴャーツカヤ・ゼムリャー)やムーロム=リャザニ公領との境界はあいまいなままだった(しばしばひとりの公がこれら複数の公領を統治したため)。
1054年のヤロスラーフ賢公の死後はおそらくフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチの領土になったと思われる。しかし独自の発展を開始するのは、12世紀に入って、ユーリイ・ドルゴルーキイの支配下においてである。
ユーリイ・ドルゴルーキイは、本人はキエフ大公位を目指してこの地の経営をおろそかにしつつも、北部・東部への植民を推進して幾多の都市を建設した。モスクワ、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ、ユーリエフ=ポリスキイ、ドミートロフ、コストロマー、ガーリチ=メールスキイ(?)、トヴェーリ(?)、ゴロデーツ(?)などである。なおユーリイ・ドルゴルーキイは主都をロストーフからスーズダリに移し、そのため北東ルーシはロストーフ=スーズダリ公領と呼ばれるようになった。
続くアンドレイ・ボゴリューブスキイは、主都をさらにヴラディーミルに移し、よって公領はヴラディーミル=スーズダリ公領と呼ばれるようになった。大公を自称するようになったのがいつ頃からかはよくわからないが、アンドレイ・ボゴリューブスキイは父と異なり、キエフを制圧しても自ら南ルーシに赴くことなく、宗主権を及ぼすことで満足した。タティーシチェフは1169年にアンドレイ・ボゴリュープスキイがキエフを占領して以降、かれをヴラディーミル大公と呼んでいる。
弟のフセーヴォロド大巣公もまた、キエフに対して宗主権を及ぼすだけで満足し、北東ルーシの経営に専念している。
北東ルーシは、また早くもユーリイ・ドルゴルーキイの時代から、隣接するノーヴゴロド公領、スモレンスク公領、ムーロム=リャザニ公領、セーヴェルスカヤ・ゼムリャーに対して優位に立っている。ノーヴゴロドには何人も一族を公として送り込み、ムーロム=リャザニは何度も蹂躙・占領し、スモレンスクやセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの諸公とはしばしば同盟を結び、さらにはキエフを何度も占領したほか、はるか遠くガーリチ=ヴォルィニ公領にまで影響力を及ぼしている。アンドレイ・ボゴリューブスキイの死後、そしてフセーヴォロド大巣公の死後、それぞれ大公位継承を巡り内紛が発生。周辺諸公の介入を招いたが、一旦内部が落ち着くと以前にも増して周辺諸公領に大きな影響力を及ぼしている。
ユーリイ・ドルゴルーキイ、アンドレイ・ボゴリューブスキイ、フセーヴォロド大巣公の3代によって、北東ルーシはキエフ・ルーシ有数の大国としての地位を確立した。
フセーヴォロド大巣公死後の1214年、ヴラディーミルに主教座が設置された。少し後のことだが、1271年にはトヴェーリに北東ルーシで3番目となる主教座が設置されている。ひとつの公領に3つもの主教座が置かれるのはキエフ・ルーシではほかに例がなく(2つもまだ珍しい)、これも国力の充実と歴代公の権威と無関係ではないだろう。
初期3代で北東ルーシが大国としての地位を確立できた背景には、ひとつには分領に細分化されなかった事実が挙げられるだろう。
ユーリイ・ドルゴルーキイの長男ロスティスラーフは、父親が領土を与えてくれないと父の仇敵に泣きついている。アンドレイ・ボゴリューブスキイは弟たちを、フセーヴォロド大巣公も甥たちをそれぞれ北東ルーシから追放している。一族に分領を与えた場合も、それは北東ルーシではなく南ルーシであって、北東ルーシは常にひとりの公が独占的に支配する体制を崩さなかった。
これが崩れるのが、フセーヴォロド大巣公の末年である。その死後北東ルーシは、ヴラディーミル(大公の直轄領)、ロストーフ、スーズダリ、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ、ユーリエフ=ポリスキイ、スタロドゥーブの6つに分割され、さらにその後、モスクワ、トヴェーリ、ガーリチ=メールスキイ、コストロマー、ゴロデーツが分かれていった。他の諸公領で見られた以上に北東ルーシは細分化されたことになる。
この時代はまたモンゴルが襲来した時期でもある。1238年、北東ルーシではモスクワ、ヴラディーミル、スーズダリ、ユーリエフ=ポリスキイ、スタロドゥーブ、ゴロデーツ、コストロマー、ガーリチ=メールスキイ、ロストーフ、ヤロスラーヴリ、ウーグリチ、カーシン、クスニャーティン、ドミートロフ、トヴェーリ、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイが相次いで陥落、攻略された。主な都市はすべてである。
しかし北東ルーシはそこから立ち直った。深い森と流れる河川と、さらにムーロム=リャザニ公領が、南ステップに居着いたモンゴルの襲来からの防波堤の役割を果たし、西方ではスモレンスク公領が膨張するリトアニアからの防波堤となった。細分化された諸分領はさらに小さく細分化され、ヴラディーミル大公位を主張し得る公はほぼ一族の直系のみに限られた。またモンゴルも、ヴラディーミル大公の権威を認め、かつ過分に北東ルーシの内政に干渉してこなかった。
14世紀に入ると、北東ルーシは急速にモスクワ公の権威の下に統一されていく。
14世紀に入った時点では、モスクワ公はヴラディーミル大公ではなく、大公位を継ぐ権利もなく、ほんの小さな領土を有するだけの弱小分領公にすぎなかった。しかしキプチャク・ハーンと結ぶことでヴラディーミル大公位を得、ペレヤスラーヴリ、コロームナ、セールプホフなど徐々に領土を拡大。当時最大の勢力であったトヴェーリ公を早くも30年ほどのうちに圧倒し、北東ルーシの第一人者となった。
最終的にはドミートリイ・ドンスコーイの下で、モスクワ公の覇権は確立する。同時に弱小分領を次々に併合し、領土的にも北東ルーシの統一を進めていった。1393年にはキプチャク・ハーンからムーロム公領の併合も認められ、モスクワ公の勢力拡大は北東ルーシを超えて周辺諸公領にまで浸透していく。この段階で、ロストーフ公領からロストーフ=スーズダリ公領、ヴラディーミル=スーズダリ公領、そしてヴラディーミル大公領として続いてきた北東ルーシの歴史は終わったと言うべきだろう。
ヴラディーミル公 князь Владимирский
ヴラディーミル Владимир は、モスクワの東方にあるクリャージマ(ヴォルガ支流)河畔の都市(ロシア連邦ヴラディーミル州州都)。
ヴラディーミルと呼ばれるキエフ・ルーシの主要な都市にはヴラディーミル=ヴォルィンスキイもあるため、区別する上でこちらはヴラディーミル=ナ=クリャージメと呼ばれることもある(が一般的ではない)。
ヴラディーミル・モノマーフによって1108年に建設されたとされる。北東ルーシの古都ロストーフやスーズダリのボヤーリンたちがヴラディーミルを «新興都市» として下に見たことが年代記から読み取れる。
なお、ここでは北東ルーシの支配者を論じるので、厳密にヴラディーミル公にのみ限定しない。
北東ルーシの支配者は、上述のように、元来はロストーフを主都としたロストーフ公であった。しかしロストーフ公が北東ルーシのみを領土として統治した期間はごく短い。聖ボリースはムーロム公領も統治したとされるし、ヴラディーミル・モノマーフはおそらくスモレンスク公領も管轄下においていたと思われる。
ユーリイ・ドルゴルーキイが正確にいつロストーフ公となったかはよくわからないが、かれの時代から北東ルーシの独自の公領としての歴史が始まると言える。しかしすでにかれは古都ロストーフを去り、新都スーズダリ(ここも古くからの都市だが)に移る。
ユーリイ・ドルゴルーキイは1149年以降南ルーシに進出し、北東ルーシには息子を残している。父の死後正式に北東ルーシの支配者となったアンドレイ・ボゴリューブスキイは、主都をヴラディーミルに遷した。ロストーフもスーズダリも古くからの都市であり、貴族勢力が強かったことを嫌ったためだと言われる。それかあらぬか、アンドレイ・ボゴリューブスキイ死後ロスティスラーヴィチ兄弟が北東ルーシの支配者となった際には、貴族たちは兄のムスティスラーフ無眼公を古都ロストーフに、弟のヤロポルクを新都ヴラディーミルに招いている。しばしば弟がヴラディーミル大公位を継いだかの記述がなされるが、それは正確ではあるまい。この時の争乱を勝ち抜いたフセーヴォロド大巣公がヴラディーミルを主都とし、ヴラディーミルの北東ルーシの中心地としての地位は確立した。
北東ルーシの支配者がいつから大公を自称するようになったかはよくわからない。タティーシチェフは父の死後すぐにアンドレイ・ボゴリューブスキイが自称したとしているが、カラムジーンは1169年にキエフを占領した後にアンドレイ・ボゴリューブスキイが真の «ロシアの大公» になったとしている。
南ルーシでは少なくともモンゴルの襲来まではキエフ大公の権威は残っていたし、モンゴル襲来後はヴラディーミル公の権威は南ルーシには及ばなかったので、全キエフ・ルーシの宗主権者という意味でならヴラディーミル公が大公になったことはない、と言える。
また群小の分領諸公の宗主という意味でなら、北東ルーシが分領に細分化された13世紀以降にならないと大公の実はない。
しかしすでにノーヴゴロドの公を輩出し、ムーロム=リャザニ諸公を従属下に置き、さらにスモレンスク諸公やチェルニーゴフ諸公とも友好関係を維持して(時には従属させて)キエフを押さえたアンドレイ・ボゴリューブスキイが、自ら全ルーシの第一人者としての自負から大公を名乗ったとしてもおかしくはない。
アンドレイ・ボゴリューブスキイとフセーヴォロド大巣公は、自らキエフ大公になろうとしなかったものの、キエフに対する影響力を保持し、それどころか全キエフ・ルーシ的に大きな影響力を保った。このふたりの治世で、ヴラディーミル公(大公)の権威は確立した。
しかしフセーヴォロド大巣公の死後、北東ルーシは無数の分領に分割される。分領への細分化はほかの公領でも見られたことだが、北東ルーシにおける特徴は、ヴラディーミル大公が宗主としての地位を確保できた点にあろう。ムーロム=リャザニ公領ではリャザニ公はムーロム公から事実上独立したし、ポーロツク公領ではヴィテブスク公位をスモレンスク公に奪われたりしている。セーヴェルスカヤ・ゼムリャーでもモンゴル襲来後はチェルニーゴフ公の権威は失われている。北東ルーシと同様、中心となる公が権威を保持し得たのはガーリチ=ヴォルィニ公領とスモレンスク公領だけであろうが、どちらも分領に細分化されること自体がなかった。
ヴラディーミル大公位を巡る一族間の内紛は、細かく見ると、1212年〜16年、1248年〜52年、1281年〜92年と断続的に発生した。しかしこのような内紛にもかかわらず、北東ルーシ、あるいはヴラディーミル大公の発展、勢力拡大は続いた。その際、特に1299年にキエフ府主教がヴラディーミルに居を移した(これによりヴラディーミル府主教となる)ことが大きいだろう。
ただし、都市ヴラディーミル自体は必ずしも順調に発展したとは言えない。1238年にモンゴルに攻略されたこととは無関係に、13世紀の歴代ヴラディーミル大公の中には、ペレヤスラーヴリ=ザレスキイに居を構えた者も多かったし、のち14世紀に入ると、トヴェーリ公もモスクワ公もヴラディーミル大公となってもトヴェーリやモスクワに居住し続けている。
14世紀に入ると、ヴラディーミル大公位を巡る争いはトヴェーリ公とモスクワ公とにしぼられた。図式的には、モスクワ公はキプチャク・ハーンと結ぶことで、これに対抗するようにトヴェーリ公はキプチャク・ハーンに敵対することで、勢力の拡大を図る。
しかしトヴェーリ系でさらなる分領への細分化の結果内紛が起こったのに対して、モスクワ系では内紛が起こらなかった。その他さまざまな要素も重なり、すでに14世紀後半にはモスクワ公がトヴェーリ公に対する優位を確保している。結局、ドミートリイ・ドンスコーイ以降、ヴラディーミル大公位は事実上モスクワ公が世襲するようになり、ヴラディーミル大公という称号自体が消えうせてモスクワ大公という称号に吸収された。
この時期には分領諸公に対する宗主権も、ヴラディーミル大公の権威からは失われている。ドミートリイ・ドンスコーイが北東ルーシ諸公を動かしたのは、かれがヴラディーミル大公だったからではなく、それだけの実力を持っていたからと言うべきだろう。こうして14世紀に北東ルーシは急速に国家としての実態を失い、各分領が直接的にモスクワ公に従属するようになっていった。
早くも1326年にはヴラディーミル府主教はモスクワに居を移した(以後モスクワ府主教という)。北東ルーシを統治する国家としてのロストーフ公領、ロストーフ=スーズダリ公領、ヴラディーミル=スーズダリ公領、ヴラディーミル大公領の歴史は、こうして幕を閉じた。
なお、歴代のモスクワ大公、ツァーリ、ロシア皇帝は、最後の皇帝ニコライ2世にいたるまで、正式にはヴラディーミル大公を名乗り続けた。
ロストーフ公 князь Ростовский | ||||
987-1010 | 5 | ヤロスラーフ賢公 | リューリコヴィチ | (ヴラディーミル偉大公の子) |
1010-15 | 5 | 聖ボリース | リューリコヴィチ | 弟 |
1066-73 | 7 | ヴラディーミル・モノマーフ | モノマーシチ | (ヤロスラーフ賢公の孫) |
1095 | 8 | ムスティスラーフ偉大公 | モノマーシチ | 子 |
1096-1113 | 8 | ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 弟 |
ロストーフ=スーズダリ公 князь Ростово-Суздальский / スーズダリ公 князь Суздальский | ||||
1113-49 | 8 | ユーリイ・ドルゴルーキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1149-54 | 9 | ヴァシリコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1154-55 | 9 | ミハルコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1155-57 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 兄 |
ヴラディーミル=スーズダリ公 князь Владимиро-Суздальский / ヴラディーミル公 князь Владимирский | ||||
1157-69 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | |
ヴラディーミル大公 великий князь Владимирский | ||||
1169-75 | 9 | アンドレイ・ボゴリューブスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | |
1175 | 9 | ミハルコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟/再任 |
1175-76 | 10 | ムスティスラーフ無眼公(ロストーフ公) & ヤロポルク・ロスティスラーヴィチ(ヴラディーミル公) | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(ロスティスラーフ・ユーリエヴィチの子) |
1176-77 | 9 | ミハルコ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 叔父/再任 |
1177-1212 | 9 | フセーヴォロド大巣公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1212-16 | 10 | ユーリイ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1216-18 | 10 | コンスタンティーン賢公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 兄 |
1218-38 | 10 | ユーリイ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟/再任 |
1238-46 | 10 | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1246-48 | 10 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1248 | 11 | ミハイール・ホローブリト | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(ヤロスラーフ・フセヴォローディチの子) |
1248-50 | 10 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 叔父/再任 |
1250-52 | 11 | アンドレイ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/スーズダリ系) | 甥(ヤロスラーフ・フセヴォローディチの子) |
1252-63 | 11 | キエフ大公アレクサンドル・ネフスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 兄 |
1264-72 | 11 | トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 弟 |
1272-76 | 11 | コストロマー公ヴァシーリイ・ミジンヌィイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1276-81 | 12 | ペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(アレクサンドル・ネフスキイの子) |
1281-84 | 12 | ゴロデーツ公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1284-92 | 12 | ペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 兄/再任 |
1292-1304 | 12 | ゴロデーツ公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟/再任 |
1304-19 | 12 | トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 従兄弟(ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1319-22 | 13 | モスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (アレクサンドル・ネフスキイの孫) |
1322-25 | 13 | トヴェーリ公ドミートリイ雷眼公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | (ミハイール・ヤロスラーヴィチの子) |
1325-27 | 13 | トヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 弟 |
1328-41 | 13 | モスクワ公イヴァン1世・カリター | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ユーリイ・ダニイーロヴィチの弟) |
1341-53 | 14 | モスクワ公セミョーン傲慢公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
1353-59 | 14 | モスクワ公イヴァン2世赤公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 弟 |
1359-63 | 14 | スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/スーズダリ系) | (アンドレイ・ヤロスラーヴィチの曾孫) |
1363-89 | 15 | モスクワ公ドミートリイ・ドンスコーイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (イヴァン2世赤公の子) |
1389- | (以後、歴代モスクワ大公、ツァーリ、ロシア皇帝) |
ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский
ペレヤスラーヴリ Переяславль (現名ペレスラーヴリ=ザレスキイ Переславль-Залесский)は、ヤロスラーヴリとモスクワの中間に位置する都市(ロシア連邦ヤロスラーヴリ州)。
1152年にユーリイ・ドルゴルーキイにより建設され、南ルーシのペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィー)にちなんでペレヤスラーヴリと名づけられた。ペレヤスラーヴリ(=ユージュヌィー)と区別するため、こちらはペレヤスラーヴリ=ザレスキイと呼ばれていた(「森の向こうの」の意)。なお、古名と現在の名とでは微妙に違っている。古名はどちらもペレヤスラーヴリだが、現在の名は、ユージュヌィーはペレヤースラフ、ザレスキイはペレスラーヴリである。
フセーヴォロド大巣公の死で分領となったが、ヤロスラーフ、アレクサンドル、ドミートリイとペレヤスラーヴリを相続した直系の3代が相次いでヴラディーミル大公となっており、そのため歴代ヴラディーミル大公の所在地(事実上の主都)であった。1238年、モンゴルにより攻略されている。
1302年、モスクワ公領に併合される。モスクワ公が最初に獲得した領土となった。
1176-77 | 9 | フセーヴォロド大巣公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1212-38 | 10 | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1238-63 | 11 | アレクサンドル・ネフスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1263-94 | 12 | ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1294-1302 | 13 | イヴァン・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1302-03 | 13 | ユーリイ・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(モスクワ系) | 従兄弟 |
1303- | 13 | イヴァン・カリター | モノマーシチ(モスクワ系) | 弟 |
1379-88 | ─ | ドミートリイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
ユーリエフ=ポリスキイ公 князь Юрьев-Польский
ユーリエフ=ポリスキイ Юрьев-Польский はヴラディーミル北西の都市(ロシア連邦ヴラディーミル州)。
1152年、ユーリイ・ドルゴルーキイにより建設された。エストニアのユーリエフ(現タルトゥ)やキエフ南方のユーリエフ(現ベーラヤ・ツェールコフィ)と区別するため、ユーリエフ=ポリスキイ(草原のユーリエフ)と呼ばれた。
フセーヴォロド大巣公の死後、分領となる。1238年、1382年、1408年と3度にわたりモンゴルの攻略を受ける。1340年、モスクワ公領に併合される。
1213-28 | 10 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の子) |
1248-52 | 10 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1252-69 | 11 | ドミートリイ・スヴャトスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1269- | 12 | ヤロスラーフ・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1340頃 | 13 | イヴァン・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
スタロドゥーブ公 князь Стародубский
スタロドゥーブ Стародуб はヴラディーミルの北東、クリャージマ河畔にあった都市(ロシア連邦ヴラディーミル州)。現存しない。
ヴラディーミル大公領の分領として成立。最小の分領のひとつであった。1370年代ないし80年代にモスクワ大公領に併合される。ただし、その後も存続したとの文献もある。スタロドゥーブが分領として残ったのかどうかの問題だが、歴代スタロドゥーブ公は事実上モスクワ大公の勤務公となっている。
アンドレイ・フョードロヴィチ、フョードル・アンドレーエヴィチ、フョードル・フョードロヴィチそれぞれの子から、多数の分家が生じている。すなわちポジャールスキイ、リャポロフスキイ(ヒルコーフ、ターテフ)、パレツキイ(グンドロフ、トゥルポフ)、ロモダーノフスキイ、ゴリベソフスキイ(ガガーリン、ネボガートィー)、クリヴォボルスキイ、リヤロフスキイ、コヴローフである。これらの家系はいずれも公の称号を認められており、ということはつまり分領公と見なされていたということだろうが、かれらの分領についてはほとんどわかっていない。
いずれにせよ、スタロドゥーブが1380年代以降も分領として存続したとしても、このように細分化されては分領としての実体を失くしていたと見ていいだろう。なおヴラディーミル・フョードロヴィチには子がなかったため、スタロドゥーブスキイ公家はここで断絶した。しかし分家の末裔はロシア帝国でも貴族として栄えた。
1217-27 | 10 | ヴラディーミル・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の子) |
1237-47 | 10 | イヴァン・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1247-81 | 11 | ミハイール・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1281-1315 | 12 | イヴァン・カリストラート | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1315-30 | 13 | フョードル篤信公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1330-55 | 14 | ドミートリイ・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1355-63 | 14 | イヴァン・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1370-80s | 14 | アンドレイ・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
15 | フョードル・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 | |
16 | フョードル・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 | |
17 | ヴラディーミル・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
コストロマー公 князь Костромский
コストロマー Кострома はモスクワの北東に位置するヴォルガ河畔の都市(ロシア連邦コストロマー州州都)。
1152年、ユーリイ・ドルゴルーキイにより建設されたとされる。年代記上の初出は1213年、ロストーフ公コンスタンティーン賢公が、自身に属するコストロマーが弟ユーリイ・フセヴォローディチを支持したとして焼き打ちしたという。1216年、コンスタンティーン賢公がコストロマーを長男ヴァシリコに与えたが、この時点ではまだ分領となったわけではない。モンゴルが襲来した際の運命は不明。
1246年、ヴァシーリイ・ミジンヌィーの領土として分領となる。1272年、ヴァシーリイはヴラディーミル大公となるが、依然コストロマーに居住した。続くアンドレイ・アレクサンドロヴィチはゴロデーツを本拠とし、さらにのちにはヴラディーミル大公となっていて、コストロマー公領は独自の公領として発展できなかった。
13世紀末には、アンドレイ・アレクサンドロヴィチとその兄ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ(その子イヴァン・ドミートリエヴィチ)との権力争いの中で、その運命は翻弄される。1304年、アンドレイ・アレクサンドロヴィチの死でモスクワ公に併合されるが、すぐさまトヴェーリ公に占領された。1364年、最終的にモスクワ公領に併合される。
1247-76 | 11 | ヴァシーリイ・ミジンヌィイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の孫) |
1276-93 | 12 | アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(アレクサンドル・ネフスキイの子) |
1293-96 | 13 | イヴァン・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(ドミートリイ・アレクサンドロヴィチの子) |
1296-1304 | 12 | アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 叔父/再任 |
1304 | 13 | ボリース・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 甥 |
ガーリチ・メールスキイ公 князь Галича Мерского / князь Галичский
ガーリチ・メールスキイ Галич Мерский (現名ガーリチ Галич)はコストロマー北東の都市(ロシア連邦コストロマー州)。
南西ルーシのガーリチと区別するため、ガーリチ・メールスキイと呼ばれた。ここは元来ウラル系メーリャ人の土地であり、«メールスキイ» は «メーリャ人の» を意味する。公式には1158年にユーリイ・ドルゴルーキイにより建設されたとされる。もっとも、1158年の時点ではユーリイ・ドルゴルーキイは死んでいた。
1238年のモンゴル襲来で破壊された(とされる)。しかしすぐに復興し、13世紀初頭に分領となった。この時点では、モスクワなどよりも富強な都市とされていたようだ。ガーリチ公領はドミートロフなども領有し、独自の公家も戴いて発展した。しかし1335年までにはガーリチ・メールスキイとドミートロフは分裂している。14世紀にトヴェーリ公を支援してモスクワ公と敵対したため、1363年、モスクワ公領に併合される。
1247-55 | 11 | コンスタンティーン・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の孫) |
1255-80 | 12 | ダヴィド・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1280-1310 | 12 | ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
-1335 | 13 | フョードル・ダヴィドヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥(ダヴィドの子) |
1335-54 | 14 | イヴァン・フョードロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1354-63 | 15 | ドミートリイ・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1389-1433 | 16 | ユーリイ・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1433-50 | 17 | ドミートリイ・シェミャーカ | モノマーシチ(モスクワ系) | 子 |
ドミートロフ公 князь Дмитровский
ドミートロフ Дмитров はモスクワ北方の都市(ロシア連邦モスクワ州)。
1154年、ユーリイ・ドルゴルーキイにより建設された。ペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公領の成立とともにその一部に組み込まれ、ガーリチ=メールスキイ公領ができるとそちらに移された(ガーリチ=ドミートロフ公領とも呼ばれる)。その後、1334年までに独立の分領となる。1364年、モスクワ大公領に併合される。
-1334 | 13 | ボリース・ダヴィドヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ガーリチ公ダヴィド・コンスタンティーノヴィチの子) |
1334- | 14 | ドミートリイ・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1389-1428 | 16 | ピョートル・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1462-73 | 18 | ユーリイ・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(モスクワ系) | (ヴァシーリイ2世盲目公の子) |
1506-36 | 19 | ユーリイ・イヴァーノヴィチ | モノマーシチ(モスクワ系) | 甥(イヴァン3世大帝の子) |