10世紀後半にピャスト家がポラニェ族をまとめ、周辺諸部族を統一して、こんにちのポーランドの基礎ができた。その後周辺に勢力を拡大するが、ボレスワフ3世唇曲王の死後、その諸子により分割される。以後、ピャスト家の諸公がポーランドを細分化し、かつクラクフの王位を巡って互いに争うという、キエフ・ルーシの情勢がほぼそのまま再現されることになる。
キエフ・ルーシと違ったのは、細分化がキエフ・ルーシほど進まなかったこと、そして何より14世紀初頭には再統一が達成されたことである。その勢いを駆ってガーリチ・ヴォルィニをも勢力圏に収めた。
ピャスト家の断絶後、ハンガリーのアンジュー家を経て、リトアニアのヤギェウォ家を王家に迎える。以後、およそ100年にわたりポーランドとリトアニアは不安定な関係を続けるが、アレクサンデルの時代から同君連合(同じ君主を戴く別々の国)として定着。やがてヤギェウォ家断絶の直前になって、正式に «連合国家» となった。
当初はセイム(国会)もそれぞれが有していたが、やがてひとつに統合される。リトアニア貴族もポーランド化し、«ポーランド=リトアニア連合王国» は事実上ポーランド王国となっていった。
なお、連合に際してウクライナがリトアニアからポーランドに譲渡されている。
ヤギェウォ家が断絶すると、ポーランド=リトアニアは «選挙王制» の時代に入る。スウェーデンのヴァーザ家が一旦世襲王朝を復活させるが、それも長続きしなかった。
このような中、貴族たちの発言権が増大。事実上 «貴族による共和国» となっていく。
しかしそれもあって、国力は徐々に低下。17世紀末以降、貴族たちはスウェーデン派、フランス派、ロシア派、オーストリア派、プロイセン派などに分かれ、ポーランド=リトアニアは周辺列強の内政干渉に不断にさらされることになる。
特に力を持ったのがロシアで、スウェーデン(フランス)の推すレシチニスキを排してザクセン選帝侯を王位につけ、オーストリア、プロイセンと結んで国政を壟断した。ポニャトフスキは貴族の特権を廃して中央集権的絶対王政を樹立しようとするが、ロシアの圧力とそれにおもねる貴族たちによって挫折。三度にわたる «ポーランド分割» の結果、1795年にポーランド=リトアニアは地上から姿を消した。
1807年、ナポレオンが、主にプロイセンとオーストリアの取り分からワルシャワ公国を建てるが、ナポレオンの没落とともに消滅。ヴィーン会議でポーランド王国がつくられ、ロシア皇帝がポーランド王を兼ねることになった。
在位年 | 名 | 血縁関係 |
---|---|---|
960-992 | ミェシュコ1世 | |
992-1025 | ボレスワフ1世勇敢王 | 子 |
1025-31 | ミェシュコ2世 | 子 |
1031-32 | ベスプルィム | 兄 |
1032-34 | ミェシュコ2世 | (再登位) |
1034-58 | カジミェシュ1世再建王 | 子 |
1058-79 | ボレスワフ2世大胆王 | 子 |
1079-1102 | ヴワディスワフ1世・ヘルマン | 子 |
1102-07 | ズビグニェフ1世 | 子 |
1102-38 | ボレスワフ3世曲唇王 | 弟 |
1138-46 | ヴワディスワフ2世亡命王 | 子(シロンスク公) |
1146-73 | ボレスワフ4世縮毛王 | 弟(マゾフシェ公) |
1173-77 | ミェシュコ3世年長王 | 弟(ヴィェルコポルスカ公) |
1177-91 | カジミェシュ2世正義王 | 弟(サンドミェシュ公) |
1191 | ミェシュコ3世年長王 | (再登位) |
1191-94 | カジミェシュ2世正義王 | (再登位) |
1194-99 | レシェク1世白髪王 | 子(サンドミェシュ公) |
1199-1202 | ミェシュコ3世年長王 | (再登位) |
1202 | ヴワディスワフ3世細脚王 | 子(ヴィェルコポルスカ公) |
1202-27 | レシェク1世白髪王 | (再登位) |
1227-28 | ヴワディスワフ3世細脚王 | (再登位) |
1128-29 | ヘンリク1世美髭王 | (シロンスク公) |
1229-32 | コンラート1世 | (マゾフシェ公) |
1232-38 | ヘンリク1世美髭王 | (再登位) |
1238-41 | ヘンリク2世敬虔王 | 子(シロンスク公) |
1241-43 | コンラート1世 | (再登位) |
1243-79 | ボレスワフ5世童貞王 | 甥(サンドミェシュ公) |
1279-88 | レシェク2世腹黒王 | 従兄弟(クヤヴィ公) |
1288-90 | ヘンリク4世誠実王 | (シロンスク公) |
1290-96 | プシェムィスワフ2世 | (ヴィェルコポルスカ公) |
1291-1305 | ヴァツワフ1世 | (ボヘミア王ヴァーツラフ2世) |
1305-1306 | ヴァツワフ2世 | (ボヘミア王ヴァーツラフ3世) |
1305-33 | ヴワディスワフ1世短躯王 | (クヤヴィ公) |
1333-70 | カジミェシュ3世大王 | 子 |
1370-82 | ルドヴィク・ハンガリー人王 | 甥(ハンガリー王ラヨシュ大王) |
1383-99 | ヤドヴィガ | 子 |
1386-1434 | ヴワディスワフ2世・ヤギェウォ | 夫(リトアニア大公ヨガイラ) |
1434-44 | ヴワディスワフ3世・ヴァルネンチク | 子 |
1446-92 | カジミェシュ4世・ヤギェウォンチク | 弟 |
1492-1501 | ヤン1世・オルブラフト | 子 |
1501-06 | アレクサンデル | 弟 |
1506-48 | ジグムント1世年長王 | 弟 |
1548-72 | ジグムント2世・アウグスト | 子 |
1573-75 | ヘンリク・ヴァレジ | (フランス王アンリ3世) |
1576-86 | ステファン・バトーリ | (トランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン) |
1587-1632 | ジグムント3世 | (スウェーデン王シギスムンド) |
1632-48 | ヴワディスワフ4世・ヴァーザ | 子 |
1648-68 | ヤン2世・カジミェシュ | 弟 |
1669-73 | ミハウ・ヴィシュニョヴィェツキ | |
1674-96 | ヤン3世・ソビェスキ | |
1697-1704 | アウグスト2世強壮王 | (ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世) |
1704-09 | スタニスワフ・レシチニスキ | |
1709-33 | アウグスト2世強壮王 | (再登位) |
1733-36 | スタニスワフ・レシチニスキ | (再登位) |
1733-63 | アウグスト3世 | (ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世) |
1764-95 | スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ | |
1807-15 | フリデリク・アウグスト | (ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世) |
1815- | (歴代ロシア皇帝) |
ちなみに、正式には «王 król Polski/король Польши» の称号は、14世紀以前は断続的にローマ教皇や神聖ローマ皇帝から認められただけで、通常は «公 książę(ラテン語で princeps)» であった。王の称号が定着するのは1320年以降。
フレデリク・アウグストの称号は «ワルシャワ公 książę warszawski»。
1815年以降は、ロシア語では Король Польши ではなく Царь Польский。