ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主ルーシ諸公

ルーシ諸公

ペレヤスラーヴリ公領

一般的に独立の公領として扱われるが、個人的にはキエフ公領の一部と見た方がいいように思う。歴代の公のリストを見てみると、スモレンスクやチェルニーゴフやガーリチなどの «独立の» 公位との類似性よりも、ヴィーシュゴロドやベールゴロドといったキエフ公領の分領公位との類似性が強い。

 中心都市ペレヤスラーヴリはキエフに程近いドニェプル河畔の都市。ドニェプルの東岸にあり、ペレヤスラーヴリ公領はドニェプル東岸を北のチェルニーゴフ公領と南北に分け合っている。その境界は、おそらくキエフより少し北寄りに、ほぼ真横に引かれている。
 こんにちの地図では、ドニェプル東岸のキエフ州とチェルカッスィ州、チェルニーゴフ州とスームィ州の南端、ポルターヴァ州、ハリコフ州の一部に相当する。東方の現ロシア領、また南方については、その時々の遊牧民族との力関係によって変動があったようだ。

 その位置からして、ペチェネーグ人やポーロヴェツ人など、テュルク系の遊牧諸民族との戦いの最前線として、キエフ・ルーシ防衛の任にあたった。
 しかし、新たな都市が建設されたり、分領が設けられたり、といった、南方に領土を拡大していった証拠も見られない。それどころか、ペチェネーグ人やポーロヴェツ人はしばしばチェルニーゴフやキエフに攻め込んでおり、ペレヤスラーヴリ公領が «緩衝地帯» として、最前線拠点としての役割をどの程度果たせていたのか、疑問。
 これはひとつには、ペレヤスラーヴリの公位がキエフ大公に左右され、独自の公領としての体裁を整えることができなかったことにもよるだろう。主都ペレヤスラーヴリがキエフの近郊にあり、どうしても東方や南方には目が向かなかったのだろう。
 それでも12世紀後半、グレープ・ユーリエヴィチとヴラディーミル・グレーボヴィチの父子が30年にわたって支配した時代は、あるいは独自の公領として成立する最大の機会だったかもしれない。特にヴラディーミル・グレーボヴィチは対ポーロヴェツ戦で名を馳せ、ペレヤスラーヴリ公領の勢力も南方に大きく伸長した。しかしヴラディーミル・グレーボヴィチにも、続くヤロスラーフ赤公にも子がなく、公位が安定的に継承されることがなかった。

 ちなみにペレヤスラーヴリ公領には分領が存在しない(ゴロデーツは例外)。これはひとつには、独自の公家が存在しなかったことにもよる。各公領では公家の一族に領土が分与されることで分領が成立したが、ペレヤスラーヴリではそもそもペレヤスラーヴリ公自身が外部の有力諸公の一族であり、そのためキエフ大公に «昇格» した例以外にも、本領(ヴォルィニとかスモレンスクとかヴラディーミルとか)を継ぐためにペレヤスラーヴリ公位を棄てる例がある(このような例はほかの公領ではまず見られない)。

 モンゴルの襲来で事実上崩壊。公家として根付くかに思われたヴラディーミル系は本領に引き上げ、北隣のチェルニーゴフ系も北部に引きこもり、廃墟と化したペレヤスラーヴリ公領には誰も興味を示さず、キエフ公領と同様に英語で言う «No-man's land(無主の地)» となった。最終的には1362年にリトアニアに併合されている。

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ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский

 ペレヤスラーヴリ Переяславль (現名ペレヤースラフ=フメリニツキイ Переяслав-Хмельницкий)はキエフ南東のドニェプル河畔の都市(ウクライナ共和国キエフ州)。
 北方のペレヤスラーヴリ=ザレスキイと区別するため、しばしばペレヤスラーヴリ・ユージュヌィイ Переяславль Южный (南方のペレヤスラーヴリ)と呼ばれる。
 ちなみにルーシにはもうひとつ著名なペレヤスラーヴリがあり、こちらはペレヤスラーヴリ=リャザンスキイと呼ばれた(現在のリャザニ)。

 キエフのごく近郊にあり、992年にその南面の防衛拠点として要塞が建てられている。以後、ペチェネーグ人、ポーロヴェツ人との戦いの最前線として、重要な役割を担った。
 キエフに程近かったことから、歴代のキエフ大公がその近親者をペレヤスラーヴリ公とした。特にフセーヴォロド・ヤロスラーヴィチ、ヴラディーミル・モノマーフ、ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチと、ペレヤスラーヴリ公からキエフ大公に «昇格» する例が見られ、そのため12世紀前半にはペレヤスラーヴリ公位が格段に重要性を持った。ペレヤスラーヴリ公は、言わば «次期キエフ大公» と見られ、その公位を巡り争いが起こったほどである。
 その頃はモノマーシチが公位を独占していたが、やがてモノマーシチはいくつかの系統に分裂し内紛を始める。結果的にここを «ヴォーッチナ(父祖の地)» として世襲する系統は生まれず、公位はキエフ大公位と同様に諸勢力間の力関係に左右された。
 それでもヴラディーミル系がスモレンスク系やオーリゴヴィチを圧倒し、ここに定着するかと思われた矢先、モンゴルの襲来(もっともヴラディーミル系でも父子相続がされた例は1件しかなく、独自の公家は生まれなかった)。ヴラディーミル系は北東ルーシに引き上げ、ペレヤスラーヴリ公は途絶える。

 1239年、モンゴルに破壊され、1363年にリトアニアに併合された。

 1654年、偉大なアタマン、ボグダーン・フメリニーツキイがここでザポロージエ・コサックの会議を開いた。これを記念して、1943年に現在の名に変更された。

1054-736フセーヴォロド・ヤロスラーヴィチモノマーシチキエフ大公ヤロスラーフ賢公の子
1078-937ロスティスラーフ・フセヴォローディチモノマーシチ
1094-11137ヴラディーミル・モノマーフモノマーシチ
1113-148スヴャトスラーフ・ヴラディーミロヴィチモノマーシチ
1114-328ヤロポルク・ヴラディーミロヴィチモノマーシチ
11329イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチモノマーシチ(ヴォルィニ系)甥(ムスティスラーフ偉大公の子)
1132-348ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチモノマーシチ叔父
11358ユーリイ・ドルゴルーキイモノマーシチ(ヴラディーミル系)
1135-418アンドレイ善良公モノマーシチ
11428ヴャチェスラーフ・ヴラディーミロヴィチモノマーシチ兄/再任
1142-469イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチモノマーシチ(ヴォルィニ系)甥/再任
1146-4910ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチモノマーシチ(ヴォルィニ系)
1149-509ロスティスラーフ・ユーリエヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル系)(ユーリイ・ドルゴルーキイの子)
1151-5510ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチモノマーシチ(ヴォルィニ系)再任
1155-699グレーブ・ユーリエヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル系)(ユーリイ・ドルゴルーキイの子)
1169-8710ヴラディーミル・グレーボヴィチモノマーシチ(ヴラディーミル系)
1187-9910ヤロスラーフ赤公モノマーシチ(ヴラディーミル系)従兄弟(ムスティスラーフ・ユーリエヴィチの子)
1201-0610ヤロスラーフ・フセヴォローディチモノマーシチ(ヴラディーミル系)従兄弟(フセーヴォロド大巣公の子)
120611ミハイール・フセヴォローディチオーリゴヴィチ(チェルニーゴフ系)(チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公の子)
1206-1311ヴラディーミル・リューリコヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)(スモレンスク公リューリク・ロスティスラーヴィチの子)
1213-1510ヴラディーミル・フセヴォローディチモノマーシチ(ヴラディーミル系)(フセーヴォロド大巣公の子)
122711フセーヴォロド・コンスタンティーノヴィチモノマーシチ(ロストーフ系)(ロストーフ系始祖コンスタンティーン賢公の子)
1228-3810スヴャトスラーフ・フセヴォローディチモノマーシチ(ヴラディーミル系)叔父(フセーヴォロド大巣公の子)
-123911ヴラディーミル・リューリコヴィチモノマーシチ(スモレンスク系)再任

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ゴロデーツ公 князь Городецкий

 ゴロデーツ Городец (現名オステョール Остер)はキエフの北部、デスナー河畔の都市(ウクライナ共和国チェルニーゴフ州)。キエフ公領、チェルニーゴフ公領との境目に位置する。
 キエフ・ルーシにはゴロデーツという名の都市が無数にあったため、ほかと区別するためにしばしばゴロデーツ=オステョールスキイ Городец-Остерский と呼ばれる(オステョールとは本来デスナーの支流の名前)。

 ペレヤスラーヴリ自身がキエフ公領の分領のような存在だったためか、ゴロデーツ公領もペレヤスラーヴリ公領の分領と言うよりはキエフ公領の分領というような位置づけである。
 たとえば1142年にはキエフ大公フセーヴォロド・オーリゴヴィチから弟イーゴリ・オーリゴヴィチに与えられている(時のペレヤスラーヴリ公は関与していない)。
 また1148年にはキエフ大公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチからロスティスラーフ・ユーリエヴィチに与えられ、以後ユーリイ・ドルゴルーキイ(ロスティスラーフの父)の領土となり、ユーリイ・ドルゴルーキイが北東ルーシに去っても領有を認められていた。その後ユーリイ・ドルゴルーキイの子孫がペレヤスラーヴリ公位をほぼ独占したため、ゴロデーツ公領もペレヤスラーヴリ公領に吸収された形となった。

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最終更新日 17 01 2013

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