ノーヴゴロド公領
ノーヴゴロドは、キエフ・ルーシを大きく分割する10いくつの公領のひとつ。しかし通常はノーヴゴロド公領ではなく «ノーヴゴロド共和国 Новгородская республика» と呼ばれる。
東はロストーフ(ヴラディーミル)公領、南はスモレンスク公領とポーロツク公領と接しているが、西にはリーヴ人、レット人、エスト人、チューディ人などの住むリヴォニア(現エストニア・ラトヴィア)、そして北には広大な北極圏の森と湖が広がる。
現在の地図で言うと、大雑把にヨーロッパ・ロシアの北部一帯を支配していたと言える。核となっているのは言うまでもなくノーヴゴロド州。これにプスコーフ州とトヴェーリ州(ただし州都トヴェーリは除く)、レニングラード州が含まれる。さらに時代を経ると、カレリア共和国、ムールマンスク州、ヴォーログダ州(これまた州都ヴォーログダは除く)、アルハンゲリスク州、キーロフ州、コミ共和国、ペルミ州からウラルを越えてシベリアへと、その勢力圏は広がっていく。
キエフ・ルーシ最初の国家がリューリクの建てたノーヴゴロドであったか否かはともかく、ノーヴゴロド公領が最初期の国家のひとつであったことは間違いない。キエフ・ルーシに組み込まれた後も、しばしば独自の公が派遣されている。
988年以降公の存在が途切れることはないので、988年をもってノーヴゴロド公領が成立したと言っていいだろう。しかし南方のスモレンスク公領や、東方のロストーフ(ヴラディーミル)公領との国境が確定するのは、それら自身の確立した12世紀初頭になってからである。
しかしまさにその12世紀初頭、ノーヴゴロドはキエフ・ルーシの勢力圏から離れた事実上の独立国家となり(1136年のフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ追放がひとつの画期となる)、リューリク家の支配を排した独特な貴族共和政的都市国家として発展。公は近隣諸国からの雇われ公で、実権は与えられなかった。このため、キエフ・ルーシのほかの公領と違い、独自の公家を持たず、その結果公領が公家の成員によって分割され細分化される事態を免れることができた。確かにプスコーフ、トルジョーク、ラードガなどが分領として存在したが、プスコーフを除けば、外敵の侵攻に備えるための臨時のものである。
ノーヴゴロド共和国は同時に周辺に広く勢力を拡大した。核となる部分を越えて北方、東方において北極圏に領土を獲得したのもまさにこの時期である。この広大な属州 «ノヴゴローツカヤ・ゼムリャー Новгородская земля» からの毛皮を元手に、ハンザ都市と盛んな交易を行った(1200年頃にはハンザ同盟の商館が存在していた)。
しかし台頭する市民階級も政治権力の掌握には至らず、属州農村を所有する古い地主貴族層が寡頭支配を続けた。もっとも、国家の最高機関であった «ヴェーチェ вече(民会)» それ自体の仕組みや構成はともかくとして、一般市民が大きな影響力を持ったことは疑いない。
13世紀に入ると、西方からスウェーデン、デンマーク、ドイツが東方への本格的な進出を開始。フィンランドはスウェーデン、エストランドはデンマーク、リヴォニアはドイツ人の領土となる。ノーヴゴロド共和国はこれらの東進を食い止める役割を負っていた。それが1240年のネヴァ河の戦いと、1242年のチューディ湖の戦いである。この時期はまた、南西でリトアニアが勢力を拡大し始めた時期でもある(ポーロツク公領を事実上併合した)。
西欧との関係は対立と戦争ばかりではなく、同時に交易の拡大も伴っていた。上述のように、ハンザ同盟の商館が設置されたのがまさに1200年頃のことであった。
こうした西欧との関係拡大は、より西方にあるプスコーフ公領の台頭を促した。西欧との最前線に立っていたプスコーフ公領は、ノーヴゴロド共和国の中では唯一ほぼ恒常的に公が置かれており、この時期徐々にノーヴゴロド共和国からの独立度を高めていく。最終的な独立は1348年のことであるが、すでにプスコーフ公領(プスコーフ共和国)は13世紀には事実上の独立を果たしていたと言っていい。
他方、東方ではモンゴルが襲来し、キエフ・ルーシはその勢力圏に組み込まれたが、ノーヴゴロド共和国はその襲来を受けず(領土を一部蹂躙されたことはあったが)、キエフ・ルーシの中では唯一独立を維持した。
14世紀、東方のモスクワと西方のリトアニアとのバランスを取りながら独立を維持しようとしたが、早くも14世紀後半にはモスクワへの従属を余儀なくされた。名目的には独立を維持できたが、結局ノーヴゴロド共和国は1478年、プスコーフ共和国は1510年にモスクワに併合される。
ノーヴゴロド公 князь Новгородский
ノーヴゴロド Новгород (現名ヴェリーキー・ノーヴゴロド Великий Новгород)は859年の年代記に現れる、ロシア最古の都市(ロシア連邦ノーヴゴロド州州都)。
すでに9世紀前半には、イリメニ系スラヴャーネ人が、クリヴィチー人やチューディ人とともに共同体を形成。ただし年代記には、リューリクにより建設された、とする記述もある。
リューリクのノーヴゴロド公就任がキエフ・ルーシの歴史の始まりでもあるが、跡を継いだオレーグがキエフに遷都したため、しばらくはノーヴゴロドは独自の公を持たなかった。しかしこれは決してノーヴゴロドの重要性が低下したためではなく、たまたまリューリク家に人がいなかっただけのことである。それが証拠に、ヴラディーミル偉大公以降歴代のキエフ大公は自らの長男をノーヴゴロド公として派遣するようになる(もっとも、実際に長男だったかどうかについては、フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの項を参照のこと)。
その後、ノーヴゴロドはキエフに次ぐルーシ第2の都市となった。特に «ヴァリャーギからギリシャへの道» やヴォルガ水路の中継地として交易で栄え、それに伴い政治的重要性を高めた。
しかし公が時のキエフ大公の思惑で交替させられたり、公がそのままキエフ大公に «昇格» したり、持続性がなく、結局、兄から弟へ、父から子へと公位を排他的に世襲する公家がノーヴゴロドに生まれなかった。このため、土着貴族層が勢力を温存。徐々に公から自立して権力を振るうようになっていく。
上述のように、1136年のフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチの追放を契機に、ノーヴゴロドはリューリク家の私的不動産という地位から脱し、貴族・市民が自立的に支配する国家へと転換した。
特に1136年以降は、ヴォルィニ系、スモレンスク系、ヴラディーミル系の3つのモノマーシチと、チェルニーゴフ系のオーリゴヴィチとが、キエフ大公位(それに付随してノーヴゴロド公位)を巡って争い、ノーヴゴロドはこの対立を利用して独立度を高めていった。しかし同時にノーヴゴロド内部にもそれぞれを支持する党派が形成され、それが内部の混乱を招くことも多々あった。それでもノーヴゴロドの発展は順調に進み、«ヴェーチェ» を中心とした自治も順調に機能して、ノーヴゴロド公は単なる雇われ軍事指導者でしかなくなっていった。アレクサンドル・ネフスキイなどは、まさにその典型と言っていいだろう。
なお、ノーヴゴロドにおける勢力争いでは、ヴォルィニ系が早くに脱落。オーリゴヴィチは元来モノマーシチに対する当て馬でしかなく、12世紀後半は、事実上スモレンスク系とヴラディーミル系との争いとなっていた。そのスモレンスク系も13世紀初頭に没落。以後はヴラディーミル系が覇権を握ることになった。
とはいえヴラディーミル系も、13世紀には複数の系統に分裂。その中から台頭してきたのが、トヴェーリ公とモスクワ公である。
14世紀、次第に強大化するモスクワに対して、ノーヴゴロド共和国はこれと対立するトヴェーリに接近することでバランスを取ろうとしたが、トヴェーリがモスクワに敗北すると、今度はリトアニアとモスクワとの間でバランスを取ろうと試みる。特にモスクワが北東ルーシの覇権を握った14世紀後半以降は、リトアニア大公家の一族を公として招いたり、分領を預けるなどしてモスクワに対抗する。
しかしモスクワの圧迫には抗しきれず、抵抗も失敗に終わった。ノーヴゴロド公位もモスクワ大公が兼ねることとなり、名目化。
1471年、イヴァン大帝に敗北。1478年にはモスクワに併合された。
862-879 | 1 | リューリク | リューリコヴィチ | |
879-882 | ─ | オレーグ | ? | ? |
-912 | 2 | イーゴリ | リューリコヴィチ | (リューリクの子) |
969-977 | 4 | ヴラディーミル偉大公 | リューリコヴィチ | 孫 |
987-1010 | 5 | ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | リューリコヴィチ | 子 |
1010-36 | 5 | ヤロスラーフ賢公 | リューリコヴィチ | 弟 |
1036-52 | 6 | ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ | ガーリチ系 | 子 |
1052-54 | 6 | イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 弟 |
-1067 | 7 | ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 子 |
1069-78 | 7 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | 従兄弟(スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1078-88 | 7 | スヴャトポルク・イジャスラーヴィチ | イジャスラーヴィチ | 従兄弟(イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1088-95 | 8 | ムスティスラーフ偉大公 | モノマーシチ | (ヴラディーミル・モノマーフの子) |
1095 | 7 | ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(ダヴィドヴィチ) | (スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1095-1117 | 8 | ムスティスラーフ偉大公 | モノマーシチ | 再任 |
1117-36 | 9 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ | 子 |
1136-38 | 8 | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/セーヴェルスキイ系) | (オレーグ・ゴリスラーヴィチの子) |
1138-39 | 9 | ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1139-41 | 8 | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーヴィチ | 再任 |
1141 | 9 | ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1142-48 | 9 | スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ | 従兄弟(ムスティスラーフ偉大公の子) |
1148-53 | 10 | ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | 甥(イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1153 | 9 | スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 叔父 |
1154 | 10 | ダヴィド・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 子 |
1154-57 | 9 | ムスティスラーフ・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの子) |
1158-60 | 10 | スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1160-61 | 10 | ムスティスラーフ無眼公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの孫) |
1162-68 | 10 | スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1168-70 | 11 | ロマーン偉大公 | モノマーシチ(ヴォルィニ系) | (ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチの子) |
1170-71 | 10 | リューリク・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1172-75 | 10 | ユーリイ・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (アンドレイ・ボゴリューブスキイの子) |
1175-76 | 11 | スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ムスティスラーフ無眼公の子) |
1177 | 10 | ムスティスラーフ無眼公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 父/再任 |
1177 | 10 | ヤロスラーフ赤公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 従兄弟(ムスティスラーフ・ユーリエヴィチの子) |
1177-78 | 10 | ムスティスラーフ無眼公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 従兄弟/再任 |
1178 | 10 | ヤロポルク・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 従兄弟(ロスティスラーフ・ユーリエヴィチの子) |
1178-79 | 10 | スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1179-80 | 10 | ムスティスラーフ勇敢公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
1180-81 | 10 | ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系) | (スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子) |
1182-84 | 10 | ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | (ヴラディーミル・マーチェシチの子) |
1184-87 | 11 | ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ダヴィト・ロスティスラーヴィチの子) |
1187-96 | 10 | ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 再任 |
1197 | 10 | ヤロポルク・ヤロスラーヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系) | (ヤロスラーフ・フセヴォローディチの子) |
1197-99 | 10 | ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | 再任 |
1200-05 | 10 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の子) |
1205-07 | 10 | コンスタンティーン賢公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 兄 |
1207-10 | 10 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟/再任 |
1210-15 | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ノーヴゴロト公ムスティスラーフ勇敢公の子) |
1215 | 10 | ペレヤスラーヴリ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の子) |
1216-18 | 11 | ムスティスラーフ幸運公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1218-19 | 12 | スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ老公の子) |
1219-21 | 12 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 弟 |
1221 | 11 | フセーヴォロド・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (フセーヴォロド大巣公の孫) |
1221-23 | 10 | ペレヤスラーヴリ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 叔父/再任 |
1223 | 11 | フセーヴォロド・ユーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥/再任 |
1224 | 11 | チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系) | (フセーヴォロド真紅公の子) |
1224-28 | 10 | ペレヤスラーヴリ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1229 | 11 | チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系) | 再任 |
1229-30 | 12 | ロスティスラーフ・ミハイロヴィチ | スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ/チェルニーゴフ系) | 子 |
1230-36 | 10 | ペレヤスラーヴリ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1236-40 | 11 | アレクサンドル・ネフスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1241-52 | 11 | アレクサンドル・ネフスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 再任 |
1252-55 | 12 | ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1255 | 11 | トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 叔父 |
1255-57 | 12 | ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥/再任 |
1257-59 | 11 | アレクサンドル・ネフスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 父/再任 |
1259-64 | 12 | ペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 子 |
1264-72 | 11 | トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 叔父/再任 |
1272-73 | 12 | ペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥/再任 |
1273-76 | 11 | コストロマー公ヴァシーリイ小指公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 叔父 |
1276-81 | 12 | ペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 甥/再任 |
1281-85 | 12 | コストロマー公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟 |
1285-92 | 12 | ペレヤスラーヴリ公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 兄/再任 |
1292-1304 | 12 | コストロマー公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | 弟/再任 |
1308-14 | 12 | トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 従兄弟(ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチの子) |
1314-15 | 13 | アファナーシー・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ダニイール・アレクサンドロヴィチの子) |
1315-16 | 12 | トヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 再任 |
1319-22 | 13 | アファナーシー・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 再任 |
1322-25 | 13 | モスクワ公ユーリイ・ダニイーロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 兄 |
1325-27 | 13 | トヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | (ミハイール・ヤロスラーヴィチの子) |
1328-37 | 13 | モスクワ公イヴァン1世・カリター | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ユーリイ・ダニイーロヴィチの弟) |
1346-53 | 14 | モスクワ公セミョーン傲慢公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
1355-59 | 14 | モスクワ公イヴァン2世赤公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 弟 |
1359-63 | 14 | スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/スーズダリ系) | (コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチの子) |
1363-89 | 15 | モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (イヴァン2世赤公の子) |
1389-92 | ─ | セミョーン(異教名レングヴェニス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1392-1406 | 16 | モスクワ大公ヴァシーリイ1世 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1406-12 | ─ | セミョーン(異教名レングヴェニス) | ゲディミノヴィチ | 再任 |
1412-25 | 16 | モスクワ大公ヴァシーリイ1世 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 再任 |
1425-62 | 17 | モスクワ大公ヴァシーリイ2世盲目公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
1462-80 | 18 | モスクワ大公イヴァン3世大帝 | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |
1470 | ─ | ミハイール・オレリコヴィチ | ゲディミノヴィチ | (キエフ公オレリコ・ヴラディーミロヴィチの子) |
プスコーフ公 князь Псковский
プスコーフ Псков はエストニア国境に近い、チューディ湖畔の都市(ロシア連邦プスコーフ州州都)。湖の対岸はチューディ人(フィン系)の土地で、北部ルーシの最西端に位置する。ノーヴゴロドの属州付属都市として、対ハンザ貿易の窓口として発展。
その地理的位置からリトアニアとの関係が深い。
13世紀以降ノーヴゴロドからの自立を強めており、特にリヴォニア騎士団との戦いにおけるプスコーフ市民の活躍と、その領域拡大が自立傾向を助長した。1348年の条約で最終的にノーヴゴロドに独立を認めさせたが、すでにそれ以前から事実上の独立を勝ち取っていた。
その政体はノーヴゴロドと同じく、名目的な公は存在したが他公領からの借り物で、«ヴェーチェ вече(民会)» が実権を握る共和国であった(そのためプスコーフ公領と呼ばれることは少なく、一般的に «プスコーフ共和国 Псковская республика» と呼ばれる)。ノーヴゴロドとの違いは、広大な属州を持たなかったため、漁業や手工業が発展。また中継貿易で栄えた。さらにそのため、地主貴族がごく少数で、ヴェーチェがノーヴゴロド以上に大きな力を持った。
ノーヴゴロド以上にリトアニアやリヴォニア騎士団の脅威にさらされていたためか、増大するモスクワ大公の影響力に対する反発は弱かった。14世紀後半以降の公たちは、いずれも事実上モスクワ大公の代官である。のちには実際に代官 наместник が派遣されている。
形式的には1510年、モスクワ大公ヴァシーリイ3世によってモスクワに併合された。
1014-36 | 5 | スディスラーフ | リューリコヴィチ | (ヴラディーミル偉大公の子) |
1136-38 | 9 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ | (ムスティスラーフ偉大公の子) |
1138-40 | 9 | スヴャトポルク・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ | 弟 |
1178-95 | 11 | ムスティスラーフ老公 | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチの子) |
1211-13 | 11 | ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 従兄弟(ムスティスラーフ勇敢公の子) |
1214 | 12 | フセーヴォロド・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ老公の子) |
1214- | 11 | ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | 再任 |
1254 | 11 | トヴェーリ公ヤロスラーフ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | (フセーヴォロド大巣公の孫) |
1264-66 | 12 | スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | 子 |
1266-99 | ─ | ドヴモント(本名ダウマンタス) | ? | ? |
1328-37 | 13 | トヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | (ミハイール・ヤロスラーヴィチの子) |
1340頃 | ? | イヴァン | ? | ? |
1341-48 | ─ | アンドレイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公アルギルダスの子) |
1377-81 | ─ | アンドレイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | 再任 |
1393-99 | ─ | アンドレイ・オリゲルドヴィチ | ゲディミノヴィチ | 再任 |
1399 | 15 | イヴァン・フセヴォローディチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/トヴェーリ系) | (ホルム公フセーヴォロト・アレクサンドロヴィチの子) |
1406- | 16 | コンスタンティーン・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1410-12 | 18 | アレクサンドル・フョードロヴィチ・シチェパー | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (フョードル・アンドレーエヴィチの子) |
1412-14 | 16 | コンスタンティーン・ドミートリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ドミートリイ・ドンスコーイの子) |
1415-17 | 17 | アンドレイ・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチの子) |
1417-20 | 17 | フョードル・アレクサンドロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 弟 |
1421-23 | 18 | アレクサンドル・フョードロヴィチ・シチェパー | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 再任 |
1429-34 | 18 | アレクサンドル・フョードロヴィチ・シチェパー | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 再任 |
1461-62 | 18 | ヴラディーミル・アンドレーエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (アンドレイ・アレクサンドロヴィチの子) |
1463-66 | 16 | イヴァン・アレクサンドロヴィチ・ズヴェニゴローツキイ | スヴャトスラーヴィチ(カラーチェフ系) | |
1466-72 | 17 | フョードル・ユーリエヴィチ・シュイスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/スーズダリ系) | |
1478-82 | 18 | ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・シュイスキイ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/スーズダリ系) | |
1496-1501 | 19 | アレクサンドル・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | (ヴラディーミル・アンドレーエヴィチの子) |
1503-07 | 19 | ドミートリイ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/ロストーフ系) | 兄 |
イズボルスク公 князь Изборский
イズボルスク Изборск はプスコーフ南西の都市(ロシア連邦プスコーフ州)。エストニアとの国境に程近く、言わばプスコーフにとって西欧との最前線に位置すると言える。
862-864 | 1 | トルヴォル | リューリコヴィチ | (リューリクの弟) |
-1360 | ─ | エヴスターフィイ | ? | ? |
ヴェリーキエ・ルーキ公 князь Великолуцкий
ヴェリーキエ・ルーキ Великие Луки は現プスコーフ州南部にある都市(ロシア連邦プスコーフ州)。
1197-98 | 11 | イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチ | モノマーシチ | (ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチの子) |
トルジョーク公 князь Торжский
トルジョーク Торжок は現トヴェーリ州のど真ん中、州都トヴェーリに程近い都市(ロシア連邦トヴェーリ州)。
ここはノーヴゴロド公領の最南端に位置し、ヴラディーミル大公領と接する最前線でもある。そのため、分領であった時期は短かったが、13世紀にはノーヴゴロド市民と対立するノーヴゴロド公(ヴラディーミル系出身)が、しばしばここを拠点にノーヴゴロドと戦っている。
1158-61 | 10 | ダヴィト・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子) |
1177-78 | 10 | ヤロポルク・ロスティスラーヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの孫) |
1196-97 | 10 | ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ | モノマーシチ | (ヴラディーミル・マーチェシチの子) |
1217 | 12 | ヴァシーリイ・ムスティスラーヴィチ | モノマーシチ(スモレンスク系) | (ムスティスラーフ幸運公の子) |
ラードガ公 князь Ладожский
ラードガ Ладога (現名スターラヤ・ラードガ Старая Ладога)はサンクト・ペテルブルグの東方、ラードガ湖畔に近いヴォルホフ河畔の村落(ロシア連邦レニングラード州)。近くにノーヴァヤ・ラードガという都市もある。
イパーティー年代記には、リューリクが最初に住んだのはノーヴゴロドではなくラードガであったとする写本もある。古代ルーシ最初の首都というわけである。スカンディナヴィアの年代記では、一旦スウェーデン領となったものの、ヤロスラーフ賢公とスウェーデン王女との結婚に際して婚資としてルーシ領となったとされている。特にスウェーデンがフィンランドを征服した13世紀以降、ノーヴゴロドとスウェーデンとの間でラードガを含むこの地方は激しく争われた(もっとも、主な舞台は西方のフィンランド湾岸部)。このため、しばしばノーヴゴロドから代官や司令官が派遣されている。最終的には、1617年のストルボヴォ条約でロシアに返還された。
862-884 | 1 | リューリク | リューリコヴィチ | |
1333-40 | ─ | グレーブ(異教名ナリマンタス) | ゲディミノヴィチ | (リトアニア大公ゲディミナスの子) |
1384- | ─ | パトリケイ・ナリムントヴィチ | ゲディミノヴィチ | 子 |
ヴォロコラムスク公 князь Волоколамский
ヴォロコラムスク Волоколамск はモスクワ西方の都市(ロシア連邦モスクワ州)。
ノーヴゴロド公領だったが、1177年にヤロスラーフに分領として与えられた。その後ノーヴゴロドに返還されるが、13世紀には事実上ヴラディーミル大公領となる(歴代ノーヴゴロド公がヴラディーミル系出身だったため)。14世紀には一時スモレンスク公の勢力圏に組み込まれ、その関係でリトアニアの攻撃を受けたこともある。さらにモスクワ、リトアニアの支配を転々とし、1462年にモスクワ大公の分領となった(下記ヴォロク公を見よ)。
1177-78 | 10 | ヤロスラーフ・ムスティスラーヴィチ赤公 | モノマーシチ(ヴラディーミル系) | (ユーリイ・ドルゴルーキイの孫) |
ヴォロク公 князь Волоцкий
ヴォロク・ラムスキイ Волок Ламский とはヴォロコラムスクのこと。ラムスキイは、この都市の立つラマ河(ヴォルガの支流)のこと。元来ヴォロコラムスク公領と呼ばれていたが、1462年にモスクワ大公の分領となった時にはヴォロク公領と呼ばれた。1513年、子なくしてフョードル・ボリーソヴィチが死んで、モスクワに併合される。
1462-94 | 18 | ボリース・ヴァシーリエヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | (ヴァシーリイ2世盲目公の子) |
1494-1513 | 19 | フョードル・ボリーソヴィチ | モノマーシチ(ヴラディーミル系/モスクワ系) | 子 |