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リトアニア諸公

トライデニス

Traidenis

ケルナヴェ公
リトアニア大公 (1269-82)

生:?
没:?

父:?
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1ガウデムンダマゾフシェ公ボレスワフ2世

ロシア語ではトロイデン Тройден。

 前半生については不明ながら、ケルナヴェ公であったことから、アウクシュタイティヤ、すなわちリトアニアの国家統一の核となった東部高地出身であろうと考えられている。

ケルナヴェは、ヴィリニュスの北西にある都市。もっとも、当時はまだヴィリニュスが存在しなかったので、トラカイの北東と言った方がいいかもしれない。

 1269年ないし1270年に、シュヴァルナスを追ってリトアニア大公になったとされる。
 トライデニスは異教徒であり、キリスト教徒の支配がミンダウガスヴァイシュヴィルカスシュヴァルナスと続いた後に、リトアニアを改めて異教国家として再建。リトアニアの改宗を100年遅らせた。このことからして、おそらくトライデニスは反キリスト教勢力を後ろ盾として大公位を獲得したのではないかと考えられる。

 かれの治世、ナルシアの公スクセがドイツ騎士団のもとに逃亡したと言われる。先代の諸公による大公権力の強化策をトライデニスが継続したためでもあろうが、同時にトライデニスの異教回帰を嫌ったのかもしれない。

ナルシアは、その厳密な地理は不明ながら、一般的にリトアニアの北東国境地域と考えられている。この地域はリヴォニア騎士団との最前線であり、あるいはその公であったスクセもキリスト教徒となっていたのかもしれない。

 リトアニア大公となったトライデニスは、ドイツ騎士団との戦いを再開。1270年には、ふたりの騎士団総長を相次いで戦死させている。
 また、リトアニアの勢力圏を拡大。ヤトヴャーギ人を支援し、ポーランド、ガーリチ=ヴォルィニなどと戦った。

ヤトヴャーギ人(ロシア語)とは、西欧でスドヴィア人とかヨトヴィンギア人とか呼ばれる民族。リトアニア人と同じくバルト系(ただし、東バルトに属するリトアニア人に対して、ヤトヴャーギは西バルトに属する)。こんにちのリトアニア中南部からポーランド北東部にかけて住んでおり、リトアニア人と同じく異教徒として、西のドイツ騎士団の圧迫を受けていた。他方でヤトヴャーギ人は南西のポーランド、南のガーリチ=ヴォルィニ、東のポーロツクなどに古くから遠征し、略奪を繰り返していた。

 シュヴァルナスの兄であるガーリチヴォルィニ公レフ・ダニイーロヴィチと対立。これを従えたモンゴル軍の襲撃を数度にわたって撃退した。特に1275年前後はモンゴル・ガーリチ連合軍の襲撃が激しかったが、トライデニスは持ちこたえるどころか、«黒ルテニア» におけるリトアニアの支配権を強化することに成功した。

黒ルテニアとは、現ベラルーシの西部。グロドノやノヴォグルードクを擁する地域である。一旦はミンダウガスが征服したものの、その後も歴代ガーリチヴォルィニ公と激しく領有を巡って争われていた。

 1279年、娘ガウデムンダをマゾフシェ公ボレスワフ2世と結婚させる。マゾフシェはリトアニアの近隣で、南西方面を安定化させたいとの思惑だったのだろう。同時にボレスワフ2世はレフ・ダニイーロヴィチの甥でもあり、ガーリチ=ヴォルィニとの関係改善も視野にあったかもしれない。

ガウデムンダはトライデニスではなくトレニオタの娘であるとする文献もあるが、ガウデムンダの次男がトロイデン(すなわちトライデニス)と名づけられていることからして、やはりトライデニスの娘と考えるべきだろう。

 1279年、ドイツ騎士団がケルナヴェにまで侵攻してきた。トライデニスはこれをも撃退し、騎士団総長を戦死させた(トライデニスに殺された3人目のドイツ騎士団総長となった)。
 こうしてドイツ騎士団が弱体化すると、その勢力圏となっていたゼムガレ/セミガリアへと勢力を拡大。しかしその途中で死を迎えた。その死は暗殺とも自然死とも言われる。

ゼムガレ/セミガリアとは、現ラトヴィア中南部。ゼムガレ人が長くリヴォニア騎士団に抵抗を続けてきていた。なお、当時はリヴォニア騎士団とドイツ騎士団は公式には合同している。

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最終更新日 01 01 2012

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