ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

ジグムント «スタリ»

Zygmunt "Stary"

リトアニア大公ジギマンタス (1506-48)
ポーランド王1世 (1506-48)

生:1467.01.01−クラクフ
没:1548.04.01(享年81)−クラクフ

父:リトアニア大公・ポーランド王カジミェシュ (リトアニア大公・ポーランド王ヨガイラ
母:エリーザベト (ドイツ王アルプレヒト2世)

結婚①:1512
  & ボルバーラ 1495-1515 (ハンガリー宮中伯サーポヤイ・イシュトヴァーン)

結婚②:1518
  & ボナ 1494-1557 (ミラノ公ジャン・ガレアッツォ2世)

子:

生没年
サーポヤイ・ボルバーラと
1ヤドヴィガ1513-73ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世
2アンナ1515-20
ボナ・スフォルツァと
3イザベラ1519-59ハンガリー王サーポヤイ・ヤーノシュ
4ジグムント1520-72ポーランド・リトアニア
5ソフィヤ1522-75ブラウンシュヴァイク公ハインリヒ
6アンナ1523-96トランシルヴァニア公バートリ・イシュトヴァーン
7カタジーナ1526-83スウェーデン王ヨハン3世

ゲディミノヴィチ(ヤギェウォ家)。カトリック。リトアニア語ではジギマンタス Žygimantas "Senasis"。
 カジミェシュの五男。

 1492年、父が死去。長男ヴワディスワフがすでにボヘミア王・ハンガリー王であり、次男カジミェシュが早世していたため、三男ヤン・オルブラフトがポーランド王、四男アレクサンデルがリトアニア大公となった。
 五男であったジグムントには相続すべき王位がなく(弟フリデリクは聖職者になっていた)、長兄ヴワディスワフの下でスレスコ/シロンスク/シュレージエンを統治した。

 1501年にヤン・オルブラフトが死ぬが、ポーランド王位はアレクサンデルが継いだ。しかしそのアレクサンデルも1506年に死去。ジグムントがポーランド・リトアニアを相続した。
 即位時点におけるジグムントの対外的課題は、ポーランド王としてはドイツ騎士団を屈服させること、リトアニア大公としては1503年にモスクワに奪われたセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの奪還であった。

 そのモスクワは、1506年にカザン・ハーン軍に敗北している。さらにモスクワ大公イヴァン3世からヴァシーリイ3世に替わったことで、クリム・ハーンのメングリ・ギレイもモスクワ離れを見せはじめていた。ジグムントはさっそくメングリ・ギレイと同盟。1507年、リトアニア議会がヴァシーリイ3世に最後通牒を突きつけ、リトアニア・モスクワ戦争が勃発した。
 リトアニアでは、すでにアレクサンデルの晩年から、その寵臣ミハイール・グリンスキイとその政敵との内部抗争が続いていた。ジグムントがミハイール・グリンスキイを宮廷から追放すると、1508年にミハイール・グリンスキイが蜂起。対モスクワ戦線も膠着状態に陥り、ジグムントはヴァシーリイ3世との講和を余儀なくされた。この講和では、1503年の国境が再確認され、ジグムントは戦争目標を達成することができなかった。この不満が、4年後の次なる戦争をもたらすことになる。

 1511年、ドイツ騎士団の総長に、甥のアルプレヒト(姉ソフィヤの子)が就任。しかしアルプレヒトは、ジグムントへの臣従を拒否する(1466年の第二次トルニ条約で、ドイツ騎士団はポーランド王を宗主と認めていた)。

 1512年、モスクワとの戦争が再開。1514年、スモレンスクを奪われる。
 この戦争では、ジグムントは消極的だった観がある。おそらくそれは、ひとつにはドイツ騎士団の問題を抱えていたからだろう。さらにヴァシーリイ3世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と同盟したことで、ジグムントは外交上の問題も抱えることになった。
 1515年、ジグムントは長兄ヴワディスワフとともに、マクシミリアン1世との間にヴィーン協定を結ぶ。これにより、ヴワディスワフの息子と娘が、マクシミリアンの孫息子と孫娘と結婚し、家系断絶の際には相互に王位継承権を持つことが決められた。ジグムントはボヘミア・ハンガリー王位への継承権をマクシミリアンに譲渡。代わりに、ヴァシーリイ3世との同盟を破棄させたほか、ドイツ騎士団に対するフリーハンドを得た(歴代皇帝は原則ドイツ騎士団を支持してきた)。
 こうしてジグムントは1517年、今次戦争で初めての積極的な攻勢に出て、スモレンスクを攻囲する。しかしこの作戦は失敗に終わり、再び東方では守勢にまわった。

 1518年、ボナ・スフォルツァと再婚。彼女はジグムントに大きな影響力を発揮し、王権の強化に尽力した。しかし彼女が強力な党派を宮廷内に築いたことで、逆に貴族たちの反発が強まる。

 ドイツ騎士団(アルプレヒト)は、ジグムントを宗主として認めないばかりか、ヴァシーリイ3世と同盟し、1466年にポーランドに奪われていた西プロイセン(東ポモージェ)の返還を要求してきた。1519年、ジグムントはプロイセンに侵攻。ドイツ騎士団との最後の戦争が始まった。なお、この戦争はあくまでもポーランドの戦争であり、リトアニアは(対モスクワ戦争に忙殺されていたためもあって)一切支援をしていない。
 戦局は一進一退。ちなみに、この時オルシュティン防衛の指揮を執っていたのが、ミコワイ・コペルニク(ニコラス・コペルニクス)。しかしちょうどこの時、オスマン軍がオーストリアに侵攻。首都ヴィーンを脅かされた皇帝カール5世は、両者に休戦を勧告した。1521年、ジグムントとドイツ騎士団は停戦した。

 1520年、ポーランドにおけるルター派の説教を禁止。

 1522年、ヴァシーリイ3世と休戦。モスクワによるスモレンスク領有を認めた。

 1525年、アルプレヒトがルター派に改宗してドイツ騎士団を解散。プロイセン公としてポーランド王の臣下となる。形式的には、プロイセン(旧ドイツ騎士団領)はポーランド領となった。ちなみに、アルプレヒトの決断を否認する騎士たちは、その後もカトリックの騎士修道会としてのドイツ騎士団を新たに選んだ総長の下で存続させた。またリヴォニア騎士団もドイツ騎士団から独立する形で存続した。
 1526年、最後のマゾフシェ公ヤン4世の死で、マゾフシェを王領に併合する。
 1529年、最初のリトアニア法典を承認。カトリックと正教徒の同権を確認した。

 1531年、モルドヴァ公ペトル・ラレシュを破り、かれに奪われていたガーリチ南部を奪回する。

 1533年、宮廷言語をラテン語からポーランド語に替える。

 1533年、ヴァシーリイ3世が死去。息子のイヴァン4世雷帝が後を継ぐが、まだ幼く、母后エレーナ・グリンスカヤが摂政となった(かのミハイール・グリンスキイの姪)。エレーナ・グリンスカヤは1522年の休戦条約の延長を求めてきたが、リトアニア議会はこれを一蹴。1508年の国境への回帰(すなわちスモレンスクの奪還)を主張し、リトアニア・モスクワ戦争が始まった。
 1534年、リトアニア軍はスモレンスクとセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに侵攻。しかしスモレンスクもセーヴェル諸都市も陥とすことができなかった。1535年にはモスクワ軍がムスティスラーヴリとヴィテブスクを攻略するが、こちらも陥とすことができず。一方、モスクワ軍はリトアニア本土に侵攻してこれを蹂躙したが、リトアニア軍もゴーメリとスタロドゥーブを陥とした。クリム・ハーン軍がリャザニに侵攻し、モスクワはこれにも対処しなければならなかった。
 戦局は一進一退を繰り返し、結局1537年に結ばれた休戦条約では、ジグムントはゴーメリを獲得したにとどまった。

 1544年、リトアニア統治をジグムント・アウグストに委ねる。
 1547年、妃ボナの主導で、リトアニア大公領における農地所有の混乱を整理する «ヴォロク改革» を推進。

 ボナとともに芸術のパトロンとして、ルネサンスを導入する。

 添え名は「年老いた」という意味。

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最終更新日 01 01 2012

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