ヴワディスワフ
Władysław Jagiellończyk
ボヘミア王ヴラディスラフ4世 (1471-1516)
ハンガリー王ウラースロー2世 (1490-1516)
生:1456.03.01−クラクフ
没:1516.03.13(享年60)−ブダ
父:リトアニア大公・ポーランド王カジミェシュ (リトアニア大公・ポーランド王ヨガイラ)
母:エリーザベト (ドイツ王アルプレヒト2世)
結婚①:1476
& バルバラ 1464-1515 (ブランデンブルク選帝侯アルプレヒト・アキレス)
結婚②:1490
& ベアトリーチェ 1457-1508 (ナポリ王フェランテ1世)
結婚③:1502
& アンヌ 1484-1506 (フォワ=カンダール伯ガストン2世)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
アンヌ・ド・フォワと | |||
1 | アンナ | 1503-47 | 皇帝フェールディナント1世 |
2 | ルドヴィク | 1506-26 | ボヘミア・ハンガリー |
ゲディミノヴィチ(ヤギェウォ家)。カトリック。リトアニア語ではヴラディスロヴァス Vladislovas Kazimieraitis、チェコ語ではヴラディスラフ Vladyslav Jagellonský、ハンガリー語ではウラースロー Ulászló。
カジミェシュの長男。
1471年、ボヘミア王イジーが死去。イジーには子がなく、また他にこれといった王位継承の候補者もいなかったため、ジギスムント、アルプレヒト(ともにボヘミア王)の血を引くヴワディスワフにお鉢が回ってきた。
とはいえ、ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュがボヘミア王位を主張してボヘミアに侵攻。またヴワディスワフのボヘミア王位継承にあわせて、同じくジギスムント、アルプレヒトが王であったハンガリーの王位を次弟カジミェシュに与えようと母が父を動かし、こうしてボヘミア・ハンガリー王位を巡ってマーチャーシュとヴワディスワフ(と父)との争いが始まった。
1471年には、ヴワディスワフはまだ15歳。このため王としての行為は、かれを支持するボヘミア貴族が代行した。
マーチャーシュとの戦いは、1479年にようやく決着がついた。それによると、ヴワディスワフは狭義のボヘミアのみを保持し、マーチャーシュはモラヴァ/モラヴィアとスレスコ/シレジアを獲得した。
1485年、カトリックの大貴族とウトラキスト(フス派穏健派)との間に和解が達成される(ただしヴワディスワフが関わったわけではない)。
1490年、マーチャーシュが死去。ハンガリー貴族はヴワディスワフを王に選出した。ヴワディスワフはブダに赴き、33年振りにボヘミアとハンガリーを統一した。
ちなみにこの時、ヴワディスワフは、ハンガリー領となっていたモラヴァとスレスコをボヘミア領に戻している。
ハンガリー王に即位後、ヴワディスワフは専らブダに居住。そのため、事実上王が不在となったボヘミアでは大貴族の専横が拡大していった。1500年には、ヴワディスワフはかれらに立法権と行政権を与えている。
しかしヴワディスワフが居住したハンガリーにおいても、大貴族の専横を抑えることができなかった。むしろ、«ドブジェ・ラースロー Dobrze László» と呼ばれて、大貴族の言いなりだった。
こうしてヴワディスワフの治世、ボヘミアでもハンガリーでも中央権力が崩壊していった。
ラースローはウラースローが崩れた形。こんにちのハンガリーでウラースローが人名として使われることはまずないが、ラースローはいまだにかなりポピュラーである。ちなみに、«ドブジェ» というのはどう考えてもポーランド語。
1492年、父が死去。ポーランド王位は三男ヤン・オルブラフトが、リトアニア大公位は四男アレクサンデルが継いだ(次男カジミェシュはすでに死去)。
1515年、皇帝マクシミリアン1世と相互相続のヴィーン協定を結ぶ。