ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

ヨガイラ・アルギルダイティス

Jogaila Algirdaitis

リトアニア大公 (1377-1401)
ポーランド王ヴワディスワフ2世 (1386-1434)

生:1351頃
没:1434.05.31/06.01

父:リトアニア大公アルギルダス (リトアニア大公ゲディミナス
母:ユリアーニヤ (トヴェーリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ

結婚①:1385
  & ポーランド女王聖ヤドヴィガ 1373-99 (ハンガリー王ラヨシュ大王)

結婚②:1402
  & アンナ 1380-1416 (ツェリエ伯ヴィルヘルム)

結婚③:1417
  & エルジュビェタ・グラノフスカ 1380?-1420 (オットン・ズ・ピルチ)

結婚④:1422
  & ソフィヤ 1405-61 (アンドレイ・イヴァーノヴィチ・ゴリシャンスキイ/アンドリウス・アルシェニシュキス)

子:

生没年
母親不詳
1ボニファツィヤ
2ヤドヴィガ-1431
ソフィヤ・ガリシャンスカヤと
3ヴワディスワフ1424-44ポーランド・ハンガリー
4カジミェシュ1427-92リトアニア・ポーランド・ハンガリー

ゲディミノヴィチ。ロシア語ではヤガイロ・オリゲルドヴィチ Ягайло Ольгердович、ポーランド語ではヤギェウォ・オルギェルドヴィチ Jagiełło Olgierdowicz。
 アルギルダスとユリアーニヤ・アレクサンドロヴナとの間の長男。ヤギェウォ王家の祖。

 1377年に父が死ぬと、父の遺志により、異母兄たちを押しのけて、その領土であったリトアニア東部領を継承。西部領は、父の事実上の共同統治者だった叔父ケーストゥティスが、父の代と同じく支配し続けた。

 異母兄たち、特に長兄アンドレイ・オリゲルドヴィチが、ヨガイラの大公位継承に反発。これに別の異母兄のドミートリイ・オリゲルドヴィチも同調したが、ヨガイラはこれを制圧。1379年までに両者を追放した。

 1379年、ケーストゥティスとともにドイツ騎士団と講和。

 ヨガイラは、台頭するモスクワに対抗するため、キプチャク・ハーン国を事実上支配していたママイと同盟。1380年のクリコーヴォの戦いでは援軍を送るはずだったが、間に合わなかった。

 クリコーヴォの戦いはモスクワにも大きな損害をもたらし、このためヨガイラにとって一時的に東方の脅威は薄らいだ。おそらくこれもあって、この年、ヨガイラはケーストゥティスを敵とする秘密同盟をドイツ騎士団と結ぶ。しかしこの秘密が漏れると、1381年にケーストゥティスがヴィリニュスを占領。ヨガイラは捕らえられ、ケーストゥティスが大公となった。その後ヨガイラはクレヴォとヴィテブスクを与えられた。
 1382年、ヨガイラは再びドイツ騎士団と結び、古都トラカイに迫る。ケーストゥティスと講和のための交渉に入るが、ヨガイラはだましてケーストゥティスとその子ヴィタウタスを捕らえ、クレヴォに幽閉した。その直後、ケーストゥティスが死去(ヨガイラが殺したとも言われる)。ヴィタウタスは逃亡し、今度はかれがドイツ騎士団のもとに逃げ込んだ。
 ヨガイラはドイツ騎士団にジェマイティヤ(サモギティア)の大部分を割譲することを約束してこれを中立化。しかし領土割譲を実行しなかったことから、1383年にドイツ騎士団がリトアニアに侵攻。
 1384年、ヴィタウタスと和解し、ケーストゥティスの旧領(トラカイ、グロドノ)を与える。

 1382年、ハンガリー王ラヨシュ大王/ポーランド王ルドヴィク1世が死去。男子がいなかったため、長女マリアが両国の女王となるが、ハンガリーとの同君連合を嫌ったポーランド貴族が、次女ヤドヴィガを女王として招いた。当時ヤドヴィガは10歳になったかならずかだが、すでにヤドヴィガの夫にはハプスブルク家のプリンスが内定していた。ポーランドの国政はカジミェシュ大王以来の旧臣が執ったが、かれらはハプスブルク家との同君連合も嫌い、どうせ外国のプリンスを招くならと、同じくドイツ騎士団に悩まされるリトアニアのヨガイラに目を向けた。リトアニアと結ぶことは、ポーランド貴族が新体制において優位に立つことになり、かつリトアニアとの長年の確執も解消され、まず懸案のガーリチ=ヴォルィニ問題の解決が期待された。
 ヨガイラも、ドイツ騎士団との長年の関係にはいい加減ケリをつけたいと考えており、この提案は渡りに船だった。
 1385年、クレヴァス/クレヴォ条約を締結。この条約の実体については議論があるが(単なる同君連合からポーランドによるリトアニアの併合まで)、いずれにせよこれに基づき、1386年、ヨガイラはクラクフでカトリックに改宗し、ヤドヴィガと結婚。同時にポーランド王に戴冠した。カトリックとしての洗礼名はヴラディスロヴァス Vladislovas(ロシア語ではヴラディスラーフ Владислав、ポーランド語ではヴワディスワフ Władysław)であり、このためポーランド王としては «ヴワディスワフ» と呼ばれる。
 ヨガイラの改宗は、130年前のミンダウガスの改宗と同様、多くの貴族の改宗を促したが、130年前と異なり、今度は改宗が永続的なものとなった。これによりリトアニア貴族はカトリック化、そしてポーランド化していくが、他方で一般庶民はこの段階ではまだ異教にとどまった者が多く、やがて宗教的にはカトリック化していっても民族的にはポーランド化されることなくリトアニア人のままとどまった。200年後にも«リトアニア人»であったのは一般庶民で、貴族は«ポーランド人»となっていた。これが20世紀初頭のリトアニア独立に大きな影響を持つことになる。
 ちなみに旧キエフ・ルーシの一般庶民はそのまま正教徒にとどまっている。しかし正教貴族たちは、大公以下宮廷がカトリック化し、しかもヨガイラがカトリックを優遇したため、のちに(特に正教徒への差別・迫害が強化された15世紀末以降)カトリックへの改宗かモスクワへの鞍替えかを迫られることになる。たとえばリューリコヴィチではモサーリスキイ公家はカトリックに改宗し、ゲディミノヴィチではトルベツコーイ公家がモスクワに鞍替えしている。
 1387年、ヨガイラはヴィリニュスに帰還し、集団洗礼式を行う。

 1387年、ヤドヴィガが自ら軍を率い、父がポーランドからハンガリーに移していたガーリチの一部をポーランドに取り返し、さらにモルドヴァ公ペトル1世から臣従を勝ち取った。

 ヨガイラは弟スキルガイラをリトアニア副王に任命してクラクフからリトアニアを統治しようとするが、リトアニア貴族の反発を買う。1389年、ヴィタウタスがドイツ騎士団と同盟してヨガイラに反抗。1390年、グロドノをドイツ騎士団より奪う。1390年、ヴィタウタスとドイツ騎士団がヴィリニュスを攻囲。スキルガイラが持ち堪えたものの、ヴィリニュス郊外は灰燼に帰した。1392年、アストラヴァス/オストルフ条約でヨガイラはヴィタウタスと和解。ヴィタウタスをリトアニア大公として認めたが、ポーランド王たるヨガイラの宗主権は認めさせた。以後、ヨガイラは基本的にポーランド王として西方に専念することになる。なお、スキルガイラにはキエフを与えた。
 1398年、ドイツ騎士団と講和し、ジェマイティヤを割譲。

 1399年、ヤドヴィガが死去。ヨガイラは単独の王となる。しかしヨガイラは本来ヤドヴィガの夫としてポーランド王となったのであり、王として戴冠しているとはいえ、その正統性が揺らいだことは間違いない。事実、ヨガイラを当初から支持したマウォポルスカ貴族と、かれに反発するヴィェルコポルスカ貴族との対立がこの頃から顕著になった。しかしヨガイラにとって幸いだったのは、かれの権威を脅かす最大の存在であるヴィタウタスが、自身その権威を失墜させていたことである。
 1395年、サライでの権力闘争に敗北した前キプチャク・ハーンのトクタミシュがリトアニアに逃亡してきた。トクタミシュはヴィタウタスに、ルーシに対する宗主権と引き換えに軍事支援を求めた。全ルーシの支配者たらんとするヴィタウタスは、この提案に飛びつき、ルーシ諸公、モルドヴァ、ヴァラキアの諸軍をも引き連れて、1397年、98年、99年と南東に遠征。1397年には黒海に達した。1398年にはドニェプル河をくだってクリミア半島に攻め込み、東進してドン河にまで到達した。
 1399年、ヴィタウタスはキエフから3度目の遠征に出撃。ドニェプル河をくだり、ヴォールスクラ河畔(ポルターヴァの近郊で、310年後に同じく画期的な戦闘のおこなわれるまさにその場所)にて、キプチャク・ハーン軍と遭遇した。戦いはキプチャク・ハーン軍の圧勝に終わり、ヴィタウタスこそ命からがら逃げ延びたものの、アンドレイドミートリイの兄弟、モルドヴァ公シュテファン1世などが戦死。
 この敗北で、ヴィタウタスは多くのものを失った。スモレンスクは独立を果たし、南東への進出は断念し(代わりに東方へ)、ノーヴゴロドやプスコーフもリトアニア離れを示し、何よりヨガイラ(ポーランド)からの分離独立を断念させられた。
 1401年、ポーランドとリトアニアはヴィリニュス・ラドム条約を締結。この条約についても実体については諸説あるが、ヴィタウタスをヨガイラの宗主権下に位置づけたものと言っていいだろう。実際、これ以降ヴィタウタスがヨガイラに反旗を翻すことはなくなった。

 1401年、スキルガイラが叛乱。ドイツ騎士団と結び、1402年には自らマリエンブルクに赴いた。

 1402年、カジミェシュ大王の孫娘アンナと再婚。これにより、一旦は失ったポーランド王として正統性を改めて確保した。

ちなみに、アンナの実家ツェリエ伯家とは、こんにちのスロヴェニア(当時は神聖ローマ帝国)に広大な領土を有した貴族。アンナの母親がカジミェシュ大王の娘だった。
 ちなみに、第三の妻エルジュビェタの実家はシロンスク(?)出身の、つまりポーランド貴族。第四の妻ソフィヤの実家は黒ルテニアに領土を有するリトアニア貴族。自身の正統性に不安がなくなったのか、それとも国内の貴族対策を優先したということなのか。

 1404年、ドイツ騎士団と講和。ドイツ騎士団によるジェマイティヤ領有を確認し、代わりにドブジニ公領を買い戻した。ヨガイラとヴィタウタスは、ドイツ騎士団のプスコーフ侵攻を支援し、ドイツ騎士団はヨガイラとヴィタウタスのノーヴゴロド侵攻を支援することを相互に約した。
 1404年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世から、シロンスク返却を条件に、ドイツ王位奪回を支援するよう要請があるが、ヨガイラはポーランド貴族の同意のもとにこの要請を断った。

シロンスクは、チェコ語でスレスコ、ドイツ語でシュレージエン、和製英語でシレジアと呼ばれる地域。ピャスト家の一族が支配していたが、14世紀に入ってボヘミア王がその宗主権を握り、事実上ボヘミア領となっていた。

 1409年、ジェマイティヤがドイツ騎士団に叛乱。ヨガイラとヴィタウタスがこれを支援し、ドイツ騎士団との戦闘が再開した。この戦いでは、ボヘミア王ヴァーツラフ4世はヨガイラ & ヴィタウタス側についたが、その弟のハンガリー王ジグモンドはドイツ騎士団側に立った。
 1410年、グリュンヴァルト/タンネンベルクの戦いで、ヨガイラ & ヴィタウタス連合軍はドイツ騎士団に壊滅的な打撃を与えた。
 1411年、ドイツ騎士団とトルニ条約を結び講和。ポーランドにドブジニを、リトアニアにジェマイティヤを取り戻した。

 1411年、ポドーリエをポーランド領からリトアニア領に。

 1413年、ホロドウォ条約により、ポーランド=リトアニア関係を再構築。これにより、ヴィタウタス死後もリトアニアは独自の大公を持つことを定めた(ただしポーランド王はリトアニア議会の、リトアニア大公はポーランド議会の承認がなければ選出され得ないとされた)。

 1414年、ドイツ騎士団とリトアニアとの戦闘が再開。

 コンスタンツ公会議に代表を派遣し、ドイツ騎士団の侵攻を抑えさせることに成功した。

 1419年、ボヘミア王ヴァーツラフ4世が死去。弟のハンガリー王ジグモンドがボヘミア王位を継ぐが、ヤン・フスとイェロニームを火刑に処したことが祟り、フス戦争が勃発。ジグモンド軍を破ったフス派のボヘミア貴族は、1421年にヨガイラにボヘミア王位を提供する。しかし公会議で異端と宣告されたフス派に与することを避けたヨガイラはこれを拒否。ヴィタウタスも同じく拒否したが、甥のジギマンタスをボヘミアに派遣。

 1422年、メルノ条約により、ドイツ騎士団とリトアニアとの戦争を終わらせた。これにより、メーメル(クライペダ)を除くジェマイティヤがリトアニア領となった。ただしポーランドとドイツ騎士団との対立はこの後も続くが、これはこの時ドイツ騎士団領にポモージェ/ポンメルンが残されたことが大きい。

 1430年、ヴィタウタスが死去。1401年以来緊密な協力関係にあったヴィタウタスの死で、ヨガイラ、リトアニアを巡る情勢は再び混乱する。
 ヨガイラは後継のリトアニア大公に、弟シュヴィトリガイラを就けた。しかしシュヴィトリガイラは、疎外されていたルーシ貴族に支持され、リトアニアに対するポーランドの宗主権を否認。ドイツ騎士団に接近し、1431年にヨガイラはドイツ騎士団との戦闘を再開する。他方、リトアニアの親ポーランド派貴族は、ヴィタウタスの弟ジギマンタスを推し立ててシュヴィトリガイラに抵抗。1432年にシュヴィトリガイラを追ってジギマンタスをリトアニア大公とした(この時グロドノ条約を結ぶ)。シュヴィトリガイラはその後も抵抗を続け、ヨガイラも1433年にプロイセンに侵攻している(ポーランドとドイツ騎士団の戦いは、ヨガイラの死後、1435年まで続いた)。

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最終更新日 01 01 2012

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