ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

ヴァイニウス

Vainius

ポーロツク公 князь Полоцкий

生:?
没:?

父:リトアニア大公ブトヴィダス
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
リューブコ-1342

ロシア語ではヴォイン Воин。

 1324年、ポーロツク公として年代記に言及される。
 1326年、ミンスク公ヴァシーリイ(素性不明、この年タタールに殺され、最後のミンスク公となる)、フョードル・スヴャトスラーヴィチ公(? ブリャンスク公の子だとしたらこちら)とともに、リトアニア大公ゲディミナスに従ってノーヴゴロドを訪問。リトアニア、ノーヴゴロド、リヴォニア騎士団の講和条約に調印した。
 このふたつが、ヴァイニウスについて確実にわかっているすべてである。

 ヴァイニウスの素性は不明だが、一般的にブトヴィダスの息子、すなわちゲディミナスの兄弟だとされている。しかし、そもそもブトヴィダスゲディミナスの父子関係自体が不確実なので、正確なところは不明である。

 多くの文献で、ヴァイニウスがポーロツク公となったのは1315年であるとされている。しかしその状況などはわからない。
 1263年にタウトヴィラスが死んでからのポーロツク情勢はまったくの空白である。ミンダウガス時代には宗主権を及ぼしたリトアニアも、ミンダウガス死後は混乱が続き、そのままポーロツクに宗主権を行使し続けるのは困難な状況にあったと思われる。おそらくヴィテブスク公ミンスク公などの諸公領に分裂していたのだろう。リトアニアは、おそらくヴィテニスゲディミナスの時代になってようやく東方への影響力を回復してきたのではないだろうか。1318年頃には、ゲディミナスの子アルギルダスヴィテブスク公の跡取り娘と結婚している。このような勢力浸透の一環として、ヴァイニウスもポーロツク公として送り込まれたのではないかと想像される。

 リヴォニア騎士団は1333年か1334年にポーロツクを攻撃しており、ヴァイニウスはこの時戦死したとする説もある。しかし一般的には、1338年か1342年かに死んだものとされている。1338年はナリマンタスポーロツク公として年代記で言及された年であり(これには疑問もある)、1342年は息子リューブコがリヴォニア騎士団との戦いで戦死した年である。

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最終更新日 01 01 2012

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