スカルマンタス
Skalmantas
生:?
没:?
父:?
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
? | ブティゲイディス | -1291? | 大公 |
? | ブトヴィダス | -1295? | 大公 |
ロシア語ではスコロメンド Сколоменд。
『ザドーンシチナ』と呼ばれる叙事詩やキリーロ=ベロゼルスキイ修道院の年代記に記されるアンドリウス・アルギルダイティスの言葉で、スカルマンタスは、アルギルダスの祖父、ゲディミナスの父として言及される。
一部学者は、ヤトヴャーギ人の公スコマンタスと同一人物だと考えている。
ヤトヴャーギ人とは、こんにちのカリーニングラード州、リトアニア、ポーランドにまたがる地域に住んでいたバルト系民族。リトアニア人がラトヴィア人と同じ東バルト系であるのに対して、ヤトヴャーギ人はプロイセン人と同じく西バルト系に属する。リトアニア人以前からルーシと関係を持っていた(攻略したりされたり)が、プロイセン人と同じく、ドイツ騎士団に圧迫され、その後周辺諸民族に同化されて姿を消している。
スコマンタスは、プロイセン人大叛乱(1260-74)において、その指導者として活躍したらしい。1263年、ドイツ騎士団の拠点ヘウムノを攻略している。しかしかれはヤトヴャーギ人の公として、必ずしもプロイセン人と利害関係が一致したわけではなく、同時にピンスクにも侵攻したりしている。1280年・81年にその領土をドイツ騎士団に攻略され、«黒ルテニア» に逃亡した。帰還後はカトリックに改宗し、ドイツ騎士団と和解している。
«スコマンタス(コマンタス)» という名は、ヤトヴャーギ語では «コマンツ/ゴマンツ» であったと推測される。ルーシの文献には «ガマント» という名が記されおり、おそらくこれがスコマンタスに相当するだろうと考えられている。
ニーコン年代記によると «ガマント» の娘エレーナがズヴェニーゴロド公アンドレイ・ティートヴィチの妻になっている。また府主教フェオグノーストの伝えるところによると、アンドレイ・ムスティスラーヴィチ・コゼリスキイ公がゲディミナスの妹 or 娘と結婚している。多くの学者がズヴェニーゴロド公アンドレイ・ティートヴィチとアンドレイ・ムスティスラーヴィチ・コゼリスキイ公とを同一人物と見なしており、«ガマント» = スコマンタス = スカルマンタス = ゲディミナスの父という等式が成立する。
ただし、ゲディミナスはヴィテニスの弟と考えられており、そのためこんにちでは一般的にヴィテニスの父であるブトヴィダスが、すなわちゲディミナスの父だと考えられている。
実際、ゲディミナスの父がヤトヴャーギ人の公であったとすると、ヴィテニスからゲディミナスへのリトアニア大公位継承には問題が起こってしかるべきだろう。