リウバルタス
Liubartas Gediminaitis
ルーツク公 князь Луцкий (1323-24、40-83)
ヴォルィニ公 князь Волынский (1340-85)
ガーリチ=ヴォルィニ公 князь Галицко-Волынский (1340-49)
ガーリチ公 князь Галицкий (1353-54、76-77)
生:?
没:1383・85
父:リトアニア大公ゲディミナス
母:?
結婚①:1323?
& アンナ公女 (ガリツィア王アンドレイ・ユーリエヴィチ)
結婚②:1350
& オリガ公女 (ロストーフ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ)
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
オリガ・コンスタンティーノヴナと | |||
1 | フョードル | -1431 | ヴォルィニ |
2 | ラーザリ | ||
3 | セミョーン |
ロシア語ではリュバルト Любарт Гедиминович。
一般的に、ゲディミノヴィチ兄弟の中では年少の弟とされることが多いようだが、個人的には逆に年長組に属したのではないかと思っている。
1320年か1323年、アンナ・アンドレーエヴナと結婚し、正教に改宗(洗礼名はドミトリユス Dmitrijus/ドミートリイ Дмитрий)。
ガーリチ=ヴォルィニでは、14世紀初頭にアンドレイ & レフのユーリエヴィチ兄弟が支配していたが、かれらの没年はわからない(同年同日に死んだとされる)。リウバルタスは、リトアニアの年代記によると、「ヴラディーミルの死後、ヴラディーミル、ルーツク、ヴォルィニの公領を獲得した」。このヴラディーミルとはレフ・ユーリエヴィチの子ヴラディーミル・リヴォーヴィチと思われるが、ヴラディーミル・リヴォーヴィチについてはほとんどわかっていない。
ある史料によると、貴族たちがヴラディーミル・リヴォーヴィチを追放し、代わりにユーリイ2世を招聘したとされる。ユーリイ2世は、1324年にはヴラディーミル=ヴォルィンスキイにマグデブルク法を与えているとされ、これが確かならばこの時点でユーリイ2世はガーリチ=ヴォルィニ公であったことになる。かれの発行した文書には、かれのほかに、主教、ドミートリイ・デトコ(デティコ)(最大の貴族)、ベリズ、リヴォーフ、ルーツク、ペレムィシュリなどの総督も署名している。このことから、ユーリイ2世の権限はかなり小さかったものと推測されるが、同時に、この時期にはリウバルタスがルーツク公であり得ないことがわかる。ユーリイ2世は、1340年に地元貴族に毒殺された。
ユーリイ2世とは、アンドレイ・ユーリエヴィチの息子ユーリイ・アンドレーエヴィチのことだとする説がある。ユーリイ・アンドレーエヴィチは1336年頃に死んだとされる。この説が正しければ、1340年に毒殺されたのは別人ということになる。
より有力な説は、ユーリイ2世とはマゾフシェ公トロイデン1世の息子(ユーリエヴィチ兄弟の甥)ボレスワフのことだ、とするものである(ボレスワフが正教に改宗してユーリイという洗礼名をもらった)。
おそらくこんにち一般的なのは、ユーリエヴィチ兄弟は1323年頃に死に、ヴラディーミル・リヴォーヴィチが後を継いだが、廃位されてボレスワフ=ユーリイ2世が擁立され、かれが1340年に毒殺されてリウバルタスがガーリチ=ヴォルィニ公になった、とする考えであろう。そしてこの間、リウバルタスは、1323年にルーツク公となったものの、1324年にはルーツクを手放し、代わりにヴォルィニ東部を領有することになったのではないか、と考えられている(上述のように1324年以降ルーツクはユーリイ2世の総督が支配していたから)。
さらにここから、当時のポーランド・リトアニア関係に話は広がる。すなわち、ともにガーリチ=ヴォルィニを狙っていたリトアニア大公ゲディミナスとポーランド王カジミェシュ3世大王は、妥協に達し、ボレスワフ=ユーリイ2世をガーリチ=ヴォルィニ公にすると同時にかれにゲディミナスの娘(エウフェミア?)を嫁がせた、とする。
以上、相矛盾する断片的な情報から、何とか辻褄をあわせようと後世の学者が再構築したものであり、実際のところはよくわからないとしか言いようがない。
もっとも、よくわからないのはこれ以降も同様である。しょせんガーリチ=ヴォルィニは、リトアニアにとってもポーランドにとっても辺境であり、詳細な記録が残されていないからである。
1340年、ユーリイ2世が暗殺される。リウバルタスはヴォルィニを掌握したようだが、ガーリチでは地元の大貴族たちがその指導者ドミートリイ・デーティコのもとに結集して «自治» を始めたと見られる。1341年、キプチャク・ハーン軍がルブリンにまで侵攻しているが、これによりガーリチ=ヴォルィニに対するポーランドの影響力は大きく削がれた。リウバルタスは、この1341年に敵(この場合はポーランド)の捕虜になったとも言われる。だとすると、これが情勢を大きく変えたであろう。しかもこの1341年には父ゲディミナスが死んでいる。ドミートリイ・デーティコも1344年までには姿を消し、この結果、1344年に講和が結ばれた。ヴォルィニがリウバルタスの領土となったのは確かなようだが、ガーリチについては、カジミェシュ大王の領土となったとする説と、リウバルタスとカジミェシュ大王とに分割されたとする説とがある。
1348年、ストレヴァの戦いでリトアニアはドイツ騎士団に敗北。またこの年、カジミェシュ大王は、ラツィブシュ/ラティボシュ公領の領有を巡って争っていたボヘミアと講和。こうして1349年、カジミェシュ大王は再びガーリチ=ヴォルィニの領有を目指してリトアニアとの戦闘を開始する。一旦はガーリチに加えヴォルィニのほとんども征服したが、リウバルタスの救援にケーストゥティスもかけつけ、さらにリウバルタスはオリガ・コンスタンティーノヴナ(モスクワ公セミョーン傲慢公の姪)と結婚。1350年にはヴォルィニをほぼ奪還した。リウバルタスが敵の捕虜となったのは1351年のことだとも言われる。その後戦況は一進一退を繰り返し、1355年にヴォルィニをリウバルタス、ガーリチをカジミェシュ大王の領土とする、現状追認の講和条約が結ばれた。
リウバルタスがポーランドの捕虜となったのが1341年であれ1351年であれ、かれを助け出したのはケーストゥティスだったらしい。ゲディミナスのリトアニア分割では、ケーストゥティスが西部領を委ねられたようなので、ポーランド対策においてリウバルタスと協調していたということなのだろう。
リトアニア大公であったアルギルダスは東方ルーシ情勢に忙殺されていたが、1363年に青水の戦いで勝利し、ウクライナのほぼ全土を掌握した。この時アルギルダスは、甥のコリアトヴィチ兄弟にポドーリエを与えている。ポドーリエとはこの時に生まれた地理的概念であり、もともとはキエフ公領、ガーリチ公領、ヴォルィニ公領に属していた南ブグ上流域である。つまり、リウバルタスの管轄地の一部が、アルギルダスによって勝手に他人に与えられたということになる。
1366年、カジミェシュ大王は再びヴォルィニに侵攻。リウバルタスはヴォルィニ西部を失った。この時カジミェシュ大王には、ユーリー・ナリムントヴィチ、アレクサンドル・コリアトヴィチ、ユーリー・コリアトヴィチが従っていた。後のふたりはポドーリエを領有するコリアトヴィチ兄弟であり、おそらく領土を巡ってリウバルタスと確執があったのだろう。戦後、3人はそれぞれベリズ、ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ、ホルムを与えられたという。
1370年、カジミェシュ大王が死去。ポーランド王位はその甥にあたるハンガリー王ラヨシュ大王が継いだ。リウバルタスはこれに乗じてヴォルィニを制圧(この時コリアトヴィチ兄弟も追い出している)。
1376年、リウバルタスはケーストゥティスとともにポーランドに侵攻し、クラクフにまで迫った。しかし1377年にラヨシュ大王が報復としてヴォルィニに侵攻するとこれに抗しきれず、ラヨシュ大王の宗主権を認めて講和した(ヴォルィニは保持した)。
アルギルダスが1377年に死ぬが、後を継いだヨガイラとケーストゥティスとが対立。ラヨシュ大王も1382年に死に、ガーリチ=ヴォルィニに関心を抱く3勢力、リトアニア、ポーランド、ハンガリーすべてが王位継承の問題を抱えることとなった。
この状況でリウバルタスも独自の行動が取れなかったということか、ラヨシュ大王の死に乗じてガーリチに侵攻することもなく、いくつかの都市を獲得した(購入した?)だけで済ませている。
ちなみにヨガイラとケーストゥティスとの対立で、リウバルタスはケーストゥティスを支持したらしい。
没年は不明。1385年のクレヴァス/クレヴォ条約の時点では死んでいたものと思われる。1382年以降ガーリチに軍事行動を起こしていないのも、あるいは老齢だった故か?