ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

ゲディミナス

Gediminas

リトアニア大公 (1316-41)

生:1275?
没:1341

父:リトアニア大公ブトヴィダス
母:?

結婚:?

子:

生没年
母親不詳
1ナリマンタス-1348ピンスク
2アルギルダス-1377大公
3リウバルタス-1383/85ルーツク
4ケーストゥティス-1382トラカイ
5マントヴィダス-1348ケルナヴェ
6カリヨタス-1363?ノヴォグルードク
7ヤウヌティス-1366?大公
?ヴィタウタス-1336
8ダヌテ?/エルジュビェタ-1364プウォツク公ヴァツワフ
9?/マリーヤ-1349トヴェーリ公ドミートリイ雷眼公
10アルドナ/アンナ1310-39ポーランド王カジミェシュ3世大王
11?/エヴフィーミヤ-1341ガーリチヴォルィニ公ユーリイ2世
?アイグスタ/アナスタシーヤ-1345モスクワ公セミョーン傲慢公
?コゼリスク公アンドレイ

ゲディミナス家の初代。ロシア語ではゲディミン Гедимин。

 ゲディミナスの素性は不明。
 ドイツ騎士団の年代記によると、ゲディミナスはリトアニア大公ヴィテニスの従者であり、かれを殺して大公位を奪った。他方、リトアニアの年代記によると、ゲディミナスはヴィテニスの息子である。しかしいずれもゲディミナスの死後数世紀経ってから書かれたものであり、特に前者はリトアニアの仇敵の手になるものであるだけに、信憑性が高いとは言えない。ゲディミナス存命中に書かれたリガ司教の書簡なるものには、ゲディミナスはヴィテニスの弟であると書かれており、こんにち一般的にはこれが受け入れられている。しかしこの当時、«兄弟» という言葉はどの言語においても、一般的に従兄弟や又従兄弟についてすら使われていた言葉であり、ゲディミナスとヴィテニスが文字通り実の兄弟であったか否か否定的な説もある。
 これに関連して、父親についても問題がある。ヴィテニスブトヴィダスの子であったのはまず間違いないだろうと一般的に考えられている。しかしゲディミナスの父親についてはスカルマンタスだったとする史料がある(詳細はスカルマンタスの項参照)。もしゲディミナスとヴィテニスが兄弟であったとするならば、史料が1世代スキップしてしまったので、スカルマンタスは兄弟の祖父であったと考えられる。もしふたりが従兄弟であったとするならば、ブトヴィダススカルマンタスが兄弟であったということであろう。
 あるドイツの年代記は、1329年にゲディミナスがふたりの弟とともにリヴォニアを攻略したことを伝えている。ヴィテニスが兄であったにせよなかったにせよ、この時点ではすでに死んでいるため、ゲディミナスにはそのほかにさらに少なくともふたりの兄弟がいたことは確かであろう。ポーロツク公ヴァイニウス、ジェマイティヤ公マルギリスキエフ公フョードルが挙げられることがあるが、史料的裏づけがあるのはフョードルだけである。
 ある年代記によると、1340年頃、ゲディミナスに処刑されそうになったフランシスコ派修道士(カトリック)を、正教の修道女であったゲディミナスの妹が救ったとされる。このエピソードはのちに伝説化してしまったが、もともとの年代記は1369年以前に書かれているので、それなりに信憑性はある。ミンダウガスの改宗以来90年が経ち、女性を中心にキリスト教が徐々に浸透しつつあったのだろう(キリスト教への改宗が女性から、というのはどこでも一般的に見られる現象である)。また、これとは別に、ルーシの公と結婚したエレーナという妹もいたと想像される(スカルマンタスの項参照)。

 1316年頃のヴィテニスの死後、リトアニア大公位を継承。これに関して大公位継承の争いが伝えられていないので、おそらく平和裏に大公位は継承されたのだろう。ゲディミナスがヴィテニスの弟であれば、それも不思議ではない。

 ゲディミナスが大公となった時点でのリトアニアの領土は、リトアニア本土に加え、西のジェマイティヤ、南の黒ルテニアから成っていた。

現リトアニアは、文化的・方言的に、東部、西部、南東部、中南部の4つに分けられ、それぞれアウクシュタイティヤ、ジェマイティヤ、ジュキヤ、スヴァルキヤと呼ばれる。
 北東部のアウクシュタイティヤとその南部のジュキヤとは、政治史的には常に一体であり、ジュキヤにある古都トラカイ、新都ヴィリニュスを中心にリトアニア統一の核となってきた。
 ジェマイティヤは、西欧ではサモギティア、ポーランド語ではジュムチと呼ばれる。リヴォニア騎士団とドイツ騎士団とを結ぶ回廊にあたり、そのため両騎士団から執拗に狙われ、リトアニア統一には参画が遅れた。1410年のトルニ条約により、クライペダ(メーメル)を含むバルト海沿岸部が騎士団領となり、残りがリトアニア領として確定した。
 スヴァルキヤは、もともとスドヴィア人とかヨトヴィンギア人などと呼ばれた民族の居住地である。かれらはロシア語では «ヤトヴャーギ» と呼ばれたが、民族的にはリトアニア人ではなく、言語的には東バルト系のリトアニア語ではなく西バルト系の言語を話していた。しかし政治的に統一することなく、北のリトアニア、南のポーランド、西のドイツ騎士団に圧迫され、14世紀までには3勢力に制圧されて消滅した。その後もスヴァルキヤの国境は画定せず、1920年、最終的にリトアニアとポーランドに分割された。

ルテニアとは、ルーシがラテン語でなまった形。しかし実際には、キエフ・ルーシ全土を指すことは稀。時代により、使う人物により具体的に指し示す地域が異なる。
 黒ルテニアとは、最も一般的な理解としては、グロドノ、ノヴォグルードクなどを含む、現ベラルーシ西部を指す。ここはリトアニア(ジュキヤ)の南であり、ポーランド(マゾフシェ)の東にあたり、すでにミンダウガスの時代にリトアニア領となっていた。

 東のポーロツク公領は、ミンダウガスの時代にリトアニアの勢力圏に組み込まれていたと想像される。しかし1263年のタウトヴィラス死後の情報がほとんどなく、1316年時点における状況はやはりよくわからない。しかし、この時期周辺にはリトアニア以外にこれといった勢力が存在せず、おそらくそのままリトアニアの勢力圏にとどまっていたのではないだろうか。
 1320年、ヴィテブスク公ヤロスラーフ・ヴァシリコヴィチが死去。すでに以前に娘婿となっていたアルギルダスヴィテブスク公位を継ぐ。
 1324年の時点で、ポーロツク公だったのはヴァイニウス。どう考えてもリトアニア人であり、しかもゲディミナスの弟であったとする説もある。ヴァイニウスの死後はその子リューブコが後を継いだとも言われるが、そのリューブコも1342年には死んでいる。
 いずれにせよ、ポーロツク公領は複数の分領に分割されていて、あるいはリトアニアの領土になり、あるいはリトアニアの宗主権下にあったと見てよかろう。
 1320年には娘をトヴェーリ大公ドミートリー雷眼公と結婚させているが、おそらくこれも、ポーロツクを平定し、そのさらに東への進出を見込んでのことであろう。

 その南、トゥーロフ=ピンスク公領については、1316年の時点でどういう状況にあったかよくわからない。しかし状況証拠からして、ゲディミナスの死までにはほぼリトアニアに征服されていたと考えられる。文献によっては、1316年にゲディミナスの子ナリマンタスピンスク公(トゥーロフ=ピンスク公)になったとしている。1316年かどうかはともかくとして、ゲディミナスの生前にナリマンタスがピンスクに派遣されていたのはまず確実だろう。さらに、イルペニ河畔の戦い(下記)が史実であるとすれば、イルペニの北に位置するトゥーロフ=ピンスク公領はこの時点でリトアニアの勢力圏になっていたものと考えていいだろう。
 何に拠ったか、1336年にトゥーロフ=ピンスクを併合したとする文献が多い。

 1321年・24年、イルペニ河畔の戦いで、キエフ公スタニスラーフペレヤスラーヴリ公オレーグ、ブリャンスク公ロマーン、元ルーツク公レフ・ダニイーロヴィチの連合軍を破る。
 イルペニ河はキエフ南西部にあるが、いかなる理由でここでゲディミナスがキエフ、ペレヤスラーヴリ、ブリャンスクの諸公と戦ったのかは不明。そもそもこの戦いを伝える年代記が、はるか後年になって書かれたものだけであり、同時代の記録にはそれらしき記述もスタニスラーフ、オレーグ、ロマーン、レフ・ダニイーロヴィチといった名前も見られないため、この戦い自体が虚構だとする説もある。
 この戦いの勝利でゲディミナスはウクライナのかなりの部分を勢力圏とし、キエフには代官アルギマンタス(おそらくゴリシャンスキイ家の祖)を据えたと言われる。しかし1331年にはキエフ公はキプチャク・ハーンの代官を受け入れており、ゲディミナスの子アルギルダスはブリャンスクを1357年に、キエフとペレヤスラーヴリを1363年に征服している。このことも考え合わせると、イルペニ河畔の戦いが事実であったとしても、当時この地域に宗主権を及ぼしていたキプチャク・ハーン軍を破ったわけではない以上、この地域に対するゲディミナスの影響力も高が知れていた、ということであろう。
 ただし1331年時点でキエフ公であったフョードルはゲディミナスの弟であった、とする説がある(こちらも参照)。この説が正しいとすれば、イルペニ河畔の戦いが虚構であったか否かはともかく、キエフに自身の弟を送り込む程度の影響力は行使できた、ということだ。

ゴリシャンスキイ家(ロシア語)は、グロドノ近郊にある小都市(ベラルーシ語でガリシャヌィ、リトアニア語でアルシェナイ、ポーランド語でホルシャニ、ロシア語でゴリシャーヌィ)を居城とする一族。リトアニア語でアルシェニシュキス家、ポーランド語でホルシャニスキ家と呼ばれる。アルギマンタスの子とされるイヴァン・オリギムンドヴィチ以降、リトアニア史で大きな役割を果たし、ふたりのリトアニア大公妃(ヨガイラヴィタウタスの妃)を輩出した。16世紀半ばに断絶。アルギマンタスという名はどう考えてもリトアニア系であるが、ルーシ(ベラルーシ)に領土をもらったことで、その子イヴァンは正教徒となり、以降急速にルーシ化した。

 1320年・23年、息子リウバルタスガーリチヴォルィニ公アンドレイ・ユーリエヴィチの娘と結婚させる。黒ルテニアを領土とし、トゥーロフ=ピンスク公領をも勢力圏とし、さらにイルペニ河畔の戦いでキエフをも取り込んだゲディミナスとしてみれば、黒ルテニアの南のガーリチ=ヴォルィニを次の標的とするのは当然であろう。
 当時のガーリチ=ヴォルィニについては情報が乏しく、錯綜しているので、正確な状況が把握できない。いずれにせよアンドレイ・ユーリエヴィチは1323年頃には死んだと思われるが、ガーリチ=ヴォルィニにはゲディミナスも、ポーランド王ヴワディスワフ1世・ウォキェテクも食指を伸ばしていた。アンドレイ・ユーリエヴィチ死後に、ユーリイ2世がガーリチ公になったとの説があるが、ユーリイ2世はマゾフシェ公家の出で、ヴワディスワフ・ウォキェテクの一族(従兄弟の孫)であり、トライデニスの曾孫でもある。しかもかれはゲディミナスの娘と結婚した(結婚は1331年と言われる)。ゲディミナスとヴワディスワフ・ウォキェテクの妥協の結果であろう。

 1322年、ユーリイ2世の父であるチェルスク公トロイデン1世、娘婿のプウォツク公ヴァツワフ、そしてラヴァ公シェモヴィト2世の兄弟と同盟。リトアニアはトライデニス以来、かれらマゾフシェ諸公と、ドイツ騎士団を共通の敵として協調していた(もっとも、もともとドイツ騎士団をプロイセンに招いたのは兄弟の曽祖父)。
 同じ1322年、ゲディミナスは、教皇ヨハンネス22世に書簡を送り、キリスト教への改宗の意図を伝えている。
 これはすなわち、毎年のように繰り返されるドイツ騎士団(およびリヴォニア騎士団)によるリトアニア侵攻を抑えるためであった。加えてゲディミナスは、騎士団領にも侵攻。1323年にはメーメル(クライペダ)を攻略している。
 1323年、リガ大司教、ドールパト(ユーリエフ、現タルトゥ)司教、デンマーク王、ドメニコ派修道会、フランシスコ派修道会、ドイツ騎士団それぞれの代表がヴィリニュスに集まり、ゲディミナスはキリスト教への改宗の意図を伝えて全面的な講和が図られた。なお、ヴィリニュスはこの頃建てられたものと考えられ、ゲディミナスによってリトアニアの首都とされた。
 しかしこの年、リガに到着した教皇使節の受け入れを、ゲディミナスは拒否。キリスト教への改宗は頓挫した。リトアニア貴族は依然として異教徒が多く、しかも黒ルテニア、ポーロツク、トゥーロフ=ピンスク、キエフなど広大なルーシ領を獲得したことで大量の正教徒を抱え、カトリックへの改宗が国家統一の上で必ずしもプラスには働かなかったためであろう。
 いずれにせよ、こうして騎士団との和平は崩れた。ゲディミナスは1325年、ポーランド王ヴワディスワフ1世・ウォキェテクと同盟し、その息子カジミェシュに娘アルドナを与えて、騎士団との戦いに備えた。

 1326年、ミンスクがキプチャク・ハーン軍に破壊される。この時ミンスク公ヴァシーリイも戦死した。これに乗じてゲディミナスはミンスク公領を併合。

 北東では、東で台頭するモスクワに、ノーヴゴロドでは反発勢力も生まれており、ゲディミナスはこれを基盤にして勢力を浸透させる。また、ノーヴゴロドからの分離独立傾向を強めるプスコーフを、同じくリヴォニア騎士団を敵とする同盟者として支援。1327年に、モスクワ公イヴァン・カリターに敗北してプスコーフに逃亡してきたトヴェーリ公アレクサンドル・ミハイロヴィチを、ゲディミナスは支援。アレクサンドル・ミハイロヴィチがモスクワの圧力に屈してプスコーフから逃亡すると、これをリトアニアに受け入れ、1331年にはプスコーフへの帰還を援けた。

 1329年、騎士団と対立するリガ市民の要請を受けて、リヴォニアに侵攻。しかし騎士団の反撃を受け、1332年にはヴワディスワフ・ウォキェテクが脱落。1338年、ゲディミナスも騎士団との講和を余儀なくされた。

 ハンザ商人を招き、外国貿易を活発化させた。

 1340年、ガーリチヴォルィニ公ユーリイ2世が死去。これにともないリウバルタスがガーリチ=ヴォルィニ全土の支配者となった。しかしこれにポーランド王カジミェシュ3世大王が反発。ガーリチ=ヴォルィニの支配を巡り、リトアニアとポーランドの戦争が始まった。

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最終更新日 01 01 2012

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