ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

ドミートリイ・ミハイロヴィチ・ヴォルィンスキイ «ボブローク»

Дмитрий Михайлович Волынский "Боброк"

生:?
没:?

父:ノヴォグルードク公カリヨタス? (リトアニア大公ゲディミナス
母:?

結婚:1356
  & アンナ -1399 (モスクワ公イヴァン2世赤公

子:

生没年
アンナ・イヴァーノヴナと
ヴァシーリー
母親不詳
ボリース
ダヴィト

ゲディミノヴィチ。正教徒。
 ヴォルィンスキイ家の祖。

 素性不詳。その父称から、正教徒としての洗礼名がミハイールであったカリヨタスの子とされることがあるが、リウバルタスの孫とする説もある(その場合は、リウバルタスにはミハイールという名の子がいた、と想定する)。
 ドミートリイ・ミハイロヴィチは «ヴォルィンスキイ» と呼ばれているが、それが分領を指すものであれ出身地を指すものであれ、ヴォルィニに分領があったともそこに住んだとも伝えられていないカリヨタスの子とするよりは(カリヨタスの分領はベラルーシのノヴォグルードク)、ヴォルィニの公であったことが確実なリウバルタスの子孫と考える方が相応しくはある。
 もっとも、ゲディミナス家の分領についてはあまり確実なことは言えず、ましてや «ミハイロヴィチ» にせよ «ヴォルィンスキイ» にせよどこまで事実に基づいているかもはっきりしない。そこまで疑っては推測のしようがないが。
 カリヨタスは1363年以前に死んでいたものと思われるが、リウバルタスは1380年代まで生きている。とすると、1360年代にすでに北東ルーシに亡命しているドミートリイ・ミハイロヴィチの父としては、カリヨタスの方が相応しいように思える。
 なお、カリヨタスの息子たちは1363年の青水の戦いの後にポドーリエ(ヴォルィニ)を領土としてもらっている。しかしドミートリイ・ミハイロヴィチは、その時点ではすでに北東ルーシにいたので無関係。

 1356年に、モスクワ公イヴァン2世赤公の娘と結婚したらしい。おそらくこれを縁に北東ルーシに赴いたのだろう。

 1359年、イヴァン2世赤公が死去。後継のヴラディーミル大公には、スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチが1360年にナウルーズ・ハーンから任命された。
 ドミートリイ・ミハイロヴィチは1359年にドミートリイ・コンスタンティーノヴィチの千人隊長(軍司令官)になっている。

 1363年、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチに代わってモスクワ公ドミートリイ・ドンスコーイ(ドミートリイ・ミハイロヴィチの義弟でもある)がヴラディーミル大公となる。これに伴い、ドミートリイ・ミハイロヴィチもモスクワに来て、ドミートリイ・ドンスコーイに仕える。以後、ドミートリイ・ドンスコーイの従兄弟セールプホフ公ヴラディーミル勇敢公とともに、麾下の軍司令官として活躍する。

 1371年、リャザニ公オレーグ・イヴァーノヴィチを破り、プロンスク公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチリャザニ公に。

 1376年から77年にかけて、旧主ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ率いるニージュニー・ノーヴゴロド軍とともにヴォルガ=ブルガールに遠征し、モスクワとニージュニー・ノーヴゴロドへの貢納を義務付けた。

 1379年にはヴラディーミル勇敢公プスコーフ公アンドレイ・オリゲルドヴィチとともにリトアニア領ルーシに侵攻し、トルブチェフスク、スタロドゥーブを占領。

 1380年のクリコーヴォの戦いではヴラディーミル勇敢公とともに騎兵を率い、タタール軍を破る。
 ドミートリイ・ミハイロヴィチとヴラディーミル勇敢公は遊撃部隊を率いていたが、戦闘開始後5時間も戦闘に参加せずに時を待っていた。本隊が崩れかかったのを見たヴラディーミル勇敢公が突撃を主張したが、ドミートリイ・ミハイロヴィチは、モスクワ軍にとって逆風であることを理由に押しとどめたという。やがて風向きが変わったのを捉えたドミートリイ・ミハイロヴィチの「Теперь пора!」の声とともに両者はタタール軍に突撃。これによりタタール軍は崩壊して、モスクワ軍の勝利が決まった。

 以後の消息は不明。1389年、ドミートリイ・ドンスコーイの死に際して言及されるだけである。学者の中には、1399年のヴォールスクラの戦い(リトアニア大公ヴィタウタスがタタール軍に敗北)で戦死したとする者もある。

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最終更新日 01 01 2012

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