ユーリイ・セミョーノヴィチ
Юрий Семенович
ムスティスラーヴリ公 князь Мстиславский (1431-)
生:?
没:1457?
父:ムスティスラーヴリ公レングヴェニス・アルギルダイティス (リトアニア大公アルギルダス)
母:マリーヤ (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ)
結婚:
&
子:
名 | 生没年 | ||
---|---|---|---|
母親不詳 | |||
イヴァン | ムスティスラーヴリ |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではユルギス・レングヴェナイティス Jurgis Lengvenaitis。
両親の結婚は1394年とされている。母の生年からしても妥当なところだが、とするとユーリイ・セミョーノヴィチの生年は1390年代後半ということになろうか。
1410年、グリュンヴァルト/タンネンベルクの戦いに従軍。
おそらく父の死で、ムスティスラーヴリを継いだ。
シュヴィトリガイラを支持し、1432年にクーデタでリトアニア大公位を奪ったジギマンタスと戦う。
1433年、ノーヴゴロドへ。1438年にはノーヴゴロド軍を率いてリヴォニアに侵攻した。
ジギマンタスにムスティスラーヴリを奪われたためリトアニアに侵攻するが、敗北し、捕虜となる。
1440年、ジギマンタスが死去。後を継いだカジミェシュ(正確には実権を握った大貴族たち)により、ムスティスラーヴリを返還してもらう。
1442年、あるいは大貴族たちと対立したのか、再びノーヴゴロドに赴いている。ムスティスラーヴリは没収されたようだ。しかし1444年にポーランド王ヴワディスワフ3世が死に、ポーランド王位を継承したいカジミェシュに宥和されたか、1445年にはムスティスラーヴリを取り戻したらしい。