ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

セミョーン・オレリコヴィチ

Семен Олелькович

スルーツク公 князь Слуцкий и Копыльский
キエフ公 князь Киевский (1454/55-70/71)

生:?
没:1470.12.03−キエフ

父:キエフ公オレリコ・ヴラディーミロヴィチキエフ公ヴラディーミル・オリゲルドヴィチ
母:アナスタシーヤ (モスクワ大公ヴァシーリイ1世

結婚:
  & マリーヤ (ヨナス・ゴシュタウタス/ヤン・ガシュトウド)

子:

生没年
母親不詳
1ソフィヤ-1483トヴェーリ大公ミハイール
エレーナ-1508ヤロスラーヴリ公イヴァン
アレクサンドラピンスク公フョードル
ヴァシーリイ-1495

ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではシモナス・オレルカイティス Simonas Olelkaitis。

 1420年にスルーツクで洗礼されている。

 幼年期はモスクワで過ごし、母方の祖母ソフィヤ・ヴィトフトヴナに養育されたらしい。また若い頃に、リトアニア大公ジギマンタスの捕虜となったこともあったらしい。

 1443年、父がキエフ公となっている。これに伴いセミョーン・オレリコヴィチがスルーツクの統治を委ねられたようだ(スルーツクは «黒ルテニア» にあり、キエフから遠く離れている)。

 1451年、モスクワ大公ヴァシーリイ2世と交渉している。

 1454/55年、父が死去。しかし時のリトアニア大公カジミエラス/ポーランド王カジミェシュ4世は、父の遺領のうち、キエフ公領の相続を認めなかった。カジミエラスとしては、これはオレリコヴィチ一族の «ヴォーッチナ(父祖伝来の世襲地)» ではなく、大公の代わりに統治を委ねていたものだとの考えだったのかもしれないが、セミョーン・オレリコヴィチにしてみれば当然おもしろくない。
 折りしも、1447年にポーランド王となって以来クラクフに居住するカジミエラスに代わってリトアニアの統治を担当してきた重臣ヨナス・ゴシュタウタスが、カジミエラスに対する反発を強め、セミョーン・オレリコヴィチを大公にしようと画策を始めた。この時セミョーン・オレリコヴィチはその娘と結婚している。
 この結果、カジミエラスもセミョーン・オレリコヴィチのキエフ公位を認めた。ただしこれは «ヴォーッチナ» としてではなく、あくまでも大公の代理として、である。

 1460年、ヴァシーリイ2世を、リトアニア領ルーシの宗主として認める。

 キエフ=ペチェールスカヤ大修道院のウスペンスキイ大聖堂(中心教会堂)を再建。ここに葬られている。

 なお、キエフ公領はかれの死とともに廃止され、義弟マルティナス・ゴシュタウタスが総督として送り込まれている。

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最終更新日 01 01 2012

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