ロシア学事始ロシアの君主ロシアの歴代君主リトアニア諸公ゲディミナス家系図

リトアニア諸公

セミョーン・フョードロヴィチ・ベリスキイ

Семен Федорович Бельский

公 князь
ボヤーリン боярин (1522-)

生:?
没:?

父:ベーラヤ公フョードル・イヴァーノヴィチベーラヤ公イヴァン・ヴラディーミロヴィチ
母:アンナ (リャザニ大公ヴァシーリイ・イヴァーノヴィチ

結婚:?

子:?

ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。

 母方を通じて、モスクワ大公イヴァン3世大帝の甥、ヴァシーリイ3世の従兄弟にあたる。そのためもあってか、ヴァシーリイ3世から信任を受けた。コロームナを中心に、カザン・ハーン国対応にあたっていた。

 1533年、ヴァシーリイ3世が死去。幼帝イヴァン4世雷帝が跡を継ぐと、その母后エレーナ・グリンスカヤが実権を握った。もともとイヴァン雷帝の後見人には長兄ドミートリイ・フョードロヴィチが任命されていたこともあり、セミョーン・フョードロヴィチは、長兄を無視して権力を掌握した «摂政» 政権に反発。それがなくとも、エレーナ・グリンスカヤは寵臣を重用し、大公一族を粛清するなど、大貴族の反発を招く政策をおこなっていた。
 1534年、セミョーン・フョードロヴィチは、来たるべきリトアニアとの戦争に備えてセールプホフに派遣されるが、そこからリトアニアに亡命してしまった。続く戦争では、セミョーン・フョードロヴィチはリトアニア軍を率いてセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに侵攻。しかしこの戦争では、リトアニア軍は必ずしもはかばかしい戦果を挙げることができなかった。このため、徐々にリトアニア大公ジギマンタス/ポーランド王ジグムント2世老王の覚えも悪くなっていったらしい。
 1537年、セミョーン・フョードロヴィチは、イェルサレムへの巡礼を願い出、許可された。しかしコンスタンティノープルから逸れて、クリミアへ。サヒブ=ギライに仕えるようになった。
 1541年、サヒブ=ギライに従い、モスクワに侵攻。しかしこれを迎え撃ったのは、実兄ドミートリイ・フョードロヴィチであった。モスクワ軍の迎撃を予期していなかったサヒブ=ギライは、そのまま撤退していった。

 以後のセミョーン・フョードロヴィチの消息は不明。

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最終更新日 02 02 2012

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