ドミートリイ・オリゲルドヴィチ
Дмитрий Ольгердович
トルブチェフスク公 князь Трубчевский (1357-79)
ブリャンスク公 князь Брянский (1357-79、88-99)
ドルツク公・ペレヤスラーヴリ(=ザレスキイ)公 князь Друцкий и Переяславский (1379-88)
スタロドゥーブ公 князь Стародубский (1388、88-97)
生:?
没:1399.08.12
父:リトアニア大公アルギルダス (リトアニア大公ゲディミナス)
母:マリーヤ (ヴィテブスク公ヤロスラーフ・ヴァシリコヴィチ)
結婚:
& アンナ (ドルツキイ?)
子:
名 | 生没年 | ||
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母親不詳 | |||
1 | グレーブ | ||
2 | イヴァン | -1399 | |
3 | ミハイール | ||
4 | セミョーン | ||
? | アレクサンドラ | -1426 | アンドレイ・イヴァーノヴィチ・ゴリシャンスキイ |
? |
ゲディミノヴィチ。正教徒。リトアニア語ではドミトリユス・アルギルダイティス Dmitrijus Algirdaitis。
トルベツコーイ家の祖。
ドミートリイというのはキリスト教徒としての洗礼名だが、かれがいつ洗礼を受けたかはよくわからない。母親が正教徒であったので、あるいは誕生時や幼い時期に洗礼されたとも考えられるが、他方でルーシに領土をもらった際に洗礼されたという可能性もある。いずれにせよ、異教風の名前は知られていない。
異母弟カリブタスも、正教に改宗してドミートリイの洗礼名を与えられている。つまり、カリブタスもまたロシア語ではドミートリイ・オリゲルドヴィチであり、兄弟にふたりの «ドミートリイ・オリゲルドヴィチ» がいたことになる。しかもどちらもセーヴェルスカヤ・ゼムリャーを領土としていたため、混乱させられること甚だしい。区別をするため、カリブタスは一般的に «ドミートリイ=コリブト» などと呼ばれているが、いずれにせよ混同は避けられない。
1356年、ブリャンスク、スタロドゥーブ、トルブチェフスクを征服した父により、これら都市を与えられる。これが、かつてのセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの全域だったのか、あるいはこれらの都市がある中央部だけだったのかはよくわからない。
1377年に父が死ぬと、異母弟ヨガイラがリトアニア大公位を継承。これに対してヴラディーミル・オリゲルドヴィチは、兄アンドレイ・オリゲルドヴィチの大公位継承要求を支持する。ヨガイラとの戦闘には直接参加しなかったが、1379年にモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイがリトアニア領ルーシに攻め込んだ際には、自領を防衛しようとしなかった。モスクワ軍の撤退にともなって自らモスクワに赴き、ドミートリイ・ドンスコーイからペレヤスラーヴリ=ザレスキイをもらう。
1380年、クリコーヴォの戦いに従軍。
1388年、ヨガイラと和解。かつての領土を返還してもらった。
1399年、ヴォールスクラ河畔の戦いで戦死。