ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ・トルベツコーイ
Дмитрий Тимофеевич Трубецкой
公 князь
ボヤーリン боярин
生:?
没:1625.06.24/07.04−トボーリスク
父:ティモフェイ・ロマーノヴィチ・トルベツコーイ公 (ロマーン・セミョーノヴィチ・トルベツコーイ公)
母:?
結婚①:
& マリーヤ・ボリーソヴナ -1617
結婚②:
& アンナ・ヴァシーリエヴナ
子:なし
ゲディミノヴィチ。正教徒。ロシア貴族。
記録に登場するのは1607年が最初。1608年、ヴァシーリイ・シュイスキイに不満を覚えたか、偽ドミートリイ2世のトゥーシノ陣営に身を投じた。偽ドミートリイ2世によりボヤーリンに任じられ、その政権の中枢にあった(従兵プリカーズを指揮したりもした)。
しかしトゥーシノ政権は1609年には崩壊し、偽ドミートリイ2世はカルーガに逃亡。これにともない、トゥーシノ政権に加わっていた貴族たちは離反していくが、ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公は、ドミートリイ・チェルカースキイ公とともに、最後まで偽ドミートリイ2世を支え続けた。
1610年、偽ドミートリイ2世は死んだ。
偽ドミートリイ2世から離反していった貴族たちは、ポーランド王太子ヴワディスワフをツァーリとするよう、ポーランド王ジグムント3世と交渉していた。他方、モスクワではヴァシーリー・シュイスキイが廃位され、その後実権を掌握した «セミボヤールシチナ» が、これまたヴワディスワフをツァーリ候補としてジグムント3世に接近。しかも偽ドミートリイ2世に対抗するためポーランド軍をモスクワに迎え入れていた。こうしてかつて対立していたふたつの陣営がともにヴワディスワフをツァーリとして認め、モスクワもポーランド軍の支配下に置かれた。
しかしこれに対する反発が徐々に高まり、総主教ゲルモゲーンはロシア国民に対して反ポーランド運動に立ち上がるよう檄を飛ばした。これに応えたのがリャザニ総督であったプロコーピイ・リャプノーフであり、1611年にザポロージエ・コサックの攻撃を撃退して «第一次国民軍 первое ополчение» を創設した。
最後まで偽ドミートリイ2世と行動をともにしていたドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公と、ドン・コサックを率いるイヴァン・ザルーツキイも、第一次国民軍に参加。同じくかつて偽ドミートリイ2世を支えていた貴族の中からも、プロンスキイ公、コズローフスキイ公、ヴォルコーンスキイ公、ヴォルィンスキイ公、ヴェリヤミーノフなどが加わっている。
こうして、地方貴族の代表格であったプロコーピイ・リャプノーフ、ドン・コサックのアタマーンであったイヴァン・ザルーツキイとともに、旧偽ドミートリイ2世派貴族の代表としてドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公の «トロイカ» が第一次国民軍を指揮した。
第一次国民軍は、ニージュニイ・ノーヴゴロド軍、ザライスク総督ドミートリイ・ポジャールスキイ公も加えてモスクワを攻囲。わずか半月にしてクレムリンとキタイゴーロド(クレムリン近郊の商業地)を除くモスクワを解放した。
しかしこの段階で、第一次国民軍に内部対立が発生。もともと貴族層とコサックとは利害を異にしていたが、モスクワ解放とそれに続く新政権樹立が現実味を増してきたことで、公然たる対立に発展した。その結果、リャプノーフがコサックに殺され、貴族層が第一次国民軍を離脱していった。
こうして第一次国民軍は瓦解したが、ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公はわずかな貴族層をつなぎとめ、ザルーツキイとともにクレムリンに居座るポーランド軍との戦闘を継続した。
1611年秋、ニージュニイ・ノーヴゴロドで «第二次国民軍 второе ополчение» が結成される。当初ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公はこれに反発しており、1612年春には、過去のいきさつもあって、ザルーツキイとともにプスコーフに現れた偽ドミートリイ3世に忠誠を誓っている(ザルーツキイはマリーナ・ムニーシェクと私的なつながりが深かったことも要因)。
偽ドミートリイ3世の正体は不明だが、通説ではシードルカ(イシードル)が本名とされる。1611年にノーヴゴロドに現れる。ノーヴゴロドは追われるが、プスコーフを拠点とした。1世、2世と異なり、北西部を基盤とし、ポーランドとかかわりを持たなかった。他方で北西部を侵食しつつあったスウェーデンと対立する。1612年、部下が離反し、自身プスコーフから逃亡を余儀なくされる。しかし捕らえられ、モスクワに連行される途中でポーランド軍の襲撃に逢い殺された。
1612年夏、第二次国民軍はモスクワに進軍。他方でヤン・カロル・ホドキェヴィチ率いるポーランド軍もモスクワに向かっていた。この時、あくまで第二次国民軍に反発するザルーツキイはモスクワを離れた(マリーナ・ムニーシェクと偽ドミートリイ2世の息子をツァーリにしようと画策していた)。モスクワ近郊(ノヴォデーヴィチイ修道院付近)で第二次国民軍とホドキェヴィチ軍とが衝突した際、ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公は当初傍観を決め込んだが、最後には第二次国民軍に合流し、両者は共同でホドキェヴィチ軍を撃退した。
さらに両者は共同で、クレムリンとキタイゴーロドに立てこもるポーランド軍を破り、1612年末、ついにモスクワを解放した。
モスクワ解放戦の終盤から、ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公は、第二次国民軍を召集し、以後もこれを運営してきたニージュニイ・ノーヴゴロドの商人クジマー・ミーニン、および第二次国民軍の総司令官ドミートリイ・ポジャールスキイ公とともに、«三頭政治» を構成していた。当時、この三頭政権が事実上のロシア政権であった(なお、ミーニンは平民であり、ポジャールスキイ公は下級貴族だったので、ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公が首班格であった)。
1613年、全国会議を招集。ドミートリイ・ティモフェーエヴィチ公自身もツァーリ候補にも挙げられたが、結局ツァーリに選出されたのはミハイール・ロマーノフであった。
ミハイール・ロマーノフの下でも重用され、1614年には1611年以来スウェーデンに占領されていたノーヴゴロドを解放するため軍を率いた(ただし麾下のコサックが逃亡したため、作戦は失敗)。
最後はシベリア総督。任地にて死んだ。遺体は三位一体セールギイ大修道院に、父や弟の隣に葬られた。